爆音の工房と、老技師の夢と、晴れ渡る空
# 空にクジラが泳ぐ世界で
### ――前書き・登場人物紹介――
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## ◆ この物語について
魔法が滅んだ世界で、クジラが空を泳いでいる。
蒸気と煤煙が空を覆い、人々は魔法の代わりに鉄と歯車で文明を作り直した。
そんな騒々しくて不格好で、どうしようもなく愛おしい世界を、一人の男がぶらぶらと旅している。
名前はサイラス・ハリソン。見た目は25歳くらいの、日焼けした旅人。
正体は、千年前に作られた「人工魔法使い」の生き残り。
魔法は使えない。飛べない。炎も出せない。
ただ、死なないだけ。
腹を刺されても再生する体と、千年分の旅の経験と、あとは少しばかりのスチームガジェット。
それだけを持って、彼は今日も見知らぬ街に降り立つ。
なぜ旅をするのか。
それは昔、死んだ誰かと交わした約束があるからだ。
「世界を見て回って、私に教えて」と笑った女性の言葉が、千年経った今も、彼の足を動かし続けている。
これは、終わりの見えない旅の記録。
空でクジラが泳ぐ、煤と蒸気と人情の世界で、男が歩き続ける話。
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## ◆ 世界について――ヴェイパリスへようこそ
舞台は惑星ヴェイパリス。かつては魔法が満ちた美しい星だったが、今はちょっと違う。
千年前、魔法使いが生まれなくなって魔法文明が崩壊した。世界は一度、魔獣に蹂躙されて闇に沈んだ。
けれど人間はしぶとかった。
魔法が使えないなら、機械を作ればいい。
試行錯誤の末に生まれたのが「スチームパンク文明」。大気中のエネルギーを圧縮した蒸気機関が世界を動かし、巨大な飛行船が空を横切り、真鍮のパイプが街中を縫うように走っている。魔法のような優雅さはないが、煤と油まみれのその文明は、確かな熱を放っている。
エネルギーが富の基準となり、「ギルス(GSN)」というエネルギー本位制の通貨が流通する。覇権国家エーテルガルド連邦(モデル:アメリカ的自由主義)が牽引する現代の傍らで、魔核資源を独占するラスカーン凍土帝国(モデル:ロシア的権威主義)が対立し、「世界の工場」大龍魔導工廠(モデル:中国)が暗躍する。
旧時代の遺物「魔核」と、新時代の動力「蒸気機関」。
高価で強力な魔道具と、安くて量産できる機械の群れ。
その狭間で、人々は今日も必死に生きている。
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## ◆ 登場人物
### サイラス・ハリソン(サイ)
**「千年生きた、失敗作の旅人」**
> 見た目:25歳前後。短髪、浅黒い肌、筋肉質。身長180cm強。
> 職業:放浪者・傭兵・便利屋・何でも屋
千年前の魔法文明が生み出した「人工魔法使い」の一人。
製作者の名はロレーナ・レイヴンシェイド。彼女が組み込んだ魔核によって、サイラスは老いず、致命傷を受けても再生し、千年を生き続けている。
ただし、魔法は一切使えない。「生きること」に全振りした設計のため、攻撃魔法どころか日常魔法すらゼロ。戦うときは鉄の拳と長年の経験と機転で、泥臭く、不格好に戦う。
好奇心旺盛でユーモアがあり、どんな人間にも自然に馴染む。千年の旅で培った達観と、なぜか消えない青年らしい純粋さが同居している。
彼には、定期的に記憶と感情を「あるもの」に預ける習慣がある。積み重なりすぎた感情は魂を腐らせる。千年分の喜びも悲しみも怒りも、一人の人間には抱えきれない。だから捨てる。生き続けるために。
感情をリセットした直後の彼は、まるで子供のように、あらゆる感覚を新鮮に受け取る。慣れたはずの味が、知っているはずの景色が、初めてのように感じられる。それは不思議な体験であり、少しだけ寂しいことでもあった。
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### SiS-001「シス」
**「空を泳ぐ、世界の記憶庫」**
> 外見:全長50メートルを超えるシロナガスクジラ。空を浮遊している。
> 正体:千年前の魔核実験で生まれた観測生命体
ヴェイパリスの空を、今日もクジラが泳いでいる。
人々はそれを「雲」だとか「蜃気楼」だとか思っている。でも、そこにいる。ずっといる。
シスはロレーナが最初に関わった魔核実験から偶発的に生まれた存在で、無限に近い記憶容量と、物理的な干渉を受け付けない不死の体を持つ。
その能力を生かし、「世界を観測・記録し続ける者」として、千年を過ごしてきた。
サイラスが定期的に彼の異空間に転移してくるのは、感情と記憶を預けるためだ。
シスはそれを「世界の記録」として永遠に保存する。サイラスの喜びも、悲しみも、ロレーナへの想いも、すべて星のようにシスの中で瞬き続けている。
温和で老成した語り口。サイラスにとっては相談役であり、茶飲み友達であり、千年間ずっと傍にいてくれた唯一の同志。
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### ロレーナ・レイヴンシェイド(レナ)【故人】
**「千年前に死んだ、サイラスの全ての始まり」**
> 外見:白金髪のゆるウェーブロング、白磁の肌、童顔。身長158cm。
> 正体:千年前の天才魔法使い。「神童」と呼ばれた研究者
もうこの世界にいない。千年前に死んだ。
それでも彼女は、サイラスという存在の根幹を作り続けている。
サイラスを作ったのは彼女だ。シスに命を吹き込んだのも彼女だ。「世界を見て回って」という約束が、サイラスを今も歩かせている。
天才肌だが、倫理よりも自分の知的好奇心を優先してしまうところがあった。夢見る乙女の気質で、サイラスへの愛情は深く、内心では「理想の旦那様を自分で作ってしまおう」くらいの気概でいた節もある。
サイラスが何度感情をシスに預けても、ロレーナにまつわる想いだけは、いつの間にか胸の中に戻ってきてしまう。それは記憶というよりも、魂に刻まれた傷跡のようなものなのかもしれない。
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## ◆ 作品のキーワード
`#ロードノベル` `#スチームパンク` `#不老不死` `#千年生きた主人公` `#魔法が滅んだ世界` `#魔獣` `#旅` `#哀愁` `#空飛ぶクジラ` `#異世界ファンタジー`
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*それでは、蒸気と煤煙の世界へ。*
*空にクジラが泳ぐ、この騒々しくも愛おしい星で――旅は、始まる。*
【運河の船室と、一人息子の悩みと、工房のある村】
フォストリアを出た蒸気船は、静かだった。
少なくとも、これまで泊まり歩いた街の基準でいえば。低く一定のエンジン音と、船底が水を割るたびに生まれる白い泡の音は確かにある。しかしそれらは、バレストルの工場街で聞き続けたピストンの怒号とも、フォストリアの運河で響いた荷役人夫の掛け声とも種類が違う、穏やかで単調なリズムだった。
サイラス・ハリソンは、船の上部デッキに据え付けられた木製のベンチに腰を下ろし、流れる景色をぼんやりと眺めていた。
フォストリアの石造りの街並みは、最初の大きなカーブを曲がり切った時点で視界から消えていた。代わりに広がったのは、運河の両岸に続く葦の群れと、その向こうに広がる草地だ。スチームパイプが道沿いに伸び、時々継ぎ目からスチームが漏れている。田舎の空は広く、低い雲がゆっくりと東へ流れていた。フォストリアに着いた日に見た、夕暮れの水面に溶けるシスの輪郭が、遠い記憶のように思い出された。あの街ではとうとう一度しか姿を見かけなかった。
上部デッキの乗客は少なかった。
隅のベンチで毛布を膝にかけて眠っている老人、手すりに寄りかかって煙草を吸っている中年の男、荷物をすべてデッキに広げてなにかを数えている商人らしき女性。全員が互いに無関心で、船が運河をゆっくりとさかのぼる間、誰も誰とも口を利かなかった。
(フォストリアより静かだな)
サイラスは小さく息を吐いた。旅が続くにつれて、荷物はほんの少し重くなっている。バックパックの底には印刷地図と塩漬け川魚の干物、それから荷揚げで稼いだ路銀の残りが入っている。行き先はラヴェン・ジャンクション。運河の分岐点にある街で、そこから先どこへ向かうかはまだ決めていない。それでいいとサイラスは思っていた。決めていないことが、旅の醍醐味の半分だとも言えるのだから。
乗船してから一時間ほどが経った頃、上部デッキに新しい人影が上がってきた。
年は二十代の半ばか。サイラスの外見年齢よりいくつか若く、それよりずっと疲れた顔をしていた。短く刈った茶色の髪に、旅慣れていない人間特有の、着慣れない外出着。上着の袖がほんの少し丸まっているのは、急いで着込んだ名残だろう。片手に紙袋を提げており、その中に焼いた栗らしきものが入っているのが、近くを通った時の甘い香りで分かった。
青年はデッキをひと通り見回してから、サイラスの二つ隣のベンチに腰を下ろした。膝の上に紙袋を置き、なにかを考えるような顔で、流れる葦の原を眺め始める。
特別なことは何もなかった。デッキに人が増えた。それだけのことだ。
しかしサイラスは、ふとその横顔を観察した。旅の疲れとは異なり、長い時間をかけて積み上がった種類の消耗が顔に見える。眉の間に、習慣的に刻まれたような薄い皺があった。感情リセット後の今は、人の表情が感傷なく、純粋な情報として届いてくる。
(なにか抱えている顔だな)
青年が紙袋を少し開け、焼き栗を一つ取り出した。それを口に入れてゆっくりと噛みながら、また葦を眺める。
「乗り換えですか、ラヴェン・ジャンクションで」
サイラスが声をかけたのは、特に計算があってのことではなかった。ただ、長い沈黙よりも言葉のある方が、場合によっては居心地がいい、という経験則だけがそこにあった。
青年がこちらを向いた。驚いた顔というよりは、今まで自分が視野の外に置いていたものが急に現れた時の、少し間の抜けた顔だ。
「あ、いえ。ジャンクションの手前で降りるんです。途中の、小さい村で」
「なるほど」
「あなたは?」
「終点まで」とサイラスは答えた。「まだ先のことを決めていないので」
青年はそれを聞いて、少しだけ表情を緩めた。「旅の人ですか」
「何でも屋みたいなものです。最近はフォストリアで荷揚げをしていました」
「荷揚げを」
「食べていかないといけないので」
青年は苦笑した。その苦笑に、警戒ではなく共感に似た何かが混じっていた。
「俺も似たようなもんです」と青年が言った。「うちは小さな印刷屋で、自分が切り盛りしています。たまにこっちに来るんですが、来るたびに頭が痛くて」
「こっちに、というのは」
「父の工房があるんです。一人で暮らしていて、なかなか言うことを聞いてくれなくて」
それだけを話すと、青年は自己紹介を思い出したように「アンセルです。アンセル・ワイト」と名乗った。
「サイラス・ハリソン。旅人です」
アンセルは頷き、また焼き栗を一つ取り出して、ためらってからサイラスの方に差し出した。
「よかったら。まだあるので」
「ありがとう」
受け取って口に入れると、ほくほくとした甘みが舌の上に広がった。フォストリアで買ったのだろう、まだほんのりと温かい。塩を少し利かせてある。
「お父さんの工房というのは、どんな仕事をしているんですか」
「機械いじりです。もともと父はエーテルガルド連邦空軍の技術士官をしていて、退役してから個人で工房を開いて。今も一人で何か作っているらしいんですが、何を作っているのか、あまり教えてもらえないんですよ」
「教えてもらえない」
「頑固な人で」とアンセルは言い、少し疲れたように首を振った。「もういい歳なので、一緒に住まないかと前から言っているんですが、返事はいつも『まだやることがある』の一点張りで。それで定期的に様子を見に行っているんです。今日もそのついで、という体裁で」
「ついで、という体裁」
「父に会う前に、村の取引先に顔を出して書類を受け取る用事があったんです。まあ本音は、その用事がなくても来るんですが。なんとなく、ついでという体裁がないと来づらくて」
最後の言葉は、独り言のように小さかった。サイラスはそれを聞かなかったふりをせず、かといって拾い上げることもしなかった。
船が緩いカーブを曲がる。葦の群れが途切れ、遠くに農地が現れた。耕されたばかりの畑の黒い土が、曇天の光を静かに吸い込んでいる。
(元・軍の技術士官が、退役後に個人で工房を開いて、何かを作り続けている)
それだけで、サイラスの中で何かが引っかかった。軍の技術士官というのは、ただ機械を整備する人間ではない。設計に関わり、試作に携わり、運用の現場で機体の限界を自分の体で把握してきた人間だ。そういう人間が、退役後も「やること」があると言い続けている。
「工房の規模はどのくらいですか」
「一人でやっているので、こじんまりとしたものです。でも……外に妙なものがありましたね」とアンセルが言いかけ、少し間を置いた。「草地を切り開いて、なにか細長い空き地を作っているんです。最初に見た時は意味が分からなくて、父に聞いても教えてくれませんでした」
「細長い空き地」
「はい。木を何本か切って、平らにならしてありました。でも何のためのものかは、俺にはわかりません」
滑走路だ、とサイラスは即座に思った。
それ以上の推測は、まだしなかった。しかし興味は確実に動いた。人工物であれ自然のものであれ、千年の旅の中で、「分からないもの」ほどサイラスを引きつけるものはそう多くない。
「失礼なことを聞くようですが」とサイラスは言った。「差し支えなければ、お父さんの工房に同行させてもらえませんか」
アンセルが少し驚いた顔をこちらに向けた。
「父の工房に、ですか?」
「元・軍の技術士官が個人で開いている工房というのは、なかなか見る機会がないものです。興味があります」
アンセルはしばらく考えた。迷っているのではなく、条件を整理しているような顔だ。
「父は偏屈なので、気に入られない可能性がありますが」
「構いません」
「なにか聞いても、黙ってしまうかもしれませんが」
「それも構いません。見るだけで十分です」
アンセルはもう一度考え、「まあ、父が気に入らなければ帰れと言うでしょうし、それまでは構わないと思います」と言った。「一応、旅の人で道に迷ったから案内した、という体裁にしておきましょうか」
「助かります」
こうして、同行者が一人増えた。
船はさらに一時間ほど進み、岸の向こうに小さな村の輪郭が現れ始めた頃、アンセルが立ち上がった。「次が降り場です」と言って、荷物を手に取る。栗の袋はほとんど空になっていた。サイラスもバックパックを背負い直し、船の揺れに合わせて立ち上がった。
***
桟橋は古い木材で組まれており、渡るたびにきしきしと音を立てた。岸の向こうは未舗装の道で、両脇に低い石垣が続いている。石垣の向こうは畑だ。収穫を終えた後の、空の畝が並んでいた。
「このまま北に進みます」とアンセルが言い、道を歩き始めた。「村の中心部を抜けて、少し丘に上がったところに森があって、その奥に父の工房があります」
「どのくらいかかりますか」
「村から工房まで、ゆっくり歩いて三十分くらいでしょうか。急な坂はないんですが、森の中の道が少し分かりにくくなってますね」
村の中心部は小さかった。通り沿いに商店が数軒、それから木造の集会所らしき建物と、その脇に通信設備の鉄塔が一本。真鍮製のパイプが外壁に這っている建物もあったが、バレストルのように街全体を覆い尽くすようなものではなく、あくまで必要な場所にだけある、という印象だ。
平日の昼前で、通りに人は少ない。すれ違ったのは犬一匹と、荷車を引く年配の男だけだった。アンセルは男に軽く会釈しながら通り過ぎる。顔見知りらしい。
「この村に、よく来るんですか」とサイラスが聞いた。
「二ヶ月に一度くらいは」とアンセルが答えた。「仕事が忙しくなってからは、間が空いてしまうことも多いですが。父が心配で、というより……正直、こっちが顔を見たくて来ている部分もあります」
「いい親子関係ですね」
アンセルは苦笑した。「そうでしょうか。いつ会っても言い合いになるんですが」
「言い合いができるのは、互いのことを分かっているからでしょう」
アンセルはその言葉をどう受け取ったのか、しばらく黙って歩いた。石垣が途切れる辺りで、道は緩やかに上り始めた。草地の中に踏み固められた細い道が続いており、その先に林の緑が濃くなっている。風が一度吹いて、枯れ草の匂いと、松ヤニに似た樹木の香りが混じって届いた。
木々の間に入り込むにつれ、足元の土が柔らかくなってきた。踏みならされてはいるが、頻繁に人が通る道ではない。時折、木の根が道を横切る。
林を抜けた先に、小さな開けた場所があった。
「あそこです」とアンセルが言った。
木造の建物が一棟。外壁の塗装は剥げ、屋根に苔が生えている。年季は入っているが、土台はしっかりしていた。建物の脇に、木を切り倒した跡がいくつもあり、その先に向かって草を刈り取った平らな空き地が、細長く奥へ伸びていた。
サイラスはその空き地の形と長さを目で測った。
(やはり、滑走路だ)
ただし、現役の飛行場のそれよりずっと短い。大型の飛行船が使えるような代物ではない。しかし小型の、軽量の機体であれば──。
そこまで考えた時、建物の奥から音が聞こえてきた。
最初は低い唸りだ。続いてそれが急速に膨らみ、耳の奥へ突き刺さるような高音へと変わっていく。枯れ葉が、音の圧力だけで地面から数センチ浮いた。鳥が一羽、林の奥へ向かって逃げていった。
大気圧縮エンジンの爆音。しかも、相当に高回転で回っている。
アンセルが顔をしかめ、耳を手で覆った。口を動かしているが、もう声は聞こえない。サイラスも顎を引き、バックパックの肩紐を握り直した。記憶の底、記録に成り果てたいつかの光景が思い出される。
サイラスはこの音と振動を知っている。これは、ただの整備工房ではない。
その確信だけが、爆音の中でも揺らがなかった。
【轟音の扉と、老技師の夢想と、一夜の問答】
爆音は、近づくほどに形を変えた。
最初は「大きな音だ」という認識だったものが、工房の壁から十メートルほどの距離に入った瞬間、もはや音ではなく圧力になった。空気そのものが振動しており、胸の中心から肺が揺さぶられるような感覚がある。隣を歩くアンセルが何かを叫んでいるが、声の輪郭が完全に掻き消されて、口が動いているという事実だけが残った。
サイラスは顎を引き、足を止めた。
工房の建物は、外から見るよりも横に長かった。正面の壁に窓はなく、代わりに鉄製の大きなシャッターが並んでいる。搬入口だろう。シャッターの隙間から、白い蒸気がわずかに漏れ出していた。建物の上部には、煙突ではなく太い排気管が何本か突き出ており、その先端から黒ずんだ熱気が間欠的に吹き上がっている。大気圧縮エンジンの排熱だ。それも、相当に高回転で回し続けているものの。
アンセルが先に動いた。
駆け出して一番手前のシャッターに両手をつき、拳の付け根で力任せに叩き始める。金属が金属を打つ音は出ているはずだが、当然、爆音に飲み込まれて何も聞こえない。それでもアンセルは叩き続けた。一定のリズムで、何度も、何度も。肩が前後に揺れ、髪が乱れる。これを繰り返してきた回数が、その動きに刻まれていた。
一分ほど経った頃、エンジンの音が変わり始めた。
高音域の成分が少しずつ落ち、回転が緩やかになっていく。波が引くように爆音が退いていき、やがて建物全体を震わせていた振動が収まった。最後に蒸気の圧力が抜ける音がして、それきり静かになる。
鳥の声が聞こえた。林の奥から、ごく当たり前の声で。
アンセルが振り返り、苦い顔で肩をすくめた。「毎回これです」と口が動いた。今度は聞こえた。
シャッターの一枚が内側からゆっくりと持ち上がった。金属が擦れる音と共に、人間一人が入れるほどの隙間が開く。その向こうから、作業着姿の人影が出てきた。
小柄な老人だった。
身長はサイラスより頭ひとつ分以上低い。しかし肩の幅は広く、腕は細くない。長年、重いものを扱い続けてきた体の名残だろう。作業着は油と煤で黒ずんでおり、袖の部分に焦げた跡がいくつかある。白髪まじりの短い髪に、使い込まれた革製のゴーグルが額に乗っていた。
老人はアンセルをひと目見て、短く頷いた。次にサイラスを見た。
その目は鋭かった。値踏みとも観察とも違う、もっと直接的な目の動きだ。サイラスの頭の天辺から足元まで、一秒かけて見てから、今度はアンセルを見る。
「誰だ」
掠れた低い声だった。
「旅の人で、船の中で一緒になったんです。工房を見学したいというので」とアンセルが答えた。用意してあった「道に迷った」という体裁は、既に使わないと判断したらしい。
老人はもう一度サイラスを見た。
「見学」
「興味があります」とサイラスは言った。「元・空軍の技術士官が個人で構えている工房というのは、珍しいものだと思いましたので」
老人は三秒ほど黙ってから、「中に入れ。ここは話すような場所じゃない」と言い、先に歩き始めた。
***
工房の内部は、薄暗かった。
天井から吊り下げられたスチームランプがいくつかあったが、建物の規模に対して数が少なく、光が届かない隅が多い。目が慣れるにつれて、工房の全体像が見えてきた。
広い。外から想像したよりずっと広く、奥行きもある。中央の作業スペースには、大型の旋盤や板金加工機が並んでおり、それぞれに真鍮のパイプが接続されていた。床は油染みで黒く、至る所に金属の切り粉が散っている。ラックに工具が整然と並び、棚には部品の箱が積み上がっていた。どれも年季が入っているが、乱雑ではない。長年使い続けてきた職人の空間だ。
そして、その奥に。
布を被せられた大きな物体がある。
全長は六メートルほど。横に張り出した布の端が、翼の形を示していた。サイラスはそれを見て、一瞬足を止めた。
アンセルは気づいていないのか、あるいは以前にも見ていて慣れているのか、老人の後を躊躇なく歩いていく。サイラスはもう一秒だけ布を見てから、二人の後に続いた。
工房の奥に扉があり、その向こうが住居になっていた。
居間に入ると、空気の質が変わった。工房の機械油と金属の臭いが薄れ、代わりに古い木材と、かすかな石鹸の香りがする。天井が低く、窓が小さいが、清潔だった。テーブルが一つ、椅子が三脚。棚に本が並んでいる。壁には数枚の図面が画鋲で留めてあり、技術的な記号が細かく書き込まれていた。
老人は椅子の一つを引いて腰を下ろし、すぐにゴーグルを外して棚の上に置いた。
「座れ」
アンセルが「お茶を入れます」と言い、台所の方へ消えた。慣れた動きだ。老人はその背中を見てから、また何も言わずにサイラスを眺めた。
「アンセルから聞いたのか。退役後に工房を開いたと」
「はい」
「どこから来た」
「最近はフォストリアにいました。その前はマキナ村という農村で、その前はバレストルに」
老人は少し顎を引いた。「バレストル。工場街か」
「軍事関係の生産工場のある街でした」
「何をしていた」
「便利屋のようなものです。荒事から荷揚げまで、来たものは断らないようにしています」
老人はそれを聞いて、初めて表情の一部を動かした。眉が少しだけ上がる。評価でも軽蔑でもなく、ただ「予想と違った」という顔だ。
アンセルが湯気の立つカップを三つ盆に乗せて戻ってきた。テーブルに置いてから、老人の隣に座る。カップの中はハーブを煮出した薄い色の液体だ。香りが柔らかく、工房の空気の名残を少し和らげてくれた。
「父さん」とアンセルが言った。声の調子が、船の中とは少し違う。きちんと整えた、覚悟のある声だ。「今回は、またちゃんと話をしたいと思って来たんだ。一緒に住むことについて考えてくれた?」
老人はカップを手に取り、一口飲んだ。それから、まるで聞こえなかったかのように窓の外を見た。
「もうそれなりの歳だろ」とアンセルが続けた。「ここは一人には広すぎるし、冬は寒い。こっちも心配で仕事に集中できないよ……」
「まだやることがある」
老人は窓を見たまま言った。
アンセルが短く息を吐く。予想していた答えだ、という息の吐き方だった。
サイラスはカップを両手で包みながら、老人の横顔を見た。
「やること、というのは」とサイラスは言った。「工房の奥にある、布を被せてある機体のことですか」
老人の視線が窓からこちらに戻ってきた。今度は少し違う角度の目だ。「見たか」
「布が被さっているのを。翼の形だと思いました」
老人は少しの間、サイラスを見つめた。それからテーブルに肘をつき、組んだ指の上に顎を乗せた。
「スチーム・プレーンだ」
アンセルが「え」と声を上げた。今まで聞いていなかったらしい。「あれ、飛行機なの?」
「完成途中だがな」と老人は言った。「まだエンジンの調整が終わっていない」
サイラスは何も言わなかった。続きを待った。
老人はカップをテーブルに置き、窓の外に目を向けた。光の入り方が変わり始めている。午後に差し掛かっていた。
「俺が現役だった頃」と老人は静かに話し始めた。「各国の間で、小競り合いが続いていた。正式な戦争じゃない。国境付近での睨み合いや、空路の妨害や、代理戦争のような小さな衝突だ。そういう時代があった」
「知っています」とサイラスは言った。
老人が少し眉を動かしたが、続けた。「エーテルガルドの空軍は、数だけは揃えられた。大気圧縮エンジンを大量生産できるのは、この国の強みだからな。しかし、それだけだ。ラスカーンのフライング・フォートレスは別格として、アイゼン・ギルドの機体とまともにやり合えば、性能差が出た。エンジンの質が違いすぎる。インダラの羽ばたき機は数理魔法で動きを最適化しているから、機動性で勝てる気がしない。大龍の機体は……」老人は少し口元を曲げた。「ありゃ論外だ。物量戦という点ではうちと似ているが、あちらは乗り手ごと使い捨てにする設計だ」
「そうですね」とサイラスは静かに言った。
老人が顔をこちらに向けた。「乗ったことがあるのか」
「各国の機体に、少しずつ」
「軍人じゃないだろう」
「軍の払い下げ品などを横流しする連中は、どこにでもいるものですから」
老人は何も言わなかった。信じるとも疑うとも取れる顔で、少しの間サイラスを見ていた。
「続けてください」とサイラスは言った。「何を作りたいんですか」
老人は一度目を伏せた。長い息を吐いてから、また話し始めた。
「魔核に頼らない機体を作りたい。ラスカーンのように特級魔核を心臓部に据えたものじゃなく、かといってアイゼンのように生産性を度外視した精密品でもなく、大龍のように安かろう悪かろうの使い捨てでもない。大気圧縮エンジンで動く機体で、エネルギー効率を上げて、操縦の安定性を上げて、整備がしやすい設計にする」
「性能のトップを目指すわけではなく」
「そうだ。飛び抜けた性能じゃなくていい。平均的に上げる。それより大事なのは……」老人が少し言葉を止めた。「乗った奴が、無事に帰ってこられる機体だ」
居間に沈黙が落ちた。
アンセルが、それまで聞いていた顔のまま、ゆっくりと視線をテーブルに下げた。サイラスはカップの湯気が細くなっていくのを見ていた。
「現役時代に、何人か見てきた」と老人は続けた。声が少し低くなった。「エンジンの不具合で落ちた奴、脱出が間に合わなかった奴、整備ミスで飛べなくなった奴。機体の問題で死ぬ必要がない人間が、機体の問題で死んだ。そういうことをなくしたい。それだけだ」
「なるほど」とサイラスは言った。
アンセルが顔を上げた。「でも、父さん。もう戦争なんてないだろ。各国の関係も落ち着いている。今さら、この小さい工房で国の軍事力に関わるようなことを……個人でやる意味は、あるの?」
老人は少しの間、息子を見ていた。
「意味はないのかもしれん」
アンセルが口を開こうとした。老人が先に続けた。
「だが、意義はある。少なくとも、俺の人生には」
それきり老人は黙った。
アンセルも何も言わなかった。言い争いになる時の息の整え方とは違う、いったん腑に落ちた時の沈黙だ。完全に納得したわけでもないが、押し返す言葉が出てこない時の顔をしていた。
窓の外の光がさらに傾いていた。森の中は暮れるのが早い。
老人がテーブルに手をついて立ち上がり、「今夜はここに泊まれ。村まで戻るには遅い」と言った。命令の口調だったが、拒否を想定していない穏やかさもあった。「飯は各自でやれ。材料は台所にある」
「わかったよ」とアンセルが答えた。「ありがとう、父さん」
老人は短く頷き、工房の方へ続く扉から出ていった。しばらくして、扉の向こうで椅子を引く音がした。夜でも作業は続けるのだろう。
アンセルはテーブルに残ったカップを眺めた。「何年も同じことの繰り返しです」と、独り言のように言った。「言い合いにすらならない、父の中の答えは全く揺れ動かないし……こちらが納得しなくても構わないって感じです」
「お父さんの言っていることは、筋が通っていると思います」とサイラスは言った。
アンセルが少し驚いた顔をした。
「乗り手が帰ってこられる機体を作るというのは、派手な目標ではないですが、重い動機だ」
「…そうですね」とアンセルは静かに言い、立ち上がった。「夕飯を作りますね」
***
翌朝、サイラスは日が出る前に目が覚めた。
あてがわれた部屋は工房の奥の小さな空き部屋で、折り畳みのコットが一つあるだけだった。壁に図面が貼ってある。ベッドではなく設計台として使われていた部屋なのだろう。サイラスはコットに横になりながら、天井の木目を眺めていた。
スチーム・プレーン。大気圧縮エンジンだけで飛ぶ複葉機。魔核なし、大量生産を念頭に置いた設計、乗り手を生きて帰すことを最優先にした機体。
(面白いな)
千年の旅の中で、サイラスはいくつかの空を飛んだことがある。昔の魔法の術式で体を浮かせた飛行から、今の空を飛ぶ飛行船の草創期の試験飛行に立ち会ったことも、各国の軍用機に短期間乗り込んだこともある。それぞれの機体に、それぞれの設計思想があり、それぞれの欠点があった。
老人が指摘した内容は、正しかった。エーテルガルドの機体は確かに大量生産向きに割り切られており、エンジンの性能でいえばアイゼン・ギルドには届かない。しかしそれ以上に、メンテナンス性の問題が実戦では響く。部品の交換が面倒で、熟練した整備士がいなければ本来の性能を維持できない設計に、現場では苦労していた。
朝の光が窓から差し始めた頃、台所の方からアンセルが動く音がした。サイラスは起き上がり、顔を洗ってから居間に出た。
アンセルが昨夜の残りのスープを温め直している。老人はもう作業場にいた。シャッターの向こうから、エンジンを始動させる前の準備音が聞こえてくる。
「少し聞いていいですか」とサイラスはアンセルに言った。
「何でしょう」
「お父さんの機体の手伝いをしたいと思っています。各国の機体に乗った経験がある。それが役に立つかもしれないし、動作確認の乗り手がいれば、完成が早まるかもしれない」
アンセルが手を止めた。スープを混ぜる動きが止まり、こちらを見る。
「父が……受け入れると思いますか」
「分かりません。ただ、乗り手がいなければ、完成しても試せないでしょう」
アンセルはしばらく考えた。「話してみます。怒られるかもしれないけど」
老人に話を持っていったのは、朝食を終えた後だった。
作業場に入ると、老人は布を被せた機体の傍で部品と向き合っていた。サイラスとアンセルの気配に気づいて顔を上げる。
「あなたの手伝いをさせてもらえませんか」とサイラスは言った。前置きなしの言い方を選んだ。老人が好む話し方は、昨夜の会話で分かっていた。
老人が眉を寄せた。「お前が」
「各国の航空機に乗ったことがあると言いました。動作確認の乗り手になれると思います。それと重い部品を扱う力仕事にも、お役に立てます」
老人はサイラスを頭の天辺から足元まで、もう一度見た。昨夜と同じ直接的な目の動きだ。
「その若さで、小競り合いの頃の機体に乗ったというのか」
「軍の払い下げが……」
「そういう話じゃない」と老人が遮った。「あの頃の機体に乗るには、整備と運用の両方を知らないといけない。軍の払い下げ品を横流しするような連中から手に入れた機体で、一体どこまで飛べる」
サイラスは少し考えてから、「エーテルガルドに配備されていたプロトタイプの機体」と言った。「スロットルの遊びが大きくて、中速域でエンジンの回転が安定しにくかった。右の翼端の方が左より揚力が若干弱くて、水平飛行では常に少し左に傾く癖もある。それを補正するために操縦桿を微妙に右に保持し続けないといけなかったし--あと着地の際は、ランディングギアの右脚の緩衝器の戻りが遅いので、速度を落としきる前に降ろすとバウンドしてました」
老人の顔から動きが消えた。
完全な無表情ではない。むしろ、何かを処理している顔だ。三秒、四秒、黙って立っていた。アンセルが隣で息を詰めている気配がある。
「……プロトタイプ機の癖を、お前は知っているのか」
「乗りましたので」
「正式配備の前の型だ。整備の記録から消えている機体が何機かある。そのうちの一機を、どこかで手に入れたということか」
「そういうことにしておいてください」
老人はもう一秒黙ってから、深く息を吐いた。腕を組み、再びサイラスを見る。その目の鋭さは変わらないが、角度が少し違っていた。
「わかった。手を貸してもらおう」
アンセルが「え」と声を上げた。「本当に?」
「乗り手がいなければ、完成しても意味がない。それはこっちも分かっている」老人はアンセルを見た。「お前の話は、機体が完成してから考える」
「考えるだけじゃなくて一緒に住んでほしいんだけど……言質は取ったからね。本当に完成したら考えてよ」
老人は返事をしなかった。しかし、それは否定でもなかった。
サイラスは少しだけ口元を動かした。
「では、今日から始めましょう」と言ってから、布が被せられた機体の方に目を向けた。布の端から、翼の骨格が一部だけ見えている。薄い金属と木材を組み合わせた複葉の構造。形は既存機と同じでも、現行の軍用機とは違う、見慣れない設計だった。
(どんな空を飛ぶんだろう)
その問いが、純粋な好奇心として胸の中に生まれた。感情リセット後の今の自分には、珍しいほど素直な感触だ。
【設計図通りの手と、咳き込む職人と、完成の朝】
布が取り除かれた時、機体はそこにあった。
ただそこにあった、というだけの言い方がふさわしいほど、それは静かに存在していた。派手さはない。艶やかな塗装もなく、軍用機特有の威圧感もない。しかし薄い光の中にさらされた機体は、骨格の一本一本に至るまで、なんらかの意図が宿っているような印象を持っていた。設計者の考えが、金属と木材という形で固まったもの。それが机の上の設計図と違うのは、重さと体積があるというだけのことだ。
老人の名はゴードン・ワイト。アンセルの父親だ。
昨日の夜の問答の中では、名前を名乗らなかった。サイラスも聞かなかった。朝の作業が始まってから、工具棚の端に貼りつけてあった古い退役証明書の切れ端を目にして、はじめて名前を知った。
「右の翼桁のリベット留めを、全部確認してくれ」とゴードンが言った。台の上に広げた図面を見ながら、視線はこちらに向けていない。「増し締めが必要な箇所があるはずだ。感触で分かる」
「分かりました」
サイラスは翼の付け根から先端に向けて、リベットを一つずつ親指と人差し指で押さえた。金属の頭が指先に当たる感触を、一個ずつ確かめていく。締め付けが甘いリベットは、わずかに動く。それを見つけ次第、工具で増し締めをして、また次へ。
単純な作業だ。しかし、単純な作業こそ集中力が要る。指先の感触を探りながら、サイラスは手を進めた。
ゴードンは機体の反対側にいた。エンジン周りの配管を点検しており、時折メモを取りながら何かを確かめている。声を出すことはなく、作業場には二人の動く音だけがあった。機体の金属を叩く乾いた音、工具が床に当たる音、ゴードンが図面をめくる音。それ以外は静かだ。爆音が止んだ作業場は、外の森の気配が入り込んでくるくらい、穏やかだった。
昼過ぎまで続けてから、アンセルが昼食を作った。
居間のテーブルに三人で向き合って食べながら、アンセルがサイラスに今日の進捗を聞いた。ゴードンは何も言わなかったが、アンセルの問いへのサイラスの返答を、食事の手を動かしながら聞いていた。
「翼桁は右が七か所、左が三か所の増し締めが必要でした。エンジン周りは、老人……ゴードンさんが見ています」
「父さんが見てるんなら大丈夫だろうとは思うんだけど」とアンセルが言い、ゴードンの方に目を向けた。「今日の様子はどうなの」
ゴードンは椀を置いた。「昨日より進んだ」
「何日くらいかかりそう?」
「分からん。やることが終わったら終わる」
アンセルが軽く息を吐いた。
二日目の夕方、アンセルが作業場に顔を出した。ゴードンとサイラスが機体の下に潜り込んで脚部の取り付けを確認している最中だった。
「明日には戻らないといけないんだ」とアンセルは言った。「印刷の仕事が入っていて、うちにいないといけない」
ゴードンは機体の下から這い出し、膝の油を布で拭きながら「分かった」と言った。
「父さん」
「分かった、と言った」
アンセルは少しの間立っていた。言い残すべきことを整理しているような間だ。それから「無茶だけはしないで」と言った。「連絡先、置いていくから。何かあったらすぐ知らせて」
「お前に知らせるようなことは起きん」
「そういうことを言うんじゃなくて……」アンセルが口をつぐんだ。それから、諦めでも怒りでもない声で「分かった」と言った。「また来るよ」
翌朝、アンセルは村へ下りていった。
背中が森の中に消えていくのをゴードンは見なかった。すでに作業場へ戻っていた。サイラスは林の入り口まで見送り、少し遅れて作業場に入った。
(息子が心配しているのは、分かっているはずだ)
工房の中には、スチームランプの光だけがある。ゴードンが機体の前に立ち、図面と現物を見比べていた。その背中は、息子が去ったことで何かを失った様子はない。ただ、作業に向かっている。それだけだ。
サイラスは工具を手に取り、前日の続きから始めた。
***
日々の作業は、一定のリズムで進んだ。
午前はエンジン周りの調整と配管の取り回しを、午後は機体の各部の組み立てと動作確認を行う。昼は互いに簡単なものを作って食べる。夜はゴードンが図面の修正をする間、サイラスは部品の整理をした。言葉は少ない。必要なことを必要なだけ言う。それがゴードンのやり方であり、サイラスもそれに合わせた。
三日目の午後に、エンジンの試運転を行った。
防音のために作業場の扉と窓を閉め切り、ゴードンがエンジンのスターターを手動で回して始動した。低い唸りが始まり、回転が上がるにつれて音が高くなっていく。シャッターの隙間から外に逃げる排気の流れが、わずかに見えた。サイラスはゴードンの指示に従い、各部の計器を読みながら数値を読み上げる。圧力、回転数、温度。ゴードンはそのたびに短く頷くか、「もう少し上げろ」と言うか、どちらかだ。
「その回転数で安定しているか」
「はい。振れは〇・三以内です」
「よし。止めろ」
エンジンが落ちると、しばらく耳鳴りが続いた。ゴードンはメモに何かを書き込み、計器の値を確認し、また何かを書いた。それを繰り返す。
「エンジンの設計は独自のものですか」とサイラスは聞いた。
「エーテルガルドの既存エンジンをベースにして、バルブのタイミングと圧縮比を変えた。部品の共通化は維持したまま、効率を上げている」
「補修部品が手に入りやすいから」
「そうだ。どんな良い機体でも、野戦で補修できなければ使い物にならない。難しい部品を使えば使うほど、整備士の腕に依存することになる。それが嫌だった」
サイラスは頷いた。理屈は単純だが、実現するのは難しい。既存部品の制約の中で性能を上げようとすれば、設計に余地がない。ゴードンはその余地を、バルブタイミングと圧縮比という、部品ではなく「動作の設定」の変更によって作り出していた。
(これはうまい手だな)
純粋に、そう思った。
***
五日目の朝のことだ。
スチームランプに火を入れようとしていたサイラスの耳に、短い音が聞こえた。
工房の奥から、かすかな咳だ。
最初は空気が乾いているせいかと思った。しかし、続けてもう一度。今度はしばらく続き、止まった。それきり工房の中は静かになったが、サイラスは手を止めたまま、扉の方を見ていた。
少しして、ゴードンが扉から出てきた。いつもと同じ歩き方で、変わらない顔をしていた。
「待たせたか」
「いいえ。始めましょうか」
「ああ」
それだけだ。ゴードンは工具を手に取り、前日の作業の続きに入った。サイラスも続く。
その日の午後にも、咳が出た。
今度は作業の途中で、ゴードンが突然動きを止めた。機体の側面に片手をついたまま、体を少し曲げ、小さく咳き込む。数回続いて、止まる。それからゆっくりと体を起こし、また手を動かし始めた。
「大丈夫ですか」とサイラスは聞いた。
「大丈夫だ」
サイラスは返事をしてから、手元の作業に戻った。
年老いた体に、過労だけではない何かがあるのは分かっていた。初日に会った時から、その気配はあった。体の重心の置き方が、疲れよりも深い場所から来ていた。サイラスの長い旅の中で、これまで何度も同じような気配を知っていた。
(止めるべきか)
一度だけ、そう考えた。夜の居間で、ゴードンが図面に向かっている背中を見ながら。
しかし答えはすぐに出た。
止めない。止めることは、今のゴードンには何の助けにもならない。この老人にとって、この機体を完成させることが、気力と体力を繋ぎとめている。それを断ち切ることは、助けではない。別の意味での終わりだ。
人には、自分の命よりも成し遂げたいものがある。
サイラスはそれを、身を持って知っていた。
***
七日目の朝、翼の最終固定が終わった。
操縦系統のワイヤーを全経路確認し、補助翼と昇降舵の動きを操縦桿と連動させて確かめる。左右の動きに引っかかりはなく、舵の効きも均一だ。着陸脚の緩衝器を圧縮して戻りを確認し、油圧系統に漏れがないことを一周して点検した。計器盤の取り付けを確認し、風防のガラスの締め付けを最終調整する。
ゴードンがすべての確認箇所をリストと照らし合わせ、最後の一項目に印をつけた。
「終わった」と老人は言った。
声に特別な高揚はなかった。ただ「終わった」という事実だけがそこにあった。しかし、その言葉が作業場の空気の中に溶けていく感触は、いつもと違った。何か重たいものが、静かに置かれたような感触だ。
サイラスは完成した機体を改めて眺めた。布が取り除かれた初日より、実感がある。自分の手が触れた場所を、体が覚えていた。右翼の増し締めをしたリベット、エンジン周りの配管の取り回し、脚部の取り付けボルト。それぞれの場所に、作業の記憶がある。
「飛ばせますか」とサイラスは言った。「明日にでも」
「本来なら地上での最終確認をもう二日はやるべきだが」とゴードンは言い、少しの間を置いた。「アンセルが来るまで待つ」
「声をかけますか」
「お前が行ってくれ。村の通信設備を使えば、アンセルの印刷屋に繋げる」
「分かりました。今から行ってきます」
ゴードンは頷いた。それからもう一度、完成した機体に目を向けた。その視線が機体の上に落ちる様子を、サイラスは一秒だけ見てから、作業場の扉に向かった。
外に出ると、午前の光が森の梢を透かしていた。
昨日まで曇っていた空に、雲の切れ目から青が見えていた。風は弱く、滑走路の草が微かに揺れている。サイラスは林の道を村へ向かって歩きながら、空を一度だけ見上げた。
(明日、飛べる)
その言葉が、静かな好奇心と共に、胸の中に留まっていた。
【滑走路の朝と、はじめての青空と、揺り椅子の静寂】
牽引車の操作桿を握る手に、エンジンの振動が伝わってくる。
小型の牽引車は四輪駆動で、大気圧縮エンジンを積んでいる。工房の端に置いてあったものを、今朝の一番仕事で引き出した。機体の主脚前部に牽引フックを取り付け、ワイヤーで牽引車と繋ぐ。それだけで一時間かかった。連結部の強度を何度も確かめ、機体の重心が牽引の向きに対して真っ直ぐになっているかを目で測り直してから、ようやくシャッターを開けた。
通常、この手の作業は三人から四人でやる。地上誘導に一人、主翼端の安定を保つのに両翼で一人ずつ、牽引の操作に一人。開けた場所での移動でも、風の影響を受けやすい複葉の翼は、扱いに気を遣う。今朝は風が弱かった。それがせめてもの救いだ。
サイラスは牽引車を最低速に保ちながら、後ろを何度も振り返った。機体が傾いていないか、翼端が何かに引っかかっていないか。首が痛くなるほど振り返りながら、少しずつ、少しずつ前へ引いていく。
工房から滑走路の端まで、距離にして三十メートルほどだ。普通に歩けば一分もかからない。二十分かけて渡り切った。
機体を滑走路の中央に据え、ブレーキをかける。牽引ワイヤーを外し、フックを収める。
息を一つ、静かに吐いた。
滑走路の脇、草の上に折り畳みの椅子が一脚置いてある。観測用の機材が台の上に並んでおり、圧力計や速度計に繋がった細いワイヤーが、滑走路に沿って延びていた。機体の飛行データを地上から記録するための装置だ。ゴードンが昨日のうちに、一人で設置していた。
その椅子に、ゴードンが腰かけていた。
昨夜、機体の完成直後に老人は倒れた。作業場の床の上で、膝をついた格好のまま動けなくなり、サイラスが抱えてベッドまで運んだ。気が抜けたのだろう、とは思った。何日もの緊張が、完成という事実とともに一度に緩んだ。そういう体の崩れ方だった。その日は夜通し横になったままで、夕食も口にしなかった。
今朝は、起き上がれるくらいには戻っていた。
しかしベッドを離れた時の足取りは、これまでより遅かった。いつもより慎重に、重心を確かめながら歩いていた。作業着ではなく、普段着のままで。工房には入らず、椅子に座って機材の数値を読んでいる。
(あのくらいの距離から見ていたいんだろう)
サイラスは思い、それ以上のことは考えなかった。
観測機材が正常に動いているかを確認してから、ゴードンのそばへ歩いた。
「準備できました。計器類は」
「問題ない」とゴードンは言った。声は低いままだが、いつもより少し乾いている。「機体の数値もここから読める。始めろ」
「体の具合は」
「飛ばせ」
それが答えだった。サイラスはそれ以上聞かなかった。
機体に向かって歩き始めた時、林の入り口の方から足音が聞こえた。枯れ葉を踏む音で、速い。振り返ると、アンセルが息を切らして坂を上がってくるところだった。昨日村から送った電報の返事は、夕方には届いていた。「明日の朝に行く」という短い文面だった。
アンセルは滑走路に出た機体を見て、足を止めた。
「本当に、完成してる」
呟くような声だった。機体をひと通り目で追ってから、今度は椅子のゴードンに気づいた。駆け寄り、父親の前にしゃがみ込む。
「父さん、顔色が……」
「ちょっと疲れただけだ」
「ちょっとって顔じゃないよ」
「飛ばす前に騒ぐな」
アンセルは言い返すことなく、ゴードンの顔を見ていた。何かを言いかけて、やめた。それから立ち上がり、サイラスの方を向いた。
「飛ばすんですね」
「はい」
「頼みます」
アンセルは短くそう言って、ゴードンの椅子の後ろに立った。その立ち位置が、父親の背中を見守るためのものだと、サイラスは見て分かった。
***
操縦席は狭い。
設計通りだ。余計な空間を作らない、必要最小限の寸法。胴体に沿って体を収め、腰回りを固定する革製のセーフティベルトをバックルで留めると、機体と自分の間にあった距離が消えた。シートの背もたれが腰椎に当たり、足先がラダーペダルに触れる。左手がスロットルレバーの位置にある。右手を伸ばせば操縦桿に届く。
もう一度、計器盤を順番に確認した。
真空エネルギーの残量計、エンジン回転数計、蒸気圧力計、油圧計、速度計、高度計。すべての針が正常域にある。蒸気圧はタンク容量の八割。飛行中に消費するが、今日のテストには十分な量だ。真空エネルギーの残量は満充填から動いていない。これがゼロになれば蒸気を生み出せなくなりエンジンが止まる。滑空で降りることはできるが、なるべくそういう状況は避けたい。
風防を閉じた。
外の音が遠くなる。エンジンに火が入る前の作業場は、いつも妙な静けさがある。風の音と、自分の呼吸だけが近くにある。
風防越しに、ゴードンの方を見た。
老人は椅子に座ったまま、こちらを見ていた。腕を膝の上に置き、背筋を伸ばして。その体勢で機体を見る目に、昨夜倒れる前と同じ種類の光が戻っていた。
サイラスは右手を上げ、指を三本立てた。準備完了の合図だ。
ゴードンが同じように手を上げ、親指を立てた。
スロットルをゆっくりと押し込む。
エンジンが低い唸りを上げ始めた。機体の前方、上下二段に並んだ翼の先端で、プロペラが回り始める。最初はゆっくりと、一枚一枚の羽根が見えるほどの速度で。それが回転を上げるにつれて像が溶け、やがて透明な円盤のように見えなくなった。エンジン音が高くなる。機体全体に振動が伝わり、セーフティベルトを通して胸に届く。
スロットルをさらに押し込む。
プロペラの引く力が増し、機体が前へ動こうとする。ブレーキを踏み込んだまま回転数を上げ、計器の針が設定値に達したのを確認してから、ブレーキをゆっくりと緩めた。
機体が動き出した。
最初は歩くほどの速さだ。滑走路の草が両脇を流れ始め、それが少しずつ早くなる。ラダーペダルを微調整して、機体が滑走路の中心線から逸れないように保ちながら、スロットルを押し続ける。速度計の針が上がっていく。風が機体に当たる音が大きくなり、機体の振動の質が変わった。地面の凸凹が伝わる粗い揺れから、空気が翼を掴み始めた時特有の、少し浮いた感触へ。
速度計が離陸速度に達した。
操縦桿を、静かに、手前へ引いた。
機首が上を向く。それと同時に、地面からの振動が、すっと消えた。
着陸脚が地面を離れたのが、体全体で分かった。音ではない。振動の途絶えだ。それまで骨格を伝ってきていた地面との接触が、一瞬でなくなる。代わりに、機体を押し上げる力が体の下から来る。翼が空気を掴んでいる。
離陸した。
操縦桿を少し押し戻し、急激な上昇角を抑える。エンジン音が変わった。引っ張り上げる力が均一になり、機体が滑らかに空へ向かっていく。速度計が上昇し、高度計の針が動き始めた。
下を見た。
滑走路が小さくなっていく。草の色が均一になり、工房の屋根が見え、林の緑が広がる。椅子のゴードンと、その後ろに立つアンセルが、二つの点として見えた。どちらも空を見上げていた。
(ああ、こういう景色か)
千年の旅の中で、空を飛んだことは何度もある。しかし今日ほど、地上を見下ろしながらその意味を考えたことは、あまりなかった。
シスは、いつもこういうものを見ている。
もっと高い空から、もっと広い範囲を、もっと長い時間。サイラスが渡した記憶も、旅で出会った人々も、街の灯りも、戦場も、その全部を、上から、静かに、ずっと。長年の相棒が常に見ている視点というのはこういうものか、と思ったら、胸の中で何かが温かくなった。感情リセット後にしては珍しい、すっと広がる感触だ。
水平飛行に移った。
スロットルを少し前に倒し、巡航速度まで上げる。蒸気圧力計の針がわずかに動き、安定した位置に収まった。エンジン音が一定になる。機体の振動が均一になり、翼が空気の中でしっかりと支えを見つけた感触がある。これが巡航の状態だ。
操縦桿を左に倒した。
機体が左に傾く。視界の中で地平線が右に上がり、空の青が右から広がった。ラダーペダルを左に踏み込み、旋回を深める。速度が少し落ちる感触があったので、スロットルをわずかに前に押した。旋回中の速度低下は、翼の傾きによって揚力の垂直成分が減るためだ。補うには推力を増すか、機首を下げて速度を稼ぐか。今回は前者を選んだ。
旋回の中で、機体は安定していた。
補助翼の効きが均一で、左右の差がない。ゴードンが設計段階から気にしていた、翼の揚力バランスの問題が、きちんと解決されている。エーテルガルドの旧式機では感じていた、水平飛行での微妙な傾きの癖がない。操縦桿を離しても、機体が自分から崩れようとしない。
右に旋回し直した。左と同じ感触だ。左右に差がない。
これは良い機体だ、とサイラスは思った。感情的な評価ではなく、情報として。
スロットルをさらに押し込んだ。
エンジンの音が高くなり、機体の速度が上がる。風が風防を叩く音が大きくなり、座席の振動が細かくなった。速度計の針が前回の巡航速度を超え、さらに上がっていく。それでも機体はぶれない。エンジンの回転音に異音がなく、蒸気圧力計も安定している。設計上の上限に近い速度まで出したが、まだ余裕がある感触だ。
操縦桿を一気に引き、機首を上に向けた。
体に重さがかかる。胸から腹にかけて、下に引っ張られる力だ。急上昇の際の慣性加速度で、パイロットの体重が何倍にもなる感覚がある。視界の中で空が下から上に流れ、地上が遠ざかる。高度計が一気に動く。
速度が落ちるところで操縦桿を戻し、水平に戻した。
エンジンが安定した唸りを取り戻す。機体が水平飛行の状態に戻り、速度計の針が落ち着いた。急上昇と急回復を通して、機体には何も異常がなかった。どこかが歪んだ感触も、不規則な振動も、計器の異常値も、何もない。
さらにもう一手。
スロットルを緩め、操縦桿を前に押す。機首が下を向いた。急降下だ。速度が増し、風の音が上がる。地上が視界の中で大きくなってくる。高度計の針が逆に動く。ある速度に達したところでスロットルを戻しながら操縦桿を引き、再び上昇に移る。
機体が弧を描いた。
その頂点で、サイラスは一瞬、視界に別の何かを見た。
遠い空の、南の方角。雲の合間を、巨大な影が泳いでいた。
全長五十メートルを超えるシロナガスクジラの幻影。識別名SiS-001。愛称はシス。
フォストリアを出た日に一度見かけて以来だ。ここからでは輪郭が霞んでいる。それでも、あの形を見間違えることはない。長年一緒にいる相棒の体の形を、千年かけて覚えている。
シスはいつも、あういう場所にいる。
本体が異空間にある彼にとって、距離は関係ない。今見えている彼は幻影なのだ。例えば、昨日北へ飛び去るのを見送ってたとしても、今日は南から泳いで来たりもする。極端な話、複数の離れた場所で同時に彼を見ることだってあるのだ。
ずっと上から、ずっと遠くから、ずっと静かに。サイラスが手放した記憶も感情も、あの巨体の中に収まっていて、シスはそれを抱えながら世界を泳ぎ続けている。今この瞬間も、どこかで誰かの何かを見ているのだろう。
(重くないかい)
心の中で声をかけた。答えは返ってこない。それでいい。
サイラスは視線を下に向けた。
滑走路が小さく見える。その脇に、椅子のゴードンと、立つアンセルの姿がある。二人ともこちらを見上げていた。空を仰いでいる二人の顔が、指の先ほどの大きさで見えた。
(もっと高いところから、ゆっくりと見れば──こういう景色が見えているんだろうな、シスには)
長年の相棒がいつも見ている景色だ。それを今、人間用の機体の操縦席から、少しだけ借りている。そう思ったら、胸の奥の魔核が温かく脈打った。
しばらく飛んだ。
旋回を繰り返し、高度を変え、速度を上下させた。機体はそのたびに、操縦桿とラダーペダルの動きに従った。反応が素直で、適切な重さがある。軽すぎず、重すぎない。ゴードンの機体は、乗り手の意図に対して正直だった。
計器をもう一度確認する。蒸気圧力はまだ余裕があり、真空エネルギーの残量も十分だ。エンジン回転数も安定している。テストとして確かめたいことは、すべて確かめた。
スロットルを絞り始めた。
速度が落ち、高度計の針がゆっくりと下がる。滑走路が視界の中で大きくなっていく。機首を下げ、降下角を一定に保ちながら近づいていく。着陸は離陸と逆の順序だ。速度を落とし、高度を落とし、接地の瞬間に機首をわずかに上げてフレアをかける。
着陸脚が地面に触れた感触が、体に返ってきた。
振動が戻る。地面が体を押し上げる、あの粗い感触だ。スロットルを閉じ、機体の速度が自然に落ちていくのを待つ。ブレーキを踏み込み、滑走路の中ほどで機体が止まった。
エンジン音が落ちた。プロペラが回転を緩め、やがて止まる。
風防を開けた。
外の空気が入ってきた。草の匂いと、冷たい朝の気配がある。遠くの林から鳥の声がした。
***
アンセルが走ってきた。
「すごい、本当に飛んだ」
着地直後から、声が届いていた。機体の横に来た時には息が上がっており、頬が紅潮している。
「急上昇もしてたし、旋回も──あれ、わざとやってたんですよね? 性能を試してたってこと?」
「テストの一部です」とサイラスは言い、操縦席から降りた。「機動性と安定性の確認を。両方とも、設計通りに動いていました」
「設計通り以上じゃないですか? 見てて、あの動きは──」
「性能に余裕があります」とサイラスは続けた。「速度域でも、機動でも、まだ限界には達していない。エーテルガルドの現行機と比べれば劣る部分もありますが、それは別の話です」
アンセルが何かを言いかけた。それから顔を上げ、父親の方を向いた。
「父さんにも聞かせなきゃ」とアンセルが言い、観測機材の台の方へ歩いた。
サイラスはその後ろを歩いた。
滑走路の脇の草の上に、椅子がある。
ゴードンは椅子に座っていた。背もたれに体を預け、膝の上に両手を置いて。顔は滑走路の方を向いており、目は閉じていた。口元が、わずかに緩んでいた。疲れた顔ではない。何かを成し遂げた後の、落ち着いた顔だ。
アンセルが「父さん」と声をかけた。
返事がなかった。
「父さん」
もう一度呼んだ。声の調子が変わった。アンセルは椅子の前にしゃがみ込み、ゴードンの手に触れた。それから、動かなくなった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
風が一度吹いた。草が揺れ、滑走路の端の林がさわさわと音を立てた。遠くで鳥が鳴き、また静かになった。
サイラスは椅子の後ろに立ったまま、ゴードンの横顔を見ていた。
老人は眠っているようだった。それ以上の言い方が思い浮かばないほど、穏やかな顔だった。機体が空を飛ぶのを見た。それが最後の仕事だったのかもしれない。あるいは、完成した機体が離陸した瞬間に、すでにゴードンの中では終わっていたのかもしれない。
どちらでも、大差はないと思った。
機体を完成させた。空に上がった。それは確かに起きた。ゴードンの手掛けた設計図が、金属と木材になり、滑走路を走り、地面を離れ、空に上がった。その全部を、この老人は見た。
(間に合った)
サイラスは静かに思った。事実と、ほんの少しの感傷として。
アンセルが立ち上がった。振り返った顔は、何を表情に出すべきか決めかねているような顔だった。悲しみと、安堵と、それ以外の何かが混在している。
「飛ぶところ、見られたんですね」とアンセルは言った。
「ええ、見ていました」
アンセルは頷いた。それから、また父親の顔を見た。
風がもう一度吹いた。草が揺れ、椅子の脇で乾いた草の葉が一枚舞い上がり、静かに降りた。
空は晴れていた。雲の切れ目が広がり、青が広い面積を占めていた。飛行中に見えたシスの影はもう見えない。しかし空のどこかを泳いでいることに変わりはない、とサイラスは思った。
そしてゴードンの手が作った機体も、今日、確かに空を飛んだ。
【形見の道具と、届かない翼と、山を降りる朝】
村への連絡は、アンセルが自分でした。
サイラスが手伝いを申し出たが、「自分でやります」とアンセルは首を振った。その声は平静を保っていたが、何かを一人でやり遂げることで、気持ちの整理をつけようとしているのが分かった。サイラスは引き下がり、その間に工房の中を一人で片付け始めた。
滑走路の観測機材を撤収する。台と計器類を工房の中に運び込み、ワイヤーを丁寧に巻き取って棚に戻す。機体には布を被せ直した。翼の形が布の下に残っている。昨日飛んだばかりの機体が、また工房の奥で静かに立っている。それが当たり前の場所のように見えた。
牽引車を定位置に収めてから、工具棚の前に立った。
ゴードンの工具は、年季は入っているが手入れが行き届いていた。錆びているものがなく、刃物類は刃先が均一に研がれている。棚への戻し方も一定で、種類ごとに並んでいた。この工具棚を見ただけで、どういう人間が使っていたかが分かる。サイラスは工具の一本一本を元の位置に戻しながら、この一週間の作業を順番に思い出していた。
アンセルが工房に戻ってきたのは、昼前だった。
「村の役場に連絡しました。手続きのことを教えてもらいました」と言い、少し疲れた顔でシャッターに背をもたせかけた。「今日は何もできないらしくて、明日から書類を揃えないといけないみたいです」
「工房の処分については」
「しばらくは手がつけられないと思います。仕事のこともあるし、父のここでの付き合いもあるし、確認しないといけないことがたくさんありますから」
「そうですか」
「サイラスさんは……明日には出るんですか」
「アンセルが落ち着けば、そうしようと思っています。手伝えることがあれば残ります」
アンセルは少し考えてから、「明日の朝、一緒に父の部屋を片付けてもらえますか」と言った。「一人でやれないことはないんですが、二人の方が早くて、助かります」
「分かりました」
***
翌朝、二人で住居の整理を始めた。
ゴードンの部屋は小さかった。ベッドと、衣類の入った箱が二つ、それから床に積まれた技術書の束。本の数が部屋の広さに対して多く、棚に収まらないものが横積みになっていた。背表紙を見ると、航空機の設計理論から素材力学、流体力学まで幅広い。どれも読み込んだ形跡があり、余白にメモが書き込まれていた。
衣類は箱に入れ直した。私物の書類は封筒に分けて、アンセルが後で確認できるように積んでおく。技術書は工房の本棚に移すことにした。
机の引き出しを開けると、退役後に取り交わしたらしい書類の束と、数枚の古い写真が出てきた。アンセルが手に取り、しばらく見ていた。写真の中のゴードンは若く、作業着を着て、飛行機の前に立っていた。
「現役の頃の写真です」とアンセルは言った。「あまり見たことがなかった」
「どんな機体ですか」
「エーテルガルドの旧式機。父が担当していた型らしいです」
サイラスは横から覗いた。写真の画質は粗いが、機体の形は判別できる。記憶の中にある機体と一致した。小競り合いの時代に数多く飛んでいた、大気圧縮エンジン搭載の複葉機だ。ゴードンが指摘していた欠点を持った型でもある。
「この頃から、何も変わってなかったんですよね」とアンセルが言った。
「ゴードンがですか」
「写真の顔が……俺が会いに来るといつもそんな表情してました……父はずっと飛行機のことしか考えてなかったんでしょうね」
それから少しだけ笑い、写真を机の上に置いた。
工房に移って、工具類の整理を続けた。大型の旋盤や加工機は処分を業者に頼む必要があり、今日のうちに動かせるものではない。棚の細かい部品類と、設計に使っていた図面を整理した。図面は何十枚もあり、どれもゴードンの手書きだ。機体の各部を描いたもの、エンジンの断面図、寸法の計算が書き込まれた紙。
一枚一枚を見ながら、アンセルが「これ、全部父が描いたんですよね」と言った。「どのくらいかかったんだろう」
「数年単位だと思います。退役後にここへ来てから作り始めたとすれば、ずっとやっていたことになる」
アンセルは図面の束を揃え、紐で縛った。「持って帰ります。父が何をやっていたのか、ちゃんと見たいから」
午後の半ばで、作業に一区切りがついた。
「ありがとうございました」とアンセルが言った。「かなり助かりました」
「こちらこそ。泊めてもらった分です」
アンセルが少し考えてから、「一つ聞いていいですか」と言った。「父の機体、飛んでみてどうでしたか。本当のところ」
サイラスは少しの間、工房の奥の布を見た。
「良い機体でした。応答が素直で、安定していて、各部の余裕が均等に取られていた。整備しやすい設計というのも、実際に組み立ててみて分かりました。部品の取り外しが論理的な順番になっていて、無駄がなかった」
「それは……つまり」
「ゴードンさんが目指したものは、ちゃんと形になっていました」とサイラスは言った。「乗り手が帰ってこられる機体というのは、飛ばしてみて実感できた。操縦の負担が少ないというのは、長時間の飛行や緊張状態での判断に直結する。その部分は、エーテルガルドの現行機でもできていないことです」
アンセルが頷いた。
「ただ」とサイラスは続けた。「それが現代の軍に採用される性能に届くかは、別の話になります。そこは正直に言っておきます」
「分かってます」とアンセルは静かに言った。「父も分かっていたと思う。それでもやっていたんだから」
しばらく沈黙があった。工房の外で風が吹き、シャッターが微かに音を立てた。
「工房にあるもので旅に役立つものがあれば、貰ってもらえませんか」とアンセルはサイラスに言った。「俺には使い道のないものばかりです。全部処分するのは、なんだか忍びなくて」
「ありがとうございます。形見として頂きます」
工具棚から、小型の多機能レンチを一本取る。それは柄が短くてかさばらない、複数のサイズに対応できる構造になっていた。スチームガジェットの整備や、機械系の修理に使える汎用性の高いものだ。ゴードンが特によく使っていたのか、グリップの部分だけ他の工具より摩耗している。
それから、棚の隅にあった小さな油差しを一本。旅の途中でガントレットやナイフの整備に使える。これもゴードンのものだ。
「これだけ」
「少ないですね」とアンセルが言った。「もっと持っていっていいですよ」
「これで十分です。使い続けるものだけにしたい」
アンセルは少し笑い、「分かりました」と頷いた。
翌朝、サイラスはバックパックを背負った。
アンセルが林の入り口まで送ってきた。まだ書類の手続きが残っており、数日は工房周辺に留まることになるという。
「長くお世話になりました」とサイラスは言った。
「こちらこそ」とアンセルは答えた。「父の最後に、手を貸してもらえて……よかったです。本当に」
「良い機体でした」
「ええ」
それだけだ。二人ともそれ以上の言葉を探さなかった。
サイラスが林の中へ歩き出すと、後ろでアンセルが一度だけ「気をつけて」と言った。振り返らずに手を上げて応え、足を進めた。
***
林の中は薄暗く、足元が柔らかい。
来た時と同じ道だが、季節が少し動いたのか、葉の色が変わっていた。端が茶色くなり始めた葉が、時々風に揺れて落ちる。踏むと湿った音がした。
サイラスは歩きながら、ゴードンの機体のことを考えていた。
エンジンのエネルギー効率は、同時期のエーテルガルド製と比べて一割以上高かった。既存部品の流用という制約の中で、バルブタイミングと圧縮比の調整だけでその差を出した。操縦系統の応答は均一で、左右の癖がない。脚部の緩衝構造は、接地時の衝撃をうまく分散できていた。整備性については、七日間の組み立て作業を通じて体で確かめた。部品へのアクセスが論理的な順番になっており、一人の整備士でも対応できる設計になっていた。
それらはすべて、退役した老人が一人で作り上げたものだ。個人の工房で、民間の予算で、軍の支援なしに。
しかしその同じ一週間で、エーテルガルド連邦の国営工場はどれだけの機体を量産したか。最新鋭の素材、潤沢な資金、専門の設計チーム、精密加工設備。そういうものを背景に持った現行機と並べれば、ゴードンの機体が見劣りする部分はある。最高速度でも、上昇率でも、航続距離でも。現代の戦闘で求められる性能には、届かない。
軍に採用されることはないだろう。
それは飛行テストの最中から分かっていた。しかし、ゴードンも知っていたはずだ。それでも完成させた。最後まで飛ばすことを望んでいた。
(なぜかは、分かっている)
林が途切れ、草地に出た。村が遠くに見えた。風が正面から来て、乾いた草の匂いを運んできた。
サイラスは一度立ち止まり、振り返った。
工房のある丘の上は、もう木々に隠れて見えない。滑走路も、工房の建物も、見えない。ただ林が広がっているだけだ。
それでも、昨日あそこで何かが起きたことは変わらない。
機体が滑走路を走り、地面を離れ、空に上がった。その全部をゴードンは椅子に座って見た。それ以上でも以下でもない。それが、この場所で起きたことだ。
***
村の通りを抜け、桟橋に向かいながら、サイラスは心の中で声をかけた。
(ねえ、レナ)
風が一度強く吹き、川沿いの葦が一斉に揺れた。
(初めてゴードンに会った時から、長くないことは分かっていた。体の重心の置き方、呼吸の浅さ、それから目の奥の静けさ。どこか遠くを見ているような、でもちゃんとここにいるような、あの目。あれは覚悟のある人間の目だ。自分が何を後回しにしているかを知っている目、ということもできる。君も見たら分かったと思う)
桟橋が見えてきた。次の船まで、まだ少し時間がある。桟橋の端に腰を下ろし、バックパックを足元に置いた。川の流れが、低い音を立てている。
(止めることは考えなかった。正確に言えば、一度だけ考えて、すぐにやめた。止めることはゴードンにとって何の助けにもならないと分かっていたから。この機体を完成させることが、あの老人の気力と体力を繋ぎとめていた。それを途中で断ち切ることは、別の意味での終わりだ)
川面に光が反射している。波が立つたびに、光の粒が散っては消える。
(人には、自分の命よりも成し遂げたいものがあるんだということを、僕は身を持って知っている。君が最後まであの島に残ったのがそれだ、レナ。君は「シスの異空間に転移する」という術式を僕の中に埋め込んでいた。この転移術式はレナ自身の魔法でもできることだ。あの島が落ちる前に、一緒に転移することもできたはずなのに、君はしなかった。地上への被害が少しでも少なくなるところに、島を誘導するために残ったんだろう。僕にはレナを止める時間がなかった。レナはいつもやることが唐突すぎるよ)
波の音が続く。
(ゴードンが机に向かっている夜の背中を見た時、僕には止める言葉がなかった。あの背中と、君の背中が重なって見えたからじゃない。ただ、同じことを知っていた。成し遂げたいものを前にした人間を、外から引き剥がすことは誰にもできない、ということを)
遠くで汽笛の音がした。次の船が来る時間だ。サイラスは立ち上がり、バックパックを背負い直した。
ポケットの中で、形見のレンチが重みを伝えてくる。グリップの摩耗した部分が指に触れた。
(机の上の設計図が、金属と木材になって、空を飛んだ。ゴードンが目指していたものは、ちゃんと形になった。現代の軍には採用されない。戦闘で活躍することはない。それでも、あの空を飛んだ事実は残る。何十年か後にアンセルが図面の束を開いた時、あの飛行は記録として残っている。シスも、どこかから見ていた。あの空は、記録された)
船が桟橋に近づいてくる音がした。
(君は、どんな感想を持っただろうな。乗り手が無事に帰ることを最優先にした機体、なんて言ったら、きっと「なんて素敵な動機なのかしら」って笑った気がする。それから「実際に飛んでみてどうだった?」って聞いてきたと思う。答えは簡単で、良い機体だった、と言うだけだ。ゴードンが作りたかったものが、飛んだ)
桟橋に船が横付けされた。係員が縄を繋ぎ、乗降口が開く。
サイラスは列の後ろに並び、順番が来ると乗船券の代わりの紙を渡して船に乗った。上部デッキに上がり、手すりに寄りかかって空を見上げた。
空は晴れていた。
昨日よりも青が広く、雲が少ない。風が少し強く、川面に細かい波が立っている。シスの姿は見えなかった。しかしどこかを泳いでいることに変わりはない。サイラスの渡した記憶も、感情も、旅の記録も、あの巨体の中に収まって、今も続いている。
(今は何を見ているんだい、シス)
答えは来ない。来なくていい。
船が桟橋を離れ、川を下り始めた。工房のある丘が、少しずつ遠くなっていく。林が小さくなり、やがて川の曲がりの向こうに消えた。
バックパックの中に、旅の道具が入っている。印刷地図、路銀の残り、塩漬けの干物。それに今日から加わった、小型のレンチが一つ。荷物はまた少し重くなった。
(次の街で、また何かがある)
何があるかは分からない。仕事があれば立ち止まり、なければそのまま通り過ぎる。誰かに会うかもしれないし、会わないかもしれない。どちらでも、旅は続いていく。
川面を風が渡り、サイラスの髪を揺らした。
空は晴れている。ゴードンの機体を飛ばした日と、同じ種類の青だ。
〈第4章 完〉
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