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後編


 エストさまと誓いを立てた日から、私は更に自分を磨くことにした。

 常に誇れる自分でありたい。

 エストさまに相応しい王女に。

 慈善市への参加はもちろんのこと、各地の孤児院への慰問も今まで以上に積極的に行った。

 私の行き先には、必ずエストさまが付き添ってくれた。

 エストさまは、仮面を付けたままだけれど、仮面の向こうから見守られていると感じて身が引き締まる思いだ。

 もう誰もエストさまを笑わないよう、私は完璧を目指し続ける。

 エストさまに見守られていると思うと、力が湧いてくるのだから不思議だ。

 それと、常に心清らかなエストさまと共に居るからだろうか。私の心持ちもに、変化が起きた。

 今まで、皆に優しくするのは当たり前のことだった。

 身に付けた技術のように当然で、そこに感情はなかったように思う。

 だけど、エストさまがそばに付いていてくれるようになってから、皆が私に向けてくれる微笑みに気がつけるようになった。

 私が手を差し出せば、好意を持って取ってくれる。

 私の拙い刺繍を、とても大切なもののように受け取ってくれた。

 孤児院の人たちや子供たちが、嬉しそうに駆け寄ってくれる。

 そんな、人によっては気にもとめない変化に、私は気が付いた。

 不思議な気持ちだった。

 私が騎士さまに釣り合う姫になりたいと始めた行動で、たくさんの人たちから感謝の気持ちをもらっていたのだ。

 何だか恥ずかしくて、でも、心があったかくなる。

 嬉しい、と思った。

 私の小さな行動で、誰かが幸せを感じてくれることが。


「エスト、わたくし。何も分かっていなかったみたいです」


 城の庭園に下りて、私は後ろに控えるエストさまに笑いかけた。

 仮面を付けたエストさまは、意味が分からなかったのか、首を傾げる。

 その姿は可愛らしく、胸がキュンとした。


「わたくし、今まで色んなことを頑張ってきたと思うのです」

「ええ、姫さまは我らの誇りです」

「ありがとう、エスト」


 誇りだって、言われちゃった! 嬉しい!


「でも、わたくしは気づいたのです」

「何を、でしょうか?」


 控えめなエストさまの発言に、私はちょっと照れてしまう。今から言うのは、自惚れではないとは思うけど、恥ずかしいから。


「その、ですね。わたくしのしたことを、皆が感謝してくれいるということをです。わたくしの行ったことは、皆に良い感情を持ってもらえているんですね。わたくし、それに気づき、嬉しくて……」

「姫さま、貴女は本当に無償で行動なさっていたのですね」


 エストさまの感じ入るような響きのある言葉に、私は慌ててしまう。


「い、いえっ。わたくしは、そんな出来た人間では……っ」


 むしろ欲望の塊だ。

 騎士さまに良く見られたい。騎士さまに好かれたい。その一心だったのだから。


「いいえ。姫さまは素晴らしい、お方です。エストは、そんな姫さまにお仕え出来て、幸せです」

「エスト……」


 エストさまの誇らしげな声に、私の胸はまたキュンとなる。

 良いの? そんなにも私を幸せにしてくれる言葉を、ぽんぽんと出しちゃって。

 私は頬が熱くなる。


「貴方のおかげです、エスト」


 私は羞恥心から逃れるために、早口で言う。

 エストさまは、また首を傾げた。そんなエストさまに、私は笑いかける。


「エストという立派な騎士がそばにいてくれて、わたくしにも変化が起きたのです」

「姫さま……」


 エストさまがそばに居てくれて安心出来るから、私の心にも余裕が出来た。だからこそ、気づけたのだと思う。


「エスト、心からお礼を言います。わたくしのそばに居てくれて、ありがとう」

「いっ、いいえっ」


 エストさまが慌てる。


「姫さまが気づかれたものは全て、姫さまのお力によるものです」

「ふふ、誉めすぎですよ」

「真実ですので」


 エストさま、私に夢を見過ぎている気がする。

 そこまではっきりと言われてしまうと、は、恥ずかしいです。

 私は、エストさまから視線を逸らす。

 ううっ、全身が熱いよう。

 心臓の早さをごまかすために、私は目の前の花々に視線を注ぐ。

 エストさまとの静かな時間が過ぎる。

 ふと、空気が揺れた。エストさまが微かに動いたのだ。


「……姫さま、は」


 ポツリと呟かれた声を聞き、エストさまを見る。私へと一歩を踏み出すエストさま。


「来年で、十五になられます」

「ええ、そうですね」

「私、は……」


 掠れた声。無意識なのか、私に手を伸ばすエストさま。

 だけど、ギュッと手を握りしめる。

 そして、踏み出した足も下げてしまう。


「……いえ、何でもありません」

「エスト……?」

「……私には、資格が、ありませんから」


 資格? エストさまは、何を言っているのだろうか。

 来年十九歳になるエストさまは、出会った頃と比べてもずっと背が高くなった。見上げるのに、首が痛くなるほどに。


「今の言葉は、忘れてください」

「エスト……」


 エストさまはそれきり、黙ってしまった。

 どうしたのだろう、何か悩み事でもあるのだろうか?

 私では力にならないのかな。

 いや、きっと。たぶんだけど、今のエストさまは誰にも触れられたくない心境なのだろう。

 その証拠に、私にもあまり近づいてこない。

 それは、エストさまなりの心の防御なのだと、今は理解している。

 ただ、エストさまが何から心を守りたいのかまでは、分からないけれど。

 ふわりと、花びらが舞う。


「……風が出てきましたね。お体を冷やさない内に、中に戻りましょう」

「ええ、分かりました」


 私はエストさまと共に、王宮の中に入る。

 風の運ぶ花の香りの中で、エストさまの憂いがなくなるよう願ながら。



 十五歳になれば、私には王族としての仕事が待っている。

 社交の場を設けることも出来るし、慈善活動も私の名前で市を出せる。

 孤児院への訪問の数もぐっと増えてくる。

 他国の王族との交流も、今までは女性とばかりだったけれど。男性とも交流を持つことになるだろう。

 今まで以上に、勉強に身を入れなくてはならないのだ。

 私は先生たちから、たくさんのことを学ぶ。

 話術、マナー、ダンスのレッスン。

 私が勉強している間は、エストさまはそばには居ない。代わりの騎士さまが、レッスン室の前に立っている。

 エストさまにも自由時間は必要だし、空いた時間でエストさまは他の騎士さまと交流しているらしい。

 騎士さま同士の交流……見てみたい! きっと薔薇色の空間に違いない!

 騎士さまたちと語らうエストさまは、輝いているに違いないのだ!

 先生に勉強を見てもらいながら、夢想していると。ドレスの袖を引っ張られた。


「姉さま、ここが分かりません」


 弟のリュードだ。来年十歳になるリュードは、私と一緒に勉強をしている。

 男と女では、勉強する内容も違う。

 だけど、すっかり勉強嫌いに育った弟は、私と一緒ならば勉強すると先生たちに我が儘を言ったのだ。

 リュードの癇癪に手を焼いていた大人たちに頭を下げられ、私は渋々同席することに頷いたのだった。

 別に弟のことは嫌いではない。けれど、我が儘な子に育ってしまったリュードをどうにかしたい気持ちがあるのだ。


「リュード。わたくしにではなく、先生にお聞きしなさい」

「……はい。おい、お前」

「お前ではなく、先生とお呼びしなさい。先生は、わたくしたちのために時間を割いてくださっているのです。先生の教えは、わたくしたちの糧となるのですよ」

「はい……」


 不満そうなリュードに、私はため息をつきたくなる。

 お兄さまにチクってやろう。リュードは、私とお兄さまの言うことならよく聞くのだ。


「先生。授業を続けてください」

「はい、姫さま」


 私の教師である先生は、優しい笑みを浮かべ。リュードの教師は、ほっと息を吐いた。この違いでも、リュードは困った子なのだと分かる。


「……ねえ、リュード」

「はい、姉さま!」

「今度、わたくしと一緒に孤児院へ訪問しませんか?」

「孤児院、ですか……」


 リュードの表情が曇る。私には、その理由が分かっていた。

 リュードは孤児院に偏見を持っているわけではなく……。


「孤児院には、あいつも来るのでしょう?」

「リュード。あいつ、ではなくエストです。彼は立派な騎士ですよ」


 昔の謝罪以来、リュードはエストさまを苦手としているのだ。

 まったく、エストさまは立派な方だというのに!

 結局、孤児院行きは断られてしまった。

 リュードにとって、良い刺激になると思ったのに。残念。



 勉強の時間が終わり、私は部屋を出る。リュードは走って行ってしまった。従僕たちが慌てて後を追いかけて行く。


「……困ったものです」


 私の呟きに、エストさまの代わりに護衛を務めてくれた騎士さまが苦笑で応えてくれた。リュードのわがまま振りは、もう有名なのだ。


「あら……?」


 私は首を傾げた。

 いつもなら私の授業が終わると、部屋の外に控えているエストさまが今日は居ないのだ。

 思いのほか、友人たちとの語らいが長引いてしまっているのだろうか?

 ならば、邪魔をするのは悪い。


「すみませんが、エストの代わりに部屋まで送ってくださいますか?」

「はっ!」


 臨時の護衛騎士さまに頼んで、部屋へと向かう。

 騎士さま二人は、私の後をついて来てくれる。この見守られている感が、最高です!

 内心喜んで歩く私は、すっかり見慣れた深緑色の騎士服が見えて、足を止める。

 エストさまだ。

 エストさまが、侍女らしき女性と連れ立って歩いていた。

 エストさまは仮面で分からないけれど、侍女の方は笑顔だ。

 エストさまの手には、畳まれたシーツがある。侍女の仕事を手伝っているのだろうか。エストさまは紳士なのだ。困っている人を放ってはおけない。

 頭では分かっているのに、私は二人から視線を外せないでいた。


「姫さま……?」


 護衛の騎士さまの呼びかけに、意識が現実に戻る。


「あ、すみません。部屋に戻りましょう」

「分かりました」


 私は再び歩き出した。エストさまの姿はもうない。

 だけど、私の頭に二人の姿は鮮明に焼き付いていた。




「姫さま、遅れました! 申し訳ありません!」


 部屋で寛いでいると、エストさまが急ぎ足で入室した。

 頭を下げるエストさまの姿を目に入れると、何だか胸の辺りがもやもやとしたけれど、それを押し込め私は微笑みを浮かべた。


「良いのです、エスト。貴方が理由もなく、時間に遅れたりはしませんから。顔をお上げになって」

「はっ!」


 エストさまは顔を上げた。

 ただ、私にお茶を淹れていたメアリーはちょっと怖い顔をしたけれど。


「姫さまを待たせるなど! エストさま、いったいどのようなご用件でしたの!」


 メアリーの言葉に、私はピクリと肩が揺れてしまう。

 時間に忠実なエストさまが、侍女と居た。ただ、あれはエストさまの優しさからくる行為だと思う。


「それは……」


 仮面の向こうから、エストさまの困った声が聞こえる。同時に、私の胸が不可解なことに痛んだ。

 第一王女の専属の護衛騎士に、仕事を手伝わせた。

 侍女の名前を告げてしまえば、彼女は何らかの罰を与えられてしまうだろう。

 だからこそ、エストさまは何も言えないのだ。

 侍女を、庇っているんだ。

 そう思うと、息苦しさを感じた。


「何故、黙っていらっしゃるのです! 何かやましいことでも……」

「メアリー、お止めなさい」


 気づけば、メアリーを止めていた。

 メアリーの言葉は、私の心にも刺さるのだ。


「しかし、姫さま……」

「良いの。エスト、お仕事に戻ってください」

「……はっ」


 部屋の外で待機すべく、背を向けるエストさま。

 私は、上手く笑えているだろうか?



 孤児院に訪問する日となった。

 専属護衛騎士であるエストさまは、私と馬車に同乗することが許されている。

 未婚の男女が二人きりだけれど、国民からの我が国の騎士さまへの信頼は篤いので、私の名誉が傷付けられることはない。

 ただ、私の心情的には気まずい。

 先日の一件以来、何というか胸がちくちくしてもやもやが消えないのだ。

 エストさまが侍女を庇うのは自然な流れなのに、嫌だと思ってしまう自分が居る。

 エストさまは、優しく紳士的な理想の騎士さまだ。その姿を見て喜びこそすれ、嫌な気持ちになるなんて……。

 立派に騎士としてのお仕事に励んでいるエストさまに失礼だ。

 私は、カーテンが垂れる窓を見る。


「……皆さんとはひさしぶりに会いますね」

「はい、姫さま。楽しみにしていらっしゃいましたよね」

「ええ、そうですね」


 確かに、楽しみにしていた。

 でも、エストさまのことが気になりすぎて、他がおざなりになってしまう。


「姫さま、ご気分が優れないのでは……?」


 上の空で返事をする私に気が付いたのだろう。エストさまは、気遣わしげに私を呼ぶ。

 私は窓から視線を外し、ドレスのスカートを見た。


「いいえ。何も、ありません」

「そう、ですか」


 エストさまは何か言いたげだったけれど、結局は何も言わなかった。

 馬車の中は重苦しい空気だ。私がいけないのだと分かっている。けれど、どうしようもなかった。




「お姫さまだー!」

「エレファさまー!」


 孤児院の庭で遊んでいた子供たちが、私の乗った馬車に気が付くと声を上げる。

 孤児院の前では、穏やかな表情をした院長と副院長が立っている。二人とも女性だ。


「姫さま、手を」

「ありがとう、エスト」


 エストさまの差し出した手を取り、私は馬車から降りる。

 すると、院長たちの後ろから子供たちが顔を出す。目がキラキラと輝いていた。


「お姫さま、お久しぶりです!」

「わたしっ、文字がかけるようになったの!」

「俺! 先月から、仕事してますっ」

「こっ、こらっ! 先生たちが挨拶もしていないのにっ」


 口々に言う子供たちを、年かさの少年少女が慌てて注意する。

 この孤児院は、いつもこんな感じだ。


「エレファさま、うるさいところで申し訳ありません」

「良いのです。元気な証拠ですよ」

「そう言って頂けると、助かります」


 院長と話しながら、私はエストさまに視線を向ける。エストさまは軽く頷くと、馬車へと向かった。


「今日は皆さまに贈り物があるんです」

「まあっ、寄付だけでも光栄ですのに……」

「ふふ、わたくしは皆さまが好きですから」

「エレファさま……」


 ちょうどエストさまが、白い箱を持ってきてくれた。皆へのプレゼントだ。

 子供たちが頬を赤くさせて、箱を見ている。


「中身は、チョコレートです」


 しかもエレファちゃん特選、ほど良い甘さのチョコレートです! 私が使える範囲のお金で用意しました。


「チョコレート!」

「わーい!」

「エレファさま、ありがとう!」


 子供たちが歓声を上げた。

 年かさの少年少女も喜んでくれているみたいだ。

 用意した私も、その顔を見ると嬉しくなる。


「姫さま! 食べていい?」

「ええ、いいですよ」

「やったー!」

「先に手を洗いなさい。姫さま、本当にありがとうございます」


 少女が深々とお辞儀をすると、子供たちを連れて水場へと向かう。


「エレファさま、本当にありがとうございます」


 深々と頭を下げる院長と副院長に、見えないだろうけど微笑みかける。


「頭を上げてください。チョコレートはお二人の分もありますので」

「はい、後でいただきますね」


 こうして場は和やかなものとなった。

 子供たちや少年少女はチョコレートを頬張り、私と院長、副院長。そして、エストさまはそんな皆を見守る。

 すると、一人の少女が箱を持ち駆け寄ってきた。


「先生! 残りは、先生たちの分……あ!」


 少女は地面から出っ張っていた小石に躓いてしまう。箱はしっかり持っているけれど、あのままだと転んでしまう!


「危ない!」


 私が叫ぶと、エストさまが動いた。流れるような動作で、少女をしっかりと抱き留める。

 良かった、少女は無事だ。

 私はホッと息をはいたのだけど。


「き、騎士さま! ありがとう、ございます……」


 少女が恥じらう様子を見せ、エストさまの腕の中で身じろぎするのを見たら、ずきんと胸が痛んだ。


「気をつけなさい、姫さまの御前ですよ」

「は、はい!」


 注意するエストさまに、少女は憧れの眼差しを向けている。頬は上気していて、恋する乙女そのものだ。


「エレファさま、院の者が失礼を……」

「いえ、良いのですよ」


 院長の謝罪する言葉が遠い。

 私の心は、目の前のエストさまと少女に向けられていた。

 エストさまにひたむきな視線を向ける少女が、何故か嫌だと感じたのだ。

 これは、何なのだろう。私はどうしてしまったんだ。


「姫さま、おそばを離れ申し訳ありません」

「エスト、分かっていますから」


 エストさまが少女から離れると、胸の痛みはわずかに和らいだ。


「さあ、エレファさま。院の中を案内しますわ」

「ありがとうございます」


 エストさまの存在を感じて、落ち着いていく感情に戸惑いながらも、私は応えた。



 孤児院への訪問からひと月。

 私はお兄さまの執務室に呼ばれた。


「お兄さま、わたくしに用とは……?」


 お父さまのお仕事を手伝うようになったお兄さまは、毎日を忙しく過ごしている。

 そんな中、急用だと呼ばれたのだ。私は緊張していた。

 兄妹の私的な空間なので、エストさまは居ない。扉の外で待機している。

 お兄さまは困ったように笑った。


「エレファ。もう直ぐ君は成人するね」

「はい。年を越えましたら、すぐに十五になります」


 私の誕生日をお兄さまはもちろん知っている。なのに、いまさら確認するとはどういうことなんだろう?

 お兄さまは、小さく息をはく。


「……実はね、エレファの成人を待たずに、婚約の話が幾つか持ち込まれてきているんだよ」

「え……?」


 お兄さまのような王太子ならば、婚約は早くに結ばれる。

 だけど私のような姫の場合は、成人を祝うパーティーでお披露目されてからなのに……。


「品行方正。心優しい姫。民にも人気がある。エレファの噂は他国にまで広まってしまったようでね」

「それで、婚約の話が成人前に……?」

「そうなんだよ」


 何てことだ。騎士さまに相応しくあろうとした行いの数々が、騎士さまと引き離される悲劇に繋がるなんて!

 お兄さまは、動揺する私に、優しく微笑みかけてくれた。


「安心して、エレファ。父上とも話をして、婚約はエレファの意思を尊重するということになったから」

「は、はい。ありがとうございます」


 お兄さまは笑顔のまま、口を開く。


「それでね、エレファ。君には、誰か意中の相手は居ないのかな?」

「意中……」


 つまり、好きな相手のことである。

 好きな、相手……。

 とある面影が、頭に浮かんだ。今、扉の外で待機している彼が。


「居ない、かな?」

「あ、あの……っ」

「うん」


 脳裏に、侍女に優しくするエストさまの姿や、孤児院の少女を助けたエストさまが浮かぶ。もやもやが、増していく。

 私は、今まで見てきたエストさまを思い浮かべ、そして気づいたら言っていた。


「エストが……エストが、良いです」


 口にしてから、我に返る。私はとんでもないことを、言ってしまったのでは?

 お兄さまを見れば、思案するように口元に手を当てていた。


「エスト、か。確かに彼ならば、釣り合いも取れる。……彼は、君の気持ちを知っているの?」

「い、いえ……っ」


 いまさらながら心臓がバクバクいっている。

 そうだ、婚約なのだから相手の気持ちも必要だ。

 エストさまは、どう思われるだろうか?


「エレファの気持ちは、分かったよ」


 そう言うと、お兄さまは呼び鈴を鳴らした。

 すぐさま、お兄さまの護衛騎士さまとエストさまが入室する。

 先ほどの発言もあり、私はエストさまを見ることが出来ない。


「ああ、エスト」

「はい、殿下」

「エレファは私の騎士に部屋まで送らせるから、君は残ってくれないか」


 エストさまの仮面の向こうから、問いかけるような視線を感じて、私は俯いた。


「……分かりました、殿下」

「うん。じゃあ、エレファ。部屋まで気をつけて」

「は、はい。お兄さま」


 私はお兄さまの騎士さまに、部屋まで送ってもらった。部屋までの道は、婚約のことで頭がいっぱいだった。

 騎士さまにお礼を言って、部屋のソファーに座る。


「姫さま、お茶を入れますわ」

「ありがとう、メアリー」


 私はぎこちなく笑って、お礼を言う。

 今頃、エストさまは婚約の話を聞いているはずだ。彼は、どんな気持ちでいるだろう。

 迷惑、ではないだろうか。

 メアリーの入れてくれた温かいお茶に口を付けて、私はため息を呑み込んだ。



 しばらくして、部屋の扉をノックされた。


「姫さま、エストです」


 心臓が跳ねる。話は終わったのだ。

 どくんどくんとうるさい心臓を抑えて、私は声が震えないように祈った。


「どうぞ、入ってください」

「はい」


 エストさまが入室する。

 だけど、いつも完璧なはずの所作がどこかぎこちない。動揺しているようだ。

 そのことに、胸が痛みを訴える。

 エストさまにとって、私との婚約は想定外のことなのだ。


「……殿下から、お話を伺いました」

「はい」


 お願い、毅然とした態度を保って、私。

 どんな答えがきても、動揺しないで。

 私の横に立つメアリーは、静かに私たちを見ている。

 エストさまは仮面の向こうから、私を見つめていた。


「……姫さまは、本当に私でいいのですか?」


 私は目を軽く見張る。

 気持ちを確認されるとは思っていなかった。

 そして、気づかされる。

 エストさまにとって、私は上位の立場なのだと。

 ……エストさまは、逆らえないのだ。

 私はこみ上げてくる気持ちを押し込めた。


「……わたくしの気持ちに偽りはありません」


 それだけを言うのが精一杯だった。

 今だけ、エストさまの仮面が憎らしい。エストさまがどんな表情を浮かべているのか、分からないから。

 エストさまは胸に右手を当てて、頭を深く下げた。


「姫さまがお決めになられたのです。エストは従います」


 その言葉に、胸が鋭く痛んだけれど。

 私は何とか微笑みを浮かべることが出来た。


「ありがとう、エスト」

「はっ!」


 エストさまは、私に誓いを立ててくれた。

 それが今、彼を縛ったのだ。

 もう一度口を付けたお茶は、何の味も感じなかった。



 年が明け、私の成人のお披露目が近づいてきた。

 お披露目のパーティーで、私とエストさまの婚約は正式に発表される。

 だけど、私たちの婚約は既に他国まで周知されているという。お父さまとお兄さまが広めたのだ。

 これで、私に婚約の話を持ってくる者は居ないだろう。

 そう思っていたのだけど。


「隣国の第二王子からの婚約の打診がしつこくてね……」

「まあ……」


 お兄さまとのお茶会。周りは口の堅い者と、それぞれの護衛騎士さまがついている。

 つまり、エストさまもこの場には居るのだ。

 そっとエストさまを盗み見たけれど、エストさまは当然ながら黙ってそばに居た。

 そのことに落胆する私が居る。


「……隣国でしたら、エルシアさまの兄君ですね」


 隣国の王女であるエルシアさまとは、幼い頃から交流がある。

 だけど、第二王子のことはエルシアさまの兄だということ以外は何も知らないし、会ったこともない。

 困惑する私に、お兄さまは苦笑いを浮かべた。


「君とエルシア王女、姿絵を交換し合ったでしょう」

「え、ええ。お互いに宮廷画家の方に描いてもらって……」

「それを、第二王子が見ちゃったらしいんだよね」


 意味が分からず、私は首を傾げた。


「つまり、王子の一目惚れだよ。困ったことに、エレファの噂も聞いたらしく、相当惚れ込んでいるらしいんだ」

「ええ!?」


 思わず叫んでしまった。いやだ、はしたない。


「で、でも。わたくしの婚約のことは知っているのでしょう……?」


 不安に思いながら、私はお兄さまを見る。

 お兄さまはため息をついた。


「まだ正式には発表されていないから無効だと、国王に言い張っているらしいんだ」

「そんな……」

「ただ、国王は愚息の言うことだから無視をしてくれと、父上には言っているみたいでね」

「そう、なんですか」


 なら、安心してもいいのかな。

 でも、話を聞いていると父親の制止も聞かずに書状を送り続けているみたいだし……。用心はした方が、良いのかも。


「エレファ」

「はい、お兄さま」

「それと、エスト」

「はっ」

「第二王子は、君たちの婚約発表を兼ねたパーティーに先んじて、隣国の使者として二週間ほど我が国に滞在する。名目上は祝いの使者だけど、何をするか分からない。くれぐれも気をつけて」

「は、はい」

「分かりました」


 えー……、そんな問題のある人物を使者にするの?

 エルシアさまじゃいけなかったの?

 私の気持ちが伝わったのか、お兄さまは苦笑を浮かべた。


「エルシア王女と第三王子は遊学中。王太子殿下は、他国の外交に出向いているんだよ」

「そうですか」


 私はため息をぐっと呑み込んだ。

 お茶会は終わり、私とエストさまは部屋へと向かう。


「……姫さま」


 移動中にエストさまが話しかけてくるのは、珍しい。


「なんでしょう、エスト」

「姫さまは、エストが必ずお守りします」


 真摯な響きの込められた言葉は、先ほどの第二王子のことを指しているのだと分かった。

 身を案じてもらえたことが嬉しくて、私は微笑む。


「ありがとう、エスト。信じていますから」

「はい」


 そう、私の婚約者はエストさまだ。

 今は、その事実さえあればいい。

 そう思った。



 第二王子がやってきた。

 謁見の間で、数名の護衛を連れて、お父さまに頭を下げている。私とお兄さまは、玉座と王妃の椅子に座るお父さまとお母さまの隣にそれぞれ立つ。まだ幼いリュードは居ない。


「エレファ王女の婚約、おめでとうございます」


 淡々と述べる第二王子の姿に、私への執着は見られない。ひとまずホッとしたのだけど。

 国王の書状を読み終わり、顔を上げた第二王子が私を見た。瞬間、ぞくりと背筋が震えた。

 第二王子の目は、私へと一心に注がれていた。ねっとりとした視線に、心がぞわぞわする。


「……エレファ、返礼を」


 第二王子の様子に感じ取るものがあったのか、お父さまが気遣うように声を掛けてくれた。それに勇気をもらい、私は第二王子を見る。


「わたくしの婚約の為に、お祝いに来てくださったこと、本当にありがとうございます」


 私は婚約の部分を強調した。いいか、第二王子。私は、売約済みだからね!

 なのに、第二王子の視線は強さを増すばかりだ。

 私のぞわぞわも強くなる。


「可憐な姫の祝いの席、楽しみにしています」

「うむ。王子よ、客室を用意した。ゆるりと休まれよ」

「はっ、ありがとうございます」


 お父さまに促され、第二王子は謁見の間を出て行った。


「……予想以上だったな」

「ええ。エレファ、エストから離れないように」


 お父さまとお母さまの言葉に、私は深く頷いた。うー、ぞくぞくした!



 しかし予想に反して、第二王子からの接触はなかった。

 隣国からの祝いの品を、従者が届けに来たぐらいだ。

 拍子抜けするぐらい、何もない。

 まあ、私がエストさまにべったりだから、手を出せないということなのだろうけど。


「姫さま」

「何ですか、エスト」


 第二王子が来て、一週間。婚約の準備の合間に、エストさまと二人で庭にて語り合っていたら、彼は思わしげに声を潜めた。


「隣国の使者さまなのですが、どうやらリュードさまと親しくなられたようです」

「……リュードと?」

「はい。騎士の友人が教えてくれたのですが。リュードさまはとても懐いておられたとのことで……」


 ……どういうことだろう。

 私には一切接触しないで、リュードと仲良くしている第二王子。


「……教えてくれて、ありがとう」

「はい。姫さま、私から離れないでください」

「エスト……」


 まさか、エストさまからそんな風に言われるとは思わず、私は胸が熱くなった。


「貴女をお守りするのは、私の役目です」


 そして、エストさまの言葉で熱は冷える。

 役目。そう、エストさまは私の騎士。私を守る役目が、ある。

 だけど、ほんの少しでも願ってもいいのかな。

 私を守るのは、特別な意味が、あると。

 そうであってほしいと、願うぐらいならいいよね。



 成人のお披露目パーティーが迫ったある日。

 エストさまは、パーティーの段取り確認があるということで、私と別行動を取ることになった。

 正直、第二王子の件があり、エストさまと離れるのは不安だけど。私の婚約者として多くのものを要求されているエストさまのことを思うと、わがままは言えない。

 私は自室で、静かに過ごすことにした。

 私の準備は既に終わっていて、今はすることがない。忙しいエストさまには、申し訳ない気持ちだ。

 そんな時、リュードが部屋を訪ねてきた。


「姉さま! 温室でお茶会をしましょう!」

「リュードが、お茶会?」


 礼儀作法を嫌い、お茶会よりも遊びまわってばかりいるのに。

 私の驚きの声に、リュードは目を輝かせて頷いた。


「もう準備はしてあります! 姉さまの成人をお祝いしたいのです!」

「リュード……」


 あの勉強嫌いのリュードが、私の為にお茶会をしてくれるなんて。私は感動した。


「では、わたくしもお供を……」

「メアリーは、ここに居て! 準備は全て僕がするんだから!」

「ですが……」

「いいの!」


 メアリーはリュードに強く出られず、結局は私を見送ることになった。

 温室までの護衛はリュードの従僕が務めるようだ。


「姫さま、お気をつけて」


 部屋を出る時のメアリーが浮かべた不安そうな表情が目に焼き付いた。



「さあっ、姉さま! もう直ぐ温室です!」

「ふふ、リュード。はしゃぎすぎですよ」

「だって、今日は特別なお客さまも呼んでいるんです!」

「お客さま……?」


 そんな話をしている内に、温室に着いてしまった。

 この時、私はもっと警戒すべきだった。

 何故、エストさまが居る時は寄りつきもしないリュードが、私の部屋に来たのか。エストさまの不在をどうして知っていたのか。

 メアリーが不安にしていた理由をもっと考えるべきだったのだ。


「さあ、姉さま。中に……」


 リュードが温室の扉を開けた瞬間、私は中から伸びてきた腕に引きずり込まれてしまった。

 何が起きたのか分からなかった。

 目を見開いたリュードの顔が見えたと思ったら扉が閉まり、ガチャリと鍵を閉める音がした。


「な……っ、どういうことですか!」


 リュードが叫び、外から扉を叩く音がする。


「姉さまとお話をしたいと言ったから、僕は……っ!」

「ああ、言ったよ。だから、今二人きりになれた」


 すぐ近くから声がした。背筋が冷える。忘れもしない、第二王子の声だ。

 私を温室に引きずり込み、後ろから抱きしめているのは第二王子だと分かり、体が震える。


「話が違います! 姉さま! 今、開けますから!」

「無駄だよ、ここは中からしか開けられないからね」

「騙したな!」


 リュードが涙声で叫ぶ。


「騙したなんて人聞きの悪い。私はお願いをしただけ。姫を連れて来てほしい、と。君はそれを聞いてくれた。ありがとう、殿下」

「な……っ!」


 私を抱きしめる腕に力が込められる。


「は、離して……っ!」


 腕を引っ張るが、ビクともしない。第二王子の体温が、じわりじわりと染み込んでくる。


「嫌ですよ、姫。ようやく二人になれたのです。仲良く語らいましょう」

「お断りします……!」


 第二王子の息が首にかかり、私はひっと悲鳴を上げる。

 温室の扉を叩く音はもうしない。リュード、助けて!


「ああ、初めて聞いた時から思っていた。姫の声は愛らしい、と」


 うっとりと囁く第二王子に、私の心はぞわぞわしっぱなしだ。

 嫌だ、嫌だ。

 私の求めているものは、この声じゃない!

 もっと透き通っていて、穏やかに耳に入る優しい声。


「エスト……っ!」


 私が叫んだ時、ぐっと腕に力が込められた。


「う……っ!」


 苦しさから呻く。


「嫌だなぁ。姫が他の男の名前を呼ぶのは。しかも、貴女の婚約者を名乗る忌々しい男の名だ」


 第二王子は、怒りからなのか声が震えていた。


「姫、貴女にあの男は相応しくない。貴女には、私こそが良い。あんな仮面で顔を隠す卑怯者よりも、私の方がずっと良い」

「エストは卑怯者なんかじゃない……!」

「また、呼んだ!」

「ひ……っ」


 後ろから首筋に顔を埋められ、鳥肌が立つ。

 違う、私が欲しいのはこの温もりじゃないと心が悲鳴を上げる。


「……そうだ、姫。間違いは正さねばならない。ここで、既成事実でも作りましょうか」

「な、にを……」


 おぞましいことを言い出した第二王子に、私はめいっぱい抵抗を示す。手で腕を引っかき、足を踏む。


「ははは、お転婆な姫も良い」

「離して……っ!」


 大して効いていなくとも、私は抵抗を続けた。

 温室の奥へと連れて行こうとする第二王子の腕の中、必死に口を開く。


「エスト、エスト!」


 愛しい人の名前を。

 そうだ、私はエストさまが好きだ。愛しているのだ。

 偽りの関係でも、そばに居てほしいと願うほどに。


「助けてっ、エスト……!」


 想いの限り叫んだ瞬間、温室の扉が弾き飛んだ。


「なに……!」


 第二王子の驚きの声が聞こえたけど、私はそれよりも壊れた扉の向こうから現れた人に視線が行く。


「その方から、離れろ」


 仮面の向こうから、低い声が響く。

 来て、くれた。

 助けに、来てくれた。


「お前か」


 第二王子は、私から離れることなく余裕の態度を崩さない。


「いい加減、身の程をわきまえたらどうだ。お前と姫では、釣り合いなどとれん。私こそが姫に相応しい」


 どこか酔っている第二王子の声に、怒りが湧く。

 エストさまは、私には勿体ないぐらい立派な方だ! 勝手に決めつけるな。

 そう怒鳴りつけてやろうとした瞬間。

 第二王子の束縛が、急に緩んだ。

 そして、真横の視界に移るのは深緑色に包まれた腕。ばきっという、不穏な音もした。


「ぐあ……っ!」


 後方で第二王子が呻いている。

 殴ったのだ。

 エストさまが。

 呆然とする私は、次の瞬間温かい腕の中に居た。

 エストさまに抱きしめられたのだと理解した途端に、目に涙が盛り上がった。


「エスト、エスト……っ」


 それだけしか言えない私に、エストさまは抱きしめる腕に力を込める。私が求めていた温もりが、体を温めてくれる。


「遅くなり、申し訳ありません」


 エストさまの声が後悔からか、震えている。

 私はぎゅうぎゅうとエストさまに抱きついた。


「良いの、来てくれたから……っ」

「姫さま、無事で良かった……!」


 エストさまの声は、私の心を温めてくれる。


「リュードさまが知らせてくださり、私は心配でどうにかなってしまいそうでした……っ」

「エスト……」


 エストさまは、私のことを本当に案じてくれたのだ。それが、嬉しい。凄く嬉しい。

 このままエストさまの温もりに包まれていたかったけれど、第二王子の呻き声に現実に引き戻された。


「貴様、王子たる私に手を出したこと、後悔させてやる……!」


 そうだ。第二王子は腐っても、一国の王子だ。

 エストさまが罰せられるかもしれない。私は背中が冷たくなった。

 だけど。


「私が許可したんだよ。大事な妹を傷物にしようとした馬鹿を手加減無しに懲らしめろって」


 お兄さまの声がした。

 エストさまの腕の中から見れば、「うわー、原形ないね」と扉を見ながら温室に入ってくるお兄さまが居た。


「で、殿下……」


 第二王子はお兄さまの登場に、怖じ気づいたようにしりもちをついた状態で後退する。


「やあ、君の父君からね言われていたんだよ。愚息が馬鹿をやらかしたら、懲らしめてくれって。手段は任せるからとね」

「ち、父上が……」


 お兄さまは第二王子に近づくと、にっこりと笑った。


「子供思いの、良い父親じゃないか」


 お兄さまの凄みのある笑顔を見た第二王子は、がっくりと肩を落とした。

 そして、そのままお兄さまの騎士さまに連れて行かれた。これからこってりと絞られるのだろう。ざまーみろ。


「さて、エレファ。私ももう行くけれど」

「は、はい。お兄さま」


 お兄さまの手前、抱き合っているのは恥ずかしいけれど。エストさまが離してくれないのだ。うん、なら仕方ないよね。


「婚約の話だけど、私はエストに強要なんかしてないから」

「え……?」

「何となくだけど、エレファが誤解している気がしてね」

「お兄さま……」

「まあ、隣国に貸しを作る為にわざと奴を泳がせていたお詫びもあるんだけどね」

「お、お兄さま」


 台無しだよ。いやまあ、リュードを利用しようと画策していた第二王子に気が付かなかった私も悪いけど……。


「それじゃあ、ね」


 お幸せに、とお兄さまは手を振って温室から出て行ってしまう。

 後には、私とエストさまの二人が残された。


「あ、あの。エスト……」


 何か言わないといけない気がしたけれど、結局何も思い浮かばない。

 私たちは抱き合ったままだ。


「姫さま」

「は、はい!」


 エストさまに呼ばれ、私は顔を上げる。

 彼は抱擁を解くと、仮面を外した。久しぶりに見るエストさまの顔は、傷だらけで、そして優しい顔をしている。


「私は、姫さまが好きです」


 唐突に言われた言葉に、私は目を見開く。

 エストさまは穏やかに微笑んで言葉を紡ぐ。


「貴女が私の為に涙を流してくださった日から、エストは」


 そして、私を真っ直ぐに見る。


「貴女を愛しています」


 私の目から、涙が零れた。


「貴女が私との婚約を望んでいると殿下から聞かされた日は、至上のものとなりました。私は幸福な夢を見ているのだと、しばらくの間寝るのが怖かったほどです。夢なら、覚めてほしくなかった」


 エストさまの言葉をちゃんと聞きたいのに、私の嗚咽が邪魔をする。嬉しいのに、涙が止まらない。


「姫さま、私を疑わないでください。エストの全ては、エレファさまのものです」


 私は自分が恥ずかしい。

 こんなにも想ってくれているエストさまを疑うなんて。

 私はもっとエストさまを見るべきだったのだ。言葉を交わすべきだった。


「エレファさま」


 エストさまが私の肩に手を置く。

 私はエストさまを見上げた。


「私の全ては貴女のものです。だから、貴女の全てを望んでも良いですか?」


 私はぼろぼろ泣きながらも、一生懸命頷いた。


「わたっ、わたくしも、愛しています……っ」


 そして、私はまたエストさまの腕に引き寄せられ、彼の熱に包まれた。


「一生、貴女のそばに居させてください」

「はい……っ」


 私の唇に、温かな熱が触れた。



 そうして、エストさまは侯爵家を継ぐことになり。私は、エストさまの妻となった。

 エストさまは、最高の騎士さまで、そして愛しい旦那さまとなる。

 エストさま、ずっと共にありましょうね。


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