伊山玄太のリアル(1)
宮前奈津美を殺したのは俺だ。
俺は今、俺の住む市から電車で30分移動したところにある山にいる。この辺りではもっとも標高の高い山である。
こんなところには初めて来たし、おそらく今後来ることもないであろう。過去にも未来にも自分とは縁もゆかりもなさそうな山をあえて選んだ。
凶器を捨てるためである。
黄昏時の人通りの全くない獣道を進みながら、俺は回想した。
あの事件の直後、誰も奈津美の死体に近づくことができなかった。
女子の多くは泣き喚いていた。男子の中にも混乱して泣く者がいた。
しかし、もっとも混乱していたのは桧山美月であろう。
瞬きをすることもなく蝋人形のようにずっと立ち尽くしていた。自分が少しでも動いてしまえば、止まった時間が動いてしまうとでも思ったのかもしれない。奈津美がこの世からいなくなってしまってからの時間が。
現実を受け止められなかったのは、俺も同じであった。
取り返しのつかないことをしてしまった。俺はどうしてあんなことをしてしまったのだろう。
止まった時計の針を無理やり動かしたのは、担任の廣田実先生だった。
朝のホームルームのために教室に現れた廣田先生は、クラスの異様な様子にすぐに気付いたようだった。
「お前ら何があった?」
廣田先生は辺りをキョロキョロ見渡し、倒れている奈津美を見つけると、そのまま奈津美の元に向かい、声を掛けた。
「おい、宮前、大丈夫か?」
もちろん返事はなかった。
廣田先生は奈津美の腕を掴み、脈を測った。その後しばらくの間、廣田先生は口を開かなかった。
俺は廣田先生の次の一言を恐れた。
誰がやったんだ、廣田先生はそう言うに違いないと思った。
しかし、違った。
「しばらくしたら、朝のホームルームを始めるから全員席に着いて待ってろ」
クラス全員がこの廣田先生の異常な指示に従った。誰もが自分のするべきことを自分で判断する能力を失っていたのだから、他人の指示に従うしかなかった。
廣田先生は比較的取り乱していなかった数人の生徒に協力させて教室を原状回復した。
不思議なことに奈津美は一滴も血を流していなかったので、死体を黒いゴミ袋に入れて外に運び出し、飛び散った花瓶の破片をほうきで集めてビニール袋に入れただけで教室は原状回復された。
無論、これを原状回復と呼んでいいのかは分からない。教室は相変わらず咽び声と異様な雰囲気に包まれていた。そして、失われた命が取り戻されることは二度とない。
「残念だが、宮前奈津美は死んだ」
この廣田先生の宣言により、俺たちの人生を左右するホームルームが始まった。俺たちの人生に一生刻まれることになる運命のホームルームが。
悲鳴が止むのを待ち、廣田先生は続けた。
「俺は宮前が死ぬに至った具体的な経緯は分からない。だが、それを知ろうとは思わない。誰が宮前を殺したのか、それだけは分かっているからだ。これさえ分かれば十分だからだ」
廣田先生は教室全体を見渡した。生徒一人一人の顔色を窺っているようだった。
教壇から見下ろされると、こうも自分を小さく弱い存在に感じるのか。授業中には感じたことのない感覚だった。
「宮前を殺したのは……」
教室が静まり返った。ずっと泣きやまなかった者ですら、廣田先生の次の一声に耳を傾けるために泣くのをやめた。
多くの生徒が桧山の方に目を遣った。桧山は相変わらず呆然と中空を見つめていたので、自分に視線が注がれていることに一切気付かないようだった。
俺は自分の心臓に刃が突きつけられているのを感じた。
しかし、廣田先生の指摘したこの事件の犯人は、俺の予想を、そして大勢の予想を裏切るものであった。
「宮前を殺したのは、今この教室にいる全員だ」
教室がざわついた。それもそうだろう。突然自分自身が殺人犯として指名を受けたのだから。
「宮前はいじめられていた。いじめはクラス全体の責任だ。宮前を直接いじめていた者には当然責任がある。肉体的な暴力だけじゃない。言葉の暴力だって立派な暴力だ。宮前を無視することだって、それは立派な暴力だ。お前らはそうやって宮前に暴力を振るっていたんじゃないのか?」
俯いて下を向いた生徒は少なくなかった。
「直接いじめていた者だけでない。宮前がいじめられているのを見て見ぬ振りをしていた奴だって同罪だ。見て見ぬふりをするということは、宮前がいじめられていることを容認していたということだ。いじめる者の行動がエスカレートしていったのは、お前らがいじめを容認したからだ。火に油を注ぐことは立派な共犯だ」
「先生、ちょっと待ってください」
声のした方を振り向くと、八田瑞穂が震えながら手を挙げていた。
八田は普段地味で大人しい生徒だ。彼女が授業中に手を挙げて発言しているところなど見たことがない。そもそも今朝のホームルームでは、普段通りのことなど一つもない。
「八田どうした?」
「私は先生の言っていることは違うと思います。私は、いじめを容認してなんかいません。私はずっといじめが嫌でした。奈津美ちゃんが可哀想だとずっと思っていました。だから、いじめはやめて欲しかったんです。でも、止められなくて……私、怖かったんです。いじめを止めようとしたら、今度は自分がいじめられちゃうんじゃないか、とか考えちゃって。だから、仕方なく見て見ぬふりをしちゃってて…」
なんとかそこまで言い切ったところで、八田は泣き崩れて机に伏した。嗚咽で呼吸するのも苦しそうだった。
それでも、廣田先生の返事は、先程から変わらない冷たいトーンだった。
「八田は止める前から、どうして止めた後のことが分かるんだ?実際に止めなかった奴が、後からああだこうだ言っても、そんなのただの言い訳だ。そんな言い訳だったら誰だって言える。それに、自分が代わりにいじめられるのがそんなに怖かったのか?自分がいじめられないために宮前を犠牲にしたのか?だったら、宮前がこうなった以上、お前も責任を負うべきじゃないのか?宮前はお前のために犠牲になったんじゃないのか?」
「先生」
号泣して何も言い返せない八田を受け継ぎ、勇敢にも廣田先生に歯向かったのはクラス委員の秋川洋介だった。
「何だ?秋川」
「そもそも先生は実際に見てないから知らないだろうけど、宮前さんはいじめによって死んだわけじゃない。いじめと宮前さんが死んだこととは別なんです。だから犠牲とかいうのは違うんじゃ…」
「じゃあ、秋川は宮前がいじめと全く関係なく死んだというのか?いじめがあってもなくても宮前は死んでいたとでも言うのか?」
「いや、それは…」
秋川は口籠った。秋川と同じ立場ならば、クラスメイトの誰しもがそうするしかなかったであろう。
「だったらやっぱり、宮前はいじめによって死んだんだ。いや、お前らに殺されたんだ。お前らは宮前に対して、死ね、と思ったことはあるか。手を挙げてみろ」
何人かの生徒は恐る恐る手を挙げた。俺は手を挙げなかった。本当は手を挙げるべきだったが、その度胸がなかった。
廣田先生は手を挙げた生徒を断罪することもなく、誰が手を挙げたかを確認することもなく、手を降ろすように指示した。
「今、手を挙げるかどうか迷った奴がたくさんいるんじゃないか?宮前に確かな殺意を持っていた奴は少ないかもしれない。宮前に本当に死んで欲しいと思っていた奴はもっと少ないかもしれない。だけど、そんな不確かでちっぽけな殺意でも、クラスの大勢のそれが集まれば、巨大で確かな殺意になるんだ。いいか。誰か一人が宮前を殺したんじゃない。宮前を殺したのはこのクラスだ」