川崎愛未のリアル(3)
「嘘でしょ。信じられない…」
携帯電話から聞こえる美月の声は、窓を強く叩く雨音にかき消されそうなほどに小さかった。
私はびしょ濡れで自宅の玄関に座わりこんでいた。校門から家まで傘も差さずに走ってきたのだ。もしかしたらカバンの中に折りたたみ傘が入っていたかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。
仮に雨に濡れなかったとしても、私の顔は、私の心は涙でびしょ濡れなのだから。
私は見てしまったのだ。
奈津美と白石君が同じ傘に入って笑い合っているところを。
ショックだった。認めたくなかった。頭の中が真っ白になった。
私は無我夢中で家まで駆け出した。
息を整える間もなく気が付いたら美月に電話を掛けていた。
「愛未、どうしたの?」
美月はただならぬ様子を瞬時に感じ取ったようだった。
私はさっき見た光景を美月に伝えようとした。途切れ途切れのちぐはぐな言葉で。
美月は私を急かすことなく、最後まで話を聞いてくれた。
伝わった、そう思った。
しかし、美月の反応は私の求めていたものとはかけ離れていた。
「奈津美は愛未のことを裏切ったんだね」
裏切った?何か違う。
たしかに奈津美は、私が白石君のことを好きなことを知っていた。知った上で、応援するよ、と励ましてくれた。
しかし、私みたいな陰気で可愛くもない奴が、白石君みたいなスポーツもできてかっこよくて女子からも人気のある人と付き合える可能性はないに等しかった。それどころか、私は彼を屋上から見ていただけで、彼に話しかけられるようなチャンスすらなかったのである。
どう考えても、奈津美の方が白石君とお似合いだ。彼女は天真爛漫で賢くて、それでいて美人だから。
奈津美が白石君と付き合っていたところで私は何も失っていないはずだ。
だから、奈津美が私を裏切ったというのは、違う。
それでも私が泣きじゃくって何も言い出せないうちに、美月は続けた。
「親友を裏切るなんて最悪だよ。私、奈津美がそんな子だとは思わなかった」
最悪?
違う。絶対に違う。
私が美月に電話したのは、そんなことを伝えるためじゃない。
私が相合傘で歩く奈津美と白石君を見たときにショックを受けたのは、奈津美に白石君を取られたからじゃない。
逆だ。
白石君に奈津美を取られたからだ。
大好きな奈津美が私から離れていってしまう、奈津美が遠くに行ってしまう、そう感じたからだ。
私にとって一番大切なのは、奈津美との関係である。もっといえば、美月も含めた三人の友情である。
違う、そう言いたかったのに、出てくるのは嗚咽だけだった。
「私は愛未の味方だからね。もう奈津美のことは信用できない。許せない」
違う。美月、そうじゃない。
「もう奈津美とは絶交だから。口利かない」
違う。なんでそうなるの?
「奈津美のことなんて無視しよう。自分がやったことを後悔させないと」
美月、お願いだから気付いて。私の心の声を聞いて。
「明日から無視だからね。復讐するから」
どうして。どうしてコントロールできないの?
事態は私の全く望んでいない、最悪の方向に進んでしまった。
美月は友達想いで優しかった。だからこそ、次の日、彼女は私のために奈津美を無視した。
教室に入ってきて、おはよう、と声を掛けた奈津美を、美月は睨みつけ、そのまま私の手を引いて廊下に出た。
「美月、愛未……」
教室の窓ガラス越しに、奈津美の戸惑った表情が見えた。
「何事もなかったように挨拶してくるなんて、どういう神経してるんだろう。あんなことをしておいて」
「美月、やっぱり無視するなんてやめようよ」
私はようやく美月に提案した。
「無理しないで。愛未は奈津美に同情しなくていいんだよ。愛未は被害者なんだから」
美月はそう言って、私の肩を叩いてポンポンと叩いた。
美月の邪気のない微笑みを目の当たりにして、私は何も言い返せなかった。
私は奈津美が私に話しかけてくることを期待していた。
奈津美が話しかけてきたら、先程無視してしまったことを謝り、いつも通り仲良くおしゃべりをしようと考えていた。
しかし、休み時間も放課後も奈津美が私や美月に話しかけてくることはなかった。
奈津美は、朝に一度無視されただけで全てを悟ったかのようだった。
私は罪悪感の中一日を過ごした。
しかし、もしかしたら、奈津美はそれ以上の罪悪感を背負って一日を過ごしていたのかもしれない。その必要など一切ないのに。
翌朝、起きると奈津美からメールが届いていた。受信時刻は午前三時過ぎと表示されていた。
そのメールは、私への謝罪の文面から始まり、奈津美が白石君に手を出してしまったことを反省する文面、私や美月が奈津美を無視するのも当然のことだと考えているという文面と続き、最後はこのメールには返信不要であると締めてあった。
私はどうして良いのか分からなかった。
返信不要、とあるが、本当に返信する必要はないのか。
色々と考えあぐねているうちに、家を出なくてはいけない時刻になったので、結局メールに返信しないままに学校へと向かった。
私は今朝届いたメールのことを美月に相談した。
「やっぱり奈津美から白石君を誘ったんだね。最悪。絶対返信しちゃダメだからね。愛未は裏切られたんだから泣き寝入りしちゃダメ」
美月の反応は想像通りだった。
私は奈津美が座っている机の方に目を遣った。
奈津美は昨日一睡もできなかったようで疲れ果てているようだった。目の下の隈が酷く、髪もボサボサで、普段の美しさが失われていた。
定まらない焦点で私と美月の方を眺めていた奈津美は、私と目が合うと、慌てて目を逸した。
何もかもが分からなくなった。
美月が何を考えているのか分からない。
奈津美が何を考えているのかも分からない。
どうしよう、と悩んでいるうちに、最終的には自分自身が何を考えているのかもさっぱり分からなくなった。
結局メールには返信できなかった。
今思い返せば、三人が元通りになる最後のチャンスを逃してしまったのがこのときだった。
このメールに返信さえしていれば、私が奈津美を許してさえいれば、こんなことにはならなかったはずだ。
奈津美が死ぬことだって絶対になかった。
それなのに私は、私は―
美月の奈津美への復讐はエスカレートしていった。
無視だけにはとどまらず、嫌がらせも始まった。
こんなの復讐でもなんでもない。単なるいじめだ。というより、そもそも復讐なんて最初から存在しない。被害者とされていた私は、実は被害者ではないのだから。
それなのに他のクラスメイトも美月に賛同し、一緒になって奈津美をいじめた。
皆が奈津美に対して悪意を向けた。この悪意はどこからやってくるのだろうか。奈津美は何も悪いことはしていない。それなのに奈津美は皆から恨まれ、皆から排除されようとしていた。
「そもそも入学した時から奈津美のことが嫌いだった」
いじめの先導者である美月はことあるごとにそう言った。
ー嘘だ。そんなの真っ赤な嘘だ。
美月は奈津美のことが大好きだったはずだ。
毎日のように一緒にふざけあっていたではないか。屋上で一緒に笑い合っていたではないか。
美月は私のために大好きな奈津美のことを無理矢理大嫌いになったのだ。私のために。私のためにならないのに。
どうして全てが私の思い通りにいかないのか。
全てが私の望んだ方と逆方向に転回していくのはなぜなのか。
私の人生は私のもので、私自身が決められるのではないのだろうか。
なぜ私の人生なのに私がコントロールできないのか。
ーいや、コントロールできないのは人生だけではない。
私は私自身すらコントロールできていない。
奈津美のメールに返信しなかったのは他の誰でもない。私自身だ。
私が奈津美を殺した。
私は、携帯電話で110番にダイアルした。
男の人の低い声が、どうしましたか、と尋ねてくる。
私が奈津美を殺した、そう言おうと思ったが、口籠ってしまった。
ーどうして。どうして言葉にならないの?
低い声がさらに尋ねてくる。
私が奈津美を殺した、私が奈津美を殺した、私が奈津美を殺した―
言葉は頭の中をグルグル回っている。
しかし、いつまで経っても出口には至らない。
気付いたら、私は電話を切っていた。
私はまた私自身をコントロールすることができなかったのである。




