桧山美月のリアル(2)
奈津美への復讐が始まってからもう五か月が経過した。
しかし、奈津美のふてぶてしい態度はなかなか改善されない。どうすれば彼女の長い鼻をへし折る事ができるだろうか。どうすれば彼女を真に反省させることができるだろうか。
時刻は八時二十分。朝のホームルームが始まるまではあと十分ほどの時間がある。教室には既に半数程度の生徒が来ていたが、奈津美はまだ姿を現さない。
私はあるいじめを思いついた。使い古されていて、かつ、侮辱的な最高のいじめだ。
五分後、奈津美が教室に現れた。革製の値が張りそうなスクールバッグを片手に提げ、背筋を伸ばして堂々と教室を闊歩している。気にくわない。
教室の一番窓際にある自分の机の方に近付いた奈津美は異変に気が付いたようだ。
「美月でしょ。こういうセンスのないいじめを思いつくのは」
奈津美は私を睨みつけた。唇がわなわなと震えている。冷笑的ないつもの彼女の態度ではない。目には涙も浮かんでいるように見えた。
「本当にセンスない。最悪。本当に最悪」
奈津美は、自分の机の真ん中に置いてあった花瓶をスクールバッグを持っている手とは逆の手で持ち、元々花瓶が置いてあった担任の机にそれを戻した。彼女は力んでいて、担任の机に戻す際には、花瓶が割れてしまうのではないかと思うくらいの大きな音がした。
私は奈津美の予想もしなかった反応に驚き、しばらく言葉を失っていた。
私の隣の席の男子が声を上げた。
「どうして桧山がやったって決めつけられんだよ。やったところ見てねぇだろ」
「誰がやったとかはどうでもいい。冗談でやって良いこととダメなことがあるよ」
勢いよく喋り出したものの、最後の方は消え入るような声だった。いつもの自分に酔ったような高飛車な話し方ではなかった。
「別に花瓶を机の上に置いただけじゃん。綺麗でしょ。お花」
加勢を得た私は、奈津美のただならぬ様子に恐怖のようなものを抱きつつも、臆することなく言った。周りで何人かのクラスメイトの笑い声が聞こえた。
奈津美はしばらく下を向いて黙っていたが、やがて顔を上げて私の方を見た。
その瞬間、奈津美の目から大粒の涙が零れ落ちた。
「一昨日、私の家の近所に住んでいた一人暮らしのお婆さんが亡くなったの。美月、人が死ぬことの意味は分かる?」
「何言ってんの?あんたの近所のお婆さんの話なんて知らないわよ」
奈津美は私の方をじっと見つめたままだった。涙で滲んで私の顔などロクに見えていないのかもしれないが。
奈津美は振り絞るような声で言った。
「美月は私に死んで欲しいの?」
言葉に詰まった。
私は奈津美に死んで欲しいのだろうか。奈津美の事をそこまで恨んでいるのだろうか。
―いや、恨んでいる。
私は奈津美のことが大嫌いだ。彼女の全てが気にくわない。奈津美と同じ年に同じ国、同じ地域に生まれ、同じ中学校に通い、同じクラスで一緒に授業を受けることが本当に許せない。
私は奈津美が大嫌いだ。
大嫌い。大嫌い。大嫌い。大嫌い。大嫌い。大嫌い。大嫌い。大嫌い。
しかも、奈津美のことが大嫌いなのは私だけじゃない。
奈津美に裏切られた愛未はもちろん奈津美のことが大嫌いだ。おそらく私以上に。
それに他のクラスメイトだって。
奈津美のことが大嫌いで大嫌いで大嫌いで、みんなして奈津美のことをいじめてるじゃないか。
そうだ。悪いのは奈津美なんだ。全部彼女のせいだ。
奈津美に生きる価値なんて無い。彼女は死んだ方が良いんだ。
私のために愛未のためにみんなのために。
「死んで欲しい」
私がそう言うと、奈津美は大きなむせび声を上げた。
「私、生きる価値ないかな?」
「ねえよ馬鹿」
誰かが大声でそう言い放った。
「美月に訊いてるの。美月、私、生きる価値無いかな?」
「ないよ」
今度は即答した。
奈津美は再びむせび声を上げる代わりに、今度は驚くような提案をした。
「美月、私のことを殺して」
「え?」
「その花瓶で私の頭を思いっきり殴って。そうしたらきっと死ぬよ」
奈津美は担任の机に置いてあった花瓶を手に取り、私の方に向かって歩き始めた。
奈津美の足元はふらついていた。全身に力は入っていなかった。陶器の花瓶を持つのがやっとというところだろう。机にぶつかりよろめいて倒れそうになっていた。
それでも間近で見た奈津美の目は、涙の水に浸っていたものの、力強かった。彼女の提案からすると逆説的だが、生気で溢れた目だった。
「はい。どうぞ」
奈津美は花瓶を私に差し出した。
青い円筒形の陶器の花瓶は、鉄よりも硬く重く、氷よりも冷たく見えた。
―どうしよう。私は本当に奈津美を殺すべきだろうか。
私は奈津美のことが大嫌いだ。心から大嫌いだ。でも―
愛未の復讐をしなきゃいけない。私が愛未の復讐をしなきゃ。でも―
奈津美はクラスの敵だ。みんなが奈津美のことを嫌い、恨んでいる。でも―
奈津美は悪だ。奈津美を殺すことこそが正義だ。でも―
というか、私はそもそも奈津美のことが嫌いなのだろうか。
―いや、嫌いだ。それは間違いない。
じゃあ、なんで嫌いなんだ?
えーっと……なんでだっけ?
「早くしてよ」
奈津美は私の胸に花瓶を押し付けた。
―冷たい。氷よりも冷たい。
私は思わずあとずさりした。それに合わせて、奈津美は一歩踏み出した。
もうやだ。訳が分からない。どうしてこうなったんだ。
時間を巻き戻してやり直したい。時間を巻き戻す―いつに?
今朝?
それとも、奈津美と仲良くしていたあの頃?
私は目を閉じた。目の前の出来事を遮断したかった。この場から逃げ出すために。全てから逃げ出すために。
「殺しちゃえよ」
誰かは分からないが、男子の声が聞こえた。
一瞬の静寂。
そして―
今まで聞いたことのあるどの音からも遠い、鈍く、重たい音がした。
何かが地面と衝突する音がした。
地面が揺れ、空気が揺れ、世界が揺れた。
四方から悲鳴が聞こえた。
私はそっと目を開けた。
そして、床に散っているものに目を向けた。
黄色と白のコスモスの花。
瑠璃色に輝く陶器の破片。
目を閉じて横たわる制服の少女。
採光の良い窓から入ってくる朝日に照らされて、それらは悲劇の光景に似つかわしくないくらいに美しかった。
―あぁ、そうか。私は殺してしまったのか。
奈津美を。私のかけがえのない親友を。