阿部寿々花のリアル(2)
倒れている奈津美の脈を測った廣田先生は、奈津美が生きていて、ただ気絶しているだけであることを知った。
そこで、普通の対応、すなわち、救急車を呼んだ上、奈津美の両親に連絡をする、という方法を採ることを思いついた。
しかし、この方法はその場しのぎに過ぎない。なぜなら、病院から退院してクラスに戻ってきたならば、奈津美はまた今まで通りいじめを受けるからである。その場合、次こそは彼女がクラスメイトによって本当に殺されてしまう日が来るかもしれない。
そこで、廣田先生は、奈津美を死んだことにし、自分の家に持ち帰るという、普通ではない対応を採用した。
この方法ならば、もう奈津美がクラスメイトからいじめを受けることを金輪際回避することができる。彼女を確実に救える。
廣田先生は、奈津美をゴミ袋に入れ、校舎裏の駐車場にあった自分の車まで運んだ。奈津美は華奢で軽かったので、若くて体格の良い廣田先生ならば、一人で運ぶこともそう難しくはなかっただろう。
その後、教室に戻った廣田先生は、奈津美が死亡したことを生徒に告げた。
その上で、奈津美についてクラス全体に責任があることを説き、各自の責任に応じて花瓶の破片を持ち帰らせた。
これは、口封じのためである。
この朝に教室であったことをクラス全体の秘密にし、口外させないためのよく考えられた策である。
実際にこの策は功を奏している。現在このクラスの生徒達は、あたかも奈津美が、単に家出中であるかのように振舞っている。むしろ、それを超えて、彼女が最初からクラスメイトとして存在していなかったのだ、と、とぼけているようにも見える。
罪の意識の共有は、かつてないクラスの団結を生んだのだ。
無論、この口封じの目的は、廣田先生が奈津美を持ち帰ったことを、クラスの外の者に対して漏れないようにすることである。
今頃、奈津美は廣田先生の家で平和に過ごしているに違いない。勉強面については心配がない。奈津美はクラスで一番成績優秀だったし、同居しているのが学校の先生なのだから、必要があればいつでも教えを乞える。彼女が学校に通う必要はない。
考えてみると、この大掛かりなフィクションは、気絶していた奈津美の同意なく、廣田先生の独断で構築されている。
しかし、そのことに一切問題はなかったはずだ。
なぜなら、奈津美と廣田先生は愛し合っていたからだ。
おそらく、奈津美はいじめの被害を廣田先生に相談していて、その相談に乗るうちに二人は惹かれ合っていったのであろう。
禁断の恋である。しかし、二人が甘美な誘惑に堕ちたことに頷けなくもない。
廣田先生はまだ二十七歳という若さであったし、奈津美は大学生と見間違えそうなくらいに大人びたルックスを持っていたし、考え方も達観していた。
今回の事件は、駆け落ちという側面もあったのだ、と私は推理する。
二人の交際を、奈津美の両親が認めるはずがない。中学生と担任の先生との恋愛なんて非常識だ。社会も決して認めない。
だから、奈津美をクラスの中では死んだことにし、対外的には行方不明者とすることによって、二人は駆け落ちしたのである。
以上の事件の真相は、単なる私の妄想ではない。決定的な証拠がある。
私は偶然見てしまったのである。
それは事件当日の放課後。
硬式テニス部の練習中、ウォーミングアップで校庭の外周を走っているときであった。
私はほどけてしまった靴ひもを結び直すためにその場にしゃがみこんだ。柵越しに教員用の駐車場が見えた。
そこで偶然見てしまったのである。
廣田先生の車の後部座席で、ゴミ袋から顔を出した奈津美と廣田先生がキスをしているところを。
この光景は、未だに私の脳裏に焼きついて離れない。
私は何か見てはいけないものを見てしまった気がして、ほどけた靴ひももそのままに全力で駆け出した。
走っている最中も何度も何度もその光景がフラッシュバックしていた。
ドラマや映画以外で接吻のシーンを見るのは生まれて初めてだった。
しかもその二人は生徒と先生の関係であり、さらにその一方は既に死んだとされていた者だった。
心臓がバクバクして止まらなかったのは、全力疾走をしているから、という理由だけではない。
私は興奮していた。スニーカーで地面を蹴るたびに少しずつ体温が上昇していくような気がした。
奈津美は生きている。
そして、奈津美と廣田先生は愛し合っている。
私は駐車場で見たことをまだ誰にも話していない。
奈津美が生きていて、廣田先生の家で匿われていることを披瀝してしまえば、せっかく手に入れた奈津美の幸福が失われてしまう。奈津美をまたいじめの業火の中に連れ戻すことになってしまう。廣田先生との甘い新生活も反故にしてしまう。
それに、クラスメイトはもはや奈津美のことに関心を失っているようだ。彼らの中に奈津美はもういないのだから、彼女が生きていようが死んでいようがどうでもよいだろう。
しかし、私は奈津美の死の幻影を引きずっている者がクラスの中にいることにも気付いていた。
川崎愛未はその一人だった。
愛未はあの事件の以降、極端に元気がない。
誰が話しかけても空返事を返すだけであるし、学校も休みがちであった。
奈津美がいなくなってから、新たな秩序で動き出したこのクラスの中で、愛未は自分の居場所を見つけられないようだった。
仕方のないことだろう。
愛未は被害者だ。奈津美の裏切りの被害者ではない。意思に反していじめの大義名分に自分の名前を借用された被害者だ。そのいじめによって人が死んだとなれば、愛未が自責の念に駆られることもやむをえない。
愛未にだけは真実を伝えようと思った。彼女は真実を欲している。
私は、休み時間に椅子に座りながらぼんやりと窓の外を眺めていた愛未に声を掛け、美術室の前にあるトイレに来るように伝えた。このトイレは学校の隅にあるため、利用する生徒がほとんどいない。そのため、内緒話をするにはうってつけだった。
愛未は黙ってついて来た。水道管を流れる水の音しか聞こえない無人のトイレで、私は切り出した。
愛未は私の話を遮ることもなく、相槌を打つこともなくただただ聞き続けた。
接吻の件でも特に反応がなかった。終始無表情だった。
私が全てを話終えたところで、愛未はポツリと呟いた。
「今からでもやり直せるかな」
私はこの愛未の言葉の意味が分からなかった。
ただ、愛未はこれ以上言葉を発することがなかった。




