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仰せのままに、御主人様(10)

(そんな事を考えていたんですか……)

 マデーラが無茶を言いだしたのは、ただ単に生まれ育った家を取り戻したいだけなのだと思っていたヴェネフは己を恥じた。彼の小さな主人は、彼が思っていたよりもずっと先を見ていたのだ。

「だから、ずっとここで働く事は出来ないの。いつまでって、はっきり決まってもいないけど……。それでも、いいかしら」

 マデーラの条件に、アルポイはすぐに返答はしなかった。

 純粋な善意の申し出に対し、こちらから条件をつけるなど失礼にも取られかねないだろう。生意気なと思われても不思議ではない。

 時間にしてもそれは決して長い時間ではなかったと思う。だが、横で見守るヴェネフには何だかとても長い時間に感じられた。

 それはマデーラにとってもそうだったようで、珍しく緊張した様子でぎゅっと握り締めている両手が時と共に微かに震え始める。

「……ふ」

 やがてアルポイの口から吐息が漏れたと思うと、

「ふ、あはは、はははは!」

 それはそのまま、実に楽しそうな笑い声となった。

 どんな反応が返って来るかと固唾を飲んで見守っていた側からすれば、まさか真剣な言葉をそんな風に笑い飛ばされるとは思ってもみなかった。

 マデーラもぽかんとした顔で肩を揺するアルポイを見つめている。

「ははっ、は、は、ヒィ」

「ア、アルポイさん、大丈夫ですか?」

 その内、笑い過ぎて苦しくなったのか若干呼吸困難気味になってきたのを見て取り、ヴェネフは遠慮がちに声をかけ、ぷるぷると震えるその背をさすった。

「だ、だい、じょうぶ。……っ、ああ、こんなに笑ったのは、随分久し振りだよ……くくっ」

「何よ、そんなに笑わなくたっていいじゃない」

 こちらは真剣だったのにと頬を膨らませながら不満を訴えるマデーラに、アルポイはうっすら涙が浮いた目を擦りながらごめんごめんと謝る。そして心配そうに背を撫でるヴェネフにも視線を向けると、軽く頷いてもういい事を伝えてきた。

「はあ……、いやはや、嬢ちゃんを小さな子供とは思っていなかったんだがね。まさかそんな事を考えているなんて思ってもみなかったなあ」

 続いた言葉にも怒りは感じられない。どうやらアルポイの機嫌を損ねる事はなかったようだが、かと言ってマデーラの申し出にそこまで爆笑するような要素があったようにも思えない。

「笑ってしまって悪かったね。別にばかにしたつもりはないんだが……くくっ」

「もう! アルポイさん、何がそんなにおかしいの?」

 なかなか笑いの発作から立ち直れないアルポイに、痺れを切らしたかのようにマデーラが食ってかかれば、アルポイはその大きな手でマデーラの頭をそっと撫でた。

 突然の事に、マデーラは驚いたようにアルポイを見上げる。

「あのだね、嬢ちゃん。辞めたくなったらいつでも言ってくれて構わない。一従業員として二人を雇うつもりだし、従業員が個人の都合で仕事を辞めるのは普通の事だ。わざわざそんな予防線を張る必要なんてないんだよ?」

 笑いの気配の残る声で、アルポイはそう諭す。

 言われてみれば、確かに普通はわざわざ『いつか辞めます』と宣言して雇われる事はないだろう。マデーラの言葉は裏を返せば世間知らずを露呈している事になり、アルポイが笑うのももっともだ。

 うっかりマデーラの言葉に感心してしまい、ヴェネフもそうした事を失念していた。これではマデーラの事を世間知らずとは言えない。

「……そうなの?」

「そうだよ。二人を雇うと言ったって、私は別にこの店を二人に後を継いでもらおうとか背負いこませる気はないよ」

 くくっと喉の奥で笑い、アルポイは言う。

「もちろん、私が店を畳む時に仕事を引き継ぎたいというのなら話は別だけどね?」

 その言葉にマデーラは少し安心したような笑顔になり、再びアルポイに抱きついた。

「おっ?」

「ありがとう、アルポイさん……!」

「はは、礼を言うのは早いかもしれないよ。仕事は仕事、だ。ちゃんと働いて貰うからね?」

「もちろんよ、頑張るわ! ね、ヴェネフ」

「ええ。やるからには最善を尽くしますよ」

「はは、それは心強いな。それじゃあ、場所を変えて雇用条件を話し合おうか。大事な事だからね」

 その言葉に異存はない。何となくいい雰囲気で狭い厨房を出て店舗に戻りかけた時、ふとマデーラの視線を感じて目を向けると、マデーラがにっこりとイイ笑顔を浮かべた。

 ──嫌な予感しかしない。

 一体何を思いついたのかと問い質す前に、マデーラが口を開く。

「アルポイさん。本当にありがとう」

「ん? はは、まだそんな事を言ってるのかい?」

 アルポイはその後に続く爆弾発言を予想もせずに、朗らかに笑う。

「当然よ。いくらお礼を言っても足りないわ。だからね」

 そしてマデーラはぐっと拳を握り、晴れやかな笑顔でヴェネフも予想しなかった事を宣言するのだった。


「お店の事はともかく老後は安心してね! ちゃんと面倒見るから、このヴェネフが!!」


+ + +


(──本当に、いくつ心臓があっても足りませんよ……)

 アルポイの元を辞した帰り道、しみじみとヴェネフは思う。

 あの後、その言葉を本気に取らなかったアルポイはまた爆笑して呼吸困難に陥るし、話をいきなり振られたヴェネフも、下手な事を言えずに困惑する羽目になった。

 『それはありがたいなあ』とアルポイが冗談として受け止めてくれたので、その場を何とか誤魔化す事も出来たが、ヴェネフにはわかる。あれは真実、本気の言葉だ。

 実際、今回受けた恩は普通の勤労だけで返せるものではないと思う。何しろ、二人とも路頭に迷わずに済んだのだ。提示された雇用条件も随分とこちらに都合の良いものだった。

「……ああいう事は、もっと時と場合を考えて言うべきですよ」

 この調子では先が思いやられると思い、隣を歩くマデーラに一言言えば不思議そうな目を向けてくる。

「え? さっきのこと?」

「はい。恩義に報いたいという気持ちはわかりますが、いきなり老後の世話なんて言われても驚かれるだけです」

「だって、いい考えだと思ったんだもの」

 ぷうと唇を尖らせてマデーラは反論する。

「ヴェネフは家族がいないって言っていたでしょう? アルポイさんも身内がいないって言ってたわ。だったら、ヴェネフが家族になってあげたらいいと思って。ヴェネフだってこれからお世話になるんだし、老後くらい……」

「いやいや。ですから、少し話が性急過ぎると言っている訳でして」

 軽い頭痛を覚えつつ、ヴェネフはマデーラの言葉を遮った。主人の言葉を途中で遮るなど、使用人にはあるまじき事だが、ここははっきりさせておかねば。

 マデーラの言わんとする事はわかるのだが、ヴェネフとアルポイはそもそも今日が初対面だったのだ。今日のやり取りで人となりはそれなりにわかったが、まだ家族同様と言える間柄ではない。

「──もしかして、お嬢様。遠回しに私に解雇を勧めていらっしゃいますか」

「えっ?」

「先程の発言はそのようにも受け取れるのですが。今の主人はお嬢様ですから、お嬢様が私の事を不要と仰るのであればその言葉に従うまでです。お暇を頂きます」

 予想外だったのか目を丸くするマデーラに、心の内で溜息をつきつつ、ヴェネフはやはりそういう意図はなかったのかと安心する。

 使用人にとって、仕える主人に『不要』『役立たず』『邪魔』と思われるのは何よりも辛い所だ。

 ヴェネフの言葉にようやく、自分の言葉がいろいろな意味で問題発言であった事に気付いたのか、その歩みが止まった。

「ち、違うわ。そういうつもりはなかったの!」

「そうですか」

「ヴェネフがうちの使用人なのはこれからも変わらないわ、本当よ? ただ、アルポイさんにも家族が出来たら嬉しいかなって思って、だからその、ヴェネフ。わ、わたし、ね……!」

 振り返れば、マデーラは抱えた冬林檎にも負けないほどに頬を赤らめ、必死に言葉を紡ごうとしている。

 いつもは無駄に口達者なくせに、何かとても重要な事を言おうとしたり、謝罪しなければならない場合、途端に口の回転が鈍くなるのはマデーラの子供の頃からの癖だったので、ヴェネフは黙って言葉の続きを待った。

「その……っ、ヴェネフの事を家族みたいに思ってるし、と言うかそれ以……じゃなくて!!」

 ……一体何が言いたいのだろう。てっきり『いきなり無茶な事を言ってごめんなさい』と言いたいだけだと思ったのだが、どうも違うようだ。

 この寒風吹きすさぶ中、寒さに弱い身で言葉を待つのは結構辛い。気を抜けば、多分すごい勢いで歯がガチガチ鳴るだろうと思う。

 けれど、ヴェネフはよく出来た使用人だったし、空気を読む男だったので必死に耐えた。ここで話の腰を折るような事をしたら、後がとても怖い気がしたのだ。

「だから……!」

 ようやく思い切りがついたのか、マデーラは真っ赤な顔を上げ、まるで挑むようにヴェネフを見つめると一気に言い切った。


「わ、わたしが……ヴェネフを一生、養ってあげるわ!!」


「──……」

「……」

 なんとも奇妙な沈黙が降りた。

 言われたヴェネフは予想外の言葉に目を丸くするばかりだったし、言った本人であるマデーラも何故かとんでもない失敗でもしたかのように青ざめた。

 確かにマデーラは、彼にとっては唯一無二の主人である。

 なので、『養ってあげる』という言葉はそういう意味では間違いではない。間違いではないのだが──だが、しかし。

 言葉が言葉だったので、一瞬それはいわゆる『ヒモ』的な意味かとも思ったが、流石にそれはないだろうとヴェネフはすぐに思い直した。

 大切に育ててきたお嬢様がそんな下賤な言葉を知るはずがない。いや、知っていて言っていると考えたくない。

 ──と、いう事は。

(……、一生、このままお嬢様に仕えろという事ですかね?)

 出てきた一番納得の行く答えに、ヴェネフは眉間に皺を刻んだ。嫌だとかそういう以前に、それでは困る。

 確かに今日の一連の出来事で、マデーラはただの庇護すべき対象ではなくなったが、やはり出来れば一人前の商人としてよりは、一人の女性として幸せになって貰いたい気持ちの方が強いのだ。

 マデーラの幸せを見届ける事こそ、今は亡き旦那様と奥方様への何よりの奉公だとヴェネフは信じている。おそらくそれは間違いではないはずだ。もちろん、嫁いだ先がヴェネフの手を必要としてくれるのあれば話は別だが。

 ──けれど、今はともかく寒い。

 そういう事はこれから時間が解決してくれると信じて、ヴェネフは何故か呆然としているマデーラに言葉をかけた。

「それはこれからのあなた次第ですよ、お嬢様」

 その言葉で、まるで魔法が解けたかのようにマデーラの目に生気が戻った。

「そ、そうよね! これからよね!! わたし、頑張るわ!!」

「……? ええ、頑張って下さい」

 何故か拳を握って意気込む様子に首を傾げる。急に黙り込んだり、元気になったり、やはり年頃の少女は謎の生き物だ。

「すっかり遅くなっちゃったわね。ヴェネフも寒いでしょ。早く家に帰りましょ!!」

 林檎の袋を片手に抱えなおし、マデーラが彼の手を引いて先に歩き出す。冷え切った彼の手に、その手はとても暖かかった。

「ほら、早く! お腹ぺこぺこなんだから!」

「はいはい。……仰せのままに、御主人様マ・リスタ

 御主人様の歩調に合わせるのも仕事の内だ。けれど、たまにはこうして引っ張られるのも悪くないと思う。──……たまには、だが。


+ + +


 『貿易王』ティガル・フェンデは、全ての海を制した事によって、各地でしか採れない貴重な物を取り扱えた事により財を為したという。

 もはやそれは過去の伝説でしかないが、マデーラ・フェンデの物語はここから始まったばかり。

 彼女が祖父のような大商人になるのか、それとも女の幸せを掴むのか。はたまた両方とも手に入れるのか──それは神のみぞ知る物語。

この話はひとまずここで完結です。最後までお付き合いありがとうございました!

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