第9話 なんだかとても、甘かった
「同伴者として社交界に出る以上、王国の現状も把握しておけ。今夜は少し、書類に目を通してもらう」
そんなもっともらしい理由で、ルカ=フォン=エデルハインは公爵邸の執務室に呼び出されていた。
しかし実態は、山のように積まれた書類の仕分けと整理の手伝いだった。
(これ、完全に便利な作業員として使われてるやつだ。でもまあ、お給料──領地への投資をたっぷりもらってる身だし……文句は言えないか)
夜の執務室。
温かなキャンドルの明かりだけが揺れる部屋で、グレアムが羽ペンを走らせるカリカリという音と、書類を捲る乾いた音だけが静かに響いていた。
最初のうちは前世の社畜OLスキルを発揮し、恐ろしいスピードで書類を仕分けていたルカだったが。
夜も更けてくると、次第に強烈な睡魔が襲ってきた。
(やばい、眠い……。前世なら、ここで栄養ドリンクを一気飲みしてたところなんだけど)
そんな便利なものがないこの世界で、ルカは己の肉体だけで眠気と戦う羽目になった。
目を見開いて書類の文字を睨みつけるが、文字がぐにゃぐにゃとゲシュタルト崩壊を起こして見えてくる。
これはマズいと立ち上がって作業をしようとすると、デスクの向こうからグレアムの「座れ」という低い声が飛んできた。
最終手段として、こっそり自分の頬を抓り、メイドのエマが夜食用に置いていってくれた焼き菓子を口に放り込んで誤魔化す。
そんなルカの不審な動きに気づいたのか、グレアムが書類から目を上げた。
「……眠いなら、もう帰れ」
呆れたような、それでいて少しだけ温度の低い声。
しかし、お給料分はきっちり働きたいルカは、首を横に振った。
「いえ、大丈夫です! まだやれます!」
グレアムは、強がるルカの顔を一瞬だけ見つめ。
何も言わずに、再び視線を書類へと戻した。
*
しかし、社畜の意地も生理現象には勝てなかった。
ルカが限界を迎えたのは、それから三十分後のことだった。
自分がいつ意識を手放したのか、ルカ自身にもわからなかった。
静かな執務室。
グレアムがふと顔を上げると、向かいのソファーで、ルカが書類の束を胸に抱えたまま、こてんと首を傾けて完全に眠りに落ちていた。
すー、すー、と規則正しい、無防備な寝息が聞こえる。
グレアムは無言のまま羽ペンを置き、立ち上がった。
足音を殺してソファーに近づく。
そして、ルカが抱え込んでいた書類を、起こさないようにそっと抜き取った。
座ったまま不自然に曲がっていたルカの身体を、大きな手でゆっくりとソファーに横たえさせる。
執務室の奥にあるクローゼットを開け、自分用の肌触りの良い厚手の毛布を取り出すと、それをルカの小さな肩までふわりと掛けた。
部屋を明るく照らしていた数本のキャンドル。
グレアムはその日を、ルカの顔に当たらない遠くの一本だけを残して、全て吹き消した。
全部、無言で。
誰にも見せることのない、彼だけのひっそりとした動作で。
薄暗くなった部屋で、グレアムは自分のデスクへと戻った。
残りの書類を片付けるその間、彼は時折手を止め、ソファーで丸くなるルカの寝顔を、ただ静かに見つめていた。
*
翌朝。
小鳥のさえずりで、ルカは目を覚ました。
「……んん」
見慣れない、豪奢な天井。
一瞬、自分がどこにいるのか分からずパニックになりかけたが、ここが公爵邸の執務室であることを思い出した。
身体を起こすと、自分には不釣り合いなほど上質な毛布が掛けられていることに気づく。
部屋の隅には、キャンドルが一本だけ、燃え尽きる寸前で残っていた。
グレアムの姿は、もうどこにもない。
ただ、自分が使っていたローテーブルの上に、湯気を立てる紅茶と、いくつかのお茶菓子が置かれていた。
その横に、一枚の硬い羊皮紙のメモが添えられている。
『場所を用意させた。食べてから帰れ。G』
たった二言だけ書かれた、短すぎるメッセージ。
ルカは、そのメモをしばらく見つめた。
軍の報告書のように几帳面で、真っ直ぐで、無駄のない筆跡。
それはまるで、不器用で言葉足らずな、グレアムという人間そのものみたいだった。
(この人、本当に……不器用なところがあるんだなぁ)
冷徹な氷の公爵。
でも、自分が寝てしまった後の彼の行動を想像すると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
ルカはメモをそっとポケットにしまい、テーブルの上の焼き菓子を一つ手に取って、一つかじった。
「……ん?」
昨日、エマが夜食用に用意してくれたものと同じ、素朴なクッキー。
でも、昨日食べた時とは、なんだか少しだけ味が違う気がした。
ちょうどその時、様子を見に来たエマが執務室に入ってきた。
ルカはこっそりと、エマに確認した。
「エマ、このお菓子って……」
「あ、それですね」
エマは周囲を気にするように声を潜め、興奮気味に耳打ちしてきた。
「今朝、閣下がご自身で厨房に行かれたのを見ました。使用人が起きる前の、あんなに早い時間に閣下が厨房に行かれるなんて、私がこのお屋敷に仕えて以来、初めてのことで……!」
(仕えて以来初めて……この前も、確かそんなことを言われた)
使用人に命じることもできたはずなのに。
彼はわざわざ自分で、眠っているルカのためにこれを用意したのだ。
ルカは、もう一口、手の中のクッキーを食べた。
素朴で、少しだけ不格好な焼き菓子。エマの作ってくれた物に比べて、形が角ばっている。
でも。
それは、なんだかとても、甘かった。




