第8話 公爵閣下の、貴族道場
「同伴者として社交界に出る以上、最低限の貴族作法を身につけてもらう必要がある」
ヴァルトシュタイン公爵邸、執務室。
大きなマホガニーのデスク越しに、グレアムが淡々とそう告げた。
(そういえば私、領地で泥んこになって遊んでた男爵家育ちだから、作法がガバガバだった。やばい)
ルカは内心で冷や汗を流した。
視線を横に向けると、執事のクラウスとメイドのエマが、ティーセットなどの教材を用意して待機している。二人とも表情は真剣そのものだが、その目は明らかに「頑張ってください令嬢様」と応援してくれていた。
こうして、氷の公爵によるスパルタ(?)貴族道場が幕を開けた。
「まずは礼の角度だ。上位貴族への礼は、三十度が基本となる」
グレアムが手本を示すまでもなく、ルカは「はいっ!」と元気よく返事をし、全力で応えようとした。
スッ、と背筋を伸ばし、両手を前で重ねて、腰から綺麗に折る。
「よろしくお願いいたします!」
完璧な角度。四十五度である。
前世で幾度となく取引先の社長へ繰り出した、社畜OLの染み付いた「最敬礼」が炸裂した。
クラウスが、ピクリと眉を動かした。
(深すぎる……。しかし、指先の揃え方から頭を上げるまでの速度、見事なまでに様になっている……なぜだ……)
ベテラン執事の頭の中に、大いなる疑問符が浮かんだ。
「……次は、茶の飲み方だ」
グレアムは何も言わず、次の課題に移った。
「ティーカップは、人差し指と親指で持ち手を挟むようにつまむ。指を通すのはマナー違反だ」
「かしこまりました」
ルカは真剣な顔でティーカップに手を伸ばした。
そして、無意識の内に持ちての穴に指をがっつり通し、手のひら全体で包み込むようにカップを持ち上げた。深夜のオフィスで徹夜明けにコーヒーのマグカップを握りしめていた、あの時の持ち方である。
「あっ、すみません! つい!」
「……もう一度だ」
三回やり直したが、ルカの手は「マグカップ持ち」の形を頑なに記憶していた。
後ろで控えているエマが、下を向いて肩をプルプルと震わせ、必死に笑いを堪えている。
「……最後に、会話の作法だ」
グレアムの声が、心なしか少し疲れているように聞こえた。
「貴族の会話では、相手の話題に合わせて適切な相槌を打つことが求められる。天気の話を振るから、適当に返してみろ」
「はい!」
グレアムが腕を組み、冷ややかな声で言う。
「今日は随分と日差しが強い。庭の薔薇もすぐに開ききってしまうだろう」
「おっしゃる通りでございます」
「……雨が降らねば、料理の小麦にも影響が出るやもしれん」
「ご慧眼ですね。確かに一理ございます」
「……」
グレアムが、無言で固まった。
完全にビジネスの商談である。十八歳の令嬢の口から出る相槌として、あまりにも可愛げがなく、そして仕上がりすぎていた。
三つの課題が全て斜め上、もしくは下の方向にズレた後。
グレアムは額に手を当て、深く息を吐いた。
氷の公爵が、初めて見せる「指導を諦めた」顔だった。
「……お前は、なぜそう覚えるんだ」
「すみません、なんか体が勝手に……」
ルカが申し訳なさそうに身を縮めた、その時。
「閣下、一つよろしいでしょうか」
ずっと黙ってみていたクラウスが、静かに口を挟んだ。
「エデルハイン令嬢のお辞儀は、角度こそ深すぎますが、所作そのものは非常に美しゅうございます。ティーカップも、持ち方は独特ですが、手首の角度と姿勢は完璧です。会話の相槌も……内容はともかく、間と声の質は申し分ありません」
グレアムが、改めてルカを見た。
確かに。
型は全部、貴族のそれからズレている。
しかし、その動きには一切の無駄がなく、洗練されており、なぜか不思議と様になっているのだ。
「……なぜそうなる」
「えっと、前の仕事で、いろいろ叩き込まれたので……」
ルカは前世のブラック企業研修の記憶を思い出しながら、うっかり口を滑らせた。
「前の仕事?」
「あ、いえ! なんでもないです! 昔、実家でちょっとそういう練習を……」
ルカが慌てて誤魔化すと、グレアムはそれ以上追求しようとはしなかった。
ただ、少しだけ考えてから、静かに言った。
「型は直さなくていい」
「……え?」
ルカは目を丸くした。
「お前のやり方で、お前らしくやれ。それで十分だ」
それは、貴族社会の常識を重んじる公爵家において、あり得ない特例だった。
名もなき令嬢の、おかしな作法。
それを、絶対的な権力者である彼が、丸ごと肯定したのだ。
ルカがぽかんと口を開けている背後で。
クラウスとエマが、揃って目頭をハンカチで押さえていた。
*
帰り際。
玄関まで見送りに来てくれたエマが、こっそりとルカに耳打ちをした。
「エデルハイン様。閣下が誰かのやり方を『それでいい』と認めたのは……私がこのお屋敷に仕えて以来、初めてのことです。やっぱりお嬢様は、特別なんですね」
涙ぐむエマの言葉の重みが、ルカにはまだよくわからなかった。
ただ、あの不器用な人が自分の変な癖を許してくれたことが、少しだけ嬉しかった。
型破りなモブ令嬢は。
どうやら意図せず、また一つ──氷の公爵の心を溶かしてしまったらしい。




