第7話 騎士団長の、仮面の下
侯爵家主催の豪奢な夜会。
私は今日も今日とて、氷の公爵グレアム=ヴァルトシュタインの「同伴者」として、煌びやかな会場の片隅に立っていた。
グレアムが「少し挨拶回りに言ってくる。ここを動くな」といつも通り貴族の波に消えた直後。
私は迷うことなく、壁際に並べられた色とりどりのビュッフェコーナーへと直行した。
(おぉ……! 今日のローストポーク、厚切りでめちゃくちゃ美味しそう!)
今夜のメニューに目を輝かせながら、小山のように肉を皿に積み上げていた、その時だった。
「また食べているんですか」
すぐ隣から、甘く、それでいてどこか冷ややかな声が落ちた。
「き、騎士団長殿……いつからそこに」
「最初からですよ」
(またそれ?)
振り向かなくても分かる。第一騎士団長、レオナルト=クロイツだった。
彼は今日も極上の王子様スマイルを浮かべて立っていたが、ルカの社畜センサーは、彼の目がいつもより少しだけ笑っていないことを察知していた。
(なんか今日、やたらと話しかけてくる。なんで?)
ルカが内心で首を傾げている間にも、会場の空気はみるみるうちに凍りついていた。
無理もない。令嬢たちの憧れの的であるレオナルトが、壁際で肉を貪る無もなきモブ令嬢の隣に陣取り、親しげに話しかけているのだ。
「騎士団長閣下が、なぜあの地味な令嬢と……」
「公爵閣下の同伴者だとか……いったい何者なの……」
四方八方から突き刺さる、令嬢たちの嫉妬と困惑の視線。
ルカは胃が痛くなりそうだったが、レオナルトはそんな周囲の反応など気にも留めず、意地悪な質問を投げてきた。
「公爵殿と、最近ずいぶん仲が良いようですね。……どの程度、親しくなられたんですか?」
探るような、翠の瞳。
ルカはもぐもぐと肉を飲み込んでから、正直に答えた。
「どの程度って……よくわかりません。でも、怖くなくなりました」
「怖くなくなった、ですか」
「はい。最初はめちゃくちゃ怖かったんですけど、なんか……普通の人だなと思って」
不器用で、言葉足らずで、でも見えないところで気遣ってくれる、ただの軍人さん。
ルカのその言葉に。
レオナルトが、一瞬だけピタリと動きを止めた。
──普通の人。あの血塗られた軍神を、権力の化身を、ただの「普通の人」と言い切れる人間が、この世界に何人いるだろう。
「……そうですか」
レオナルトは短く呟くと、「少し歩きましょう」とルカの腕を軽く引き、会場の片隅にある人気のないバルコニーへと連れ出した。
*
夜風が、火照った頬を撫でる。
バルコニーから、王都の美しい夜景と、夜会のこぼれ火が遠く揺れているのが見えた。
しばらくの沈黙の後。
レオナルトが珍しく、自分から口を開いた。
「ルカ嬢。貴女は、私のことはどう思いますか」
夜の闇に溶けるような、静かな声だった。
ルカは困惑しながらも、嘘がつけない性質に従って正直に口を開いた。
「……怖いです。笑顔なのに、何を考えているか全然わからないので」
「公爵殿のことも、最初は怖かったと言っていましたね」
「閣下は怖かったけど、わかりやすかったんです。怒ってる時は怒ってるし、困ってる時は困ってる。でも騎士団長殿は……いつも笑っているから、本当のことが見えなくて」
沈黙が落ちた。
完璧な仮面を被り続けてきた男の、その笑顔が。
ほんの少しだけ、揺れた気がした。
「……正直ですね、貴女は」
「あ、すみません、また余計なことを……」
「いいえ」
レオナルトは手すりに寄りかかり、窓の外へと視線を向けた。
「ただ……正直に言うと、貴女が初めてです。私の笑顔を見て、『わからない』と面と向かって言った人間は」
ルカは、持っていたお皿を下ろし、静かに彼の横顔を見つめた。
「皆、私の笑顔を見て安心するか、魅力的だと思うかのどちらかです。これがただの作り物の仮面だと気づいた人間は、今まで一人もいなかった」
それは、告白でも、口説き文句でもなかった。
ただの、静かで、ひどく疲労に満ちた孤独の吐露。
派閥争い。貴族の暗躍。騎士団をまとめる重圧。
その全てを「完璧な笑顔」で乗り切ってきた男の、誰にも見せたことのない裏側。
ルカは少し考えてから、ぽつりと言った。
「……仮面、疲れませんか」
レオナルトが、ゆっくりとルカを見る。
「疲れますよ。ずっと」
息を吐き出すような、微かな本音。
「そうですか」
ルカはそれだけ言うと、残っていたお皿のケーキを一口パクリと食べた。
「じゃあ、私の前では外してもいいですよ」
「……え?」
「私、どうせ騎士団長殿のこと最初から怖いんで。仮面があってもなくても、評価は同じですし」
モブの平穏を脅かす、恐ろしい人。
だから、今更笑っていようがいまいが、自分の警戒心は変わらない。そう言いたかっただけなのだ。
きょとんとするルカの顔を見て。
レオナルトは目を丸くし──やがて、肩を震わせた。
「っ……くくっ、ふふっ、あはははっ!」
それは、いつもの作り笑いではなかった。
腹の底から湧き上がるような、年相応の青年の、本当の笑い声だった。
「……貴女は本当に、おかしな人だ」
目尻に滲んだ涙を指先で拭いながら、レオナルトが柔らかく微笑む。
その表情は、今までのどんあ完璧な笑顔よりも、ずっと人間らしく見えた。
そこへ。
「ルカ」
低い声と共に、背後の扉が開いた。
戻ってきたグレアムが、レオナルトとルカが並んでいるのを見て、いつも通り無言で二人の間に割り込んでくる。
レオナルトも、瞬時にいつもの「腹黒い笑顔」の仮面を被り直した。
*
帰りの馬車の中。
私は、窓枠に頭をもたせかけながら、一人で考えていた。
レオナルト騎士団長は、あの完璧な仮面の下で、ずっと一人で疲れていたのだ。
それに気づかなかった自分を、少しだけ恥じた。
──そして、なぜだかわからないけれど。
彼のあの作り物の笑顔を見るたびに。もう少しだけ、その奥にある本当の顔を知りたいと、そう思ってしまっている自分がいた。




