第45話 特に用はないらしい
アッシェンバッハ侯爵の失脚という巨大な嵐が過ぎ去り、王国の空気が目に見えて軽くなった頃。
ルカ=フォン=エデルハインは、晴れ渡る王城の回廊を、のんびりとした足取りで歩いていた。
今日は、何か特別な任務があるわけでも、誰かに命を狙われているわけでも、臨時議会で証言台に立たされるわけでもない。
ただ、昨夜グレアムから『明日は城に来い』という、相変わらず簡潔すぎる手紙を受け取っただけだ。
(……『今日は城に来い』だけで、明確な用件やアジェンダを一切教えてくれない上司。前職にもいたな。結局デスクに行ってみたら『お、来たか。いや特に急ぎの用はないんだけど、ちょっと顔見たかっただけ』みたいな。……まあ、お給料分は働くし、なんだかんだ嬉しいんだけど)
ルカは内心で社畜らしい分析をしつつも、足取りは羽のように軽かった。
*
グレアムの執務室へ向かう途中、王城の広い中庭を通りかかった時。
ルカはふと、生垣の向こうから聞こえる話し声に足を止めた。
木漏れ日が落ちる白いベンチに、二人の人影がある。
王太子ルシアンと、光の聖女リリアナだった。
ルカは邪魔をしてはいけないと身を潜め、少しだけ様子を窺った。
二人の様子が──なんだか、おかしい。
ルシアンが手元の書類を睨みつけながら、非常に気難しい顔をしている。その隣で、リリアナが同じ書類を覗き込みながら、身を乗り出して何かを熱心に語っていた。
(……真剣な政務の話? デートじゃないのか)
ルカが少し拍子抜けしていると、ルシアンが低い声で言った。
「いや、それは違う。この法案の通し方では、貴族院の反発を招く」
「でも、こう考えてみてはどうですか? 民の負担を軽減するという大義名分を先に押し出せば……」
「……なるほど。確かに、その言い回しなら角が立たないか」
ルシアンは少し感心したように息を吐き、書類から目を離してリリアナを見た。
「お前は、どうしてそう思う?」
「殿下がいつも、難しい顔をして一人で考えていらっしゃるから」
「……それだけか?」
ルシアンが、少しだけ意地悪く問う。
リリアナは、恥ずかしそうに視線を泳がせ──やがて、消え入りそうな小声で言った。
「……殿下のその難しい顔、私、少し好きなので。力になりたいんです」
ピタリと。
ルシアンの動きが、完全に停止した。
ルカの位置からでもはっきりと分かるくらい、彼の耳の先から首筋にかけてが、みるみるうちに赤く染まっていく。
「……っ。そういうことは、あまり不意打ちで言うな」
「え、いけませんでしたか?」
「いけなくはない。……ただ」
ルシアンは手で口元を覆い、視線を明後日の方向へ逸らしながら、絞り出すように言った。
「……そういうことを言われると、政務に全く集中できなくなる」
リリアナは少しだけ目を丸くし──やがて「あら」と、花が咲いたように、少しだけいたずらっぽく笑った。
物陰からその一部始終を目撃していたルカは、危うく変な声を出して倒れそうになった。
(……尊い。尊すぎる! なにこの初々しいカップル! 前世でも現世でも、私こういうピュアなやり取りに弱すぎるんだよ! おめでとう、末長くお幸せに!!)
ルカは、二人の邪魔をしないよう、足音を忍ばせてそっとその場を離れた。
胸の中が、糖分を過剰摂取したように甘く満たされていた。
*
グレアムの執務室に到着したルカは、扉を開けるなり尋ねた。
「おはようございます、閣下。……それで、なぜ今日、私を城に呼んだのですか?」
デスクの向こうで羽ペンを動かしていたグレアムは、手を止め、少しだけ間を置いてから答えた。
「……特に、急ぎの用はない」
「やっぱりですか!」
ルカが思わず指を差すと、グレアムは怪訝そうに眉を寄せた。
「何が『やっぱり』だ」
「いえ……昔、そういう上司がいたなと思いまして。用もないのに部下を呼んで、ちょっと顔が見たかっただけ、みたいな」
ルカが冗談めかして笑うと、グレアムは不機嫌そうに目を細めた。
「……私は、お前の上司ではない」
「えっ。じゃあ、何の用件で私を?」
ルカが首を傾げると、グレアムはペンを置き、視線を書類に落としたまま、少しだけ黙り込んだ。
「……聞くな」
「聞きますよ。ここまで来て教えてくれないなんて」
ルカが一歩近づいて食い下がると。
グレアムは、観念したように小さくため息をつき──ひどく不器用な、低い声で言った。
「……話し相手が、必要だっただけだ」
ルカの心臓が、大きく跳ねた。
(……っ! これは業務上の必要性ではなく、個人的な感情に基づく職権濫用な招集では……!)
脳内の警報が鳴り響きかけたが。ルカはこの社畜フィルターの切り方を心得てきていた。
「……はい」
ルカは、少しだけ頬を染め、素直に頷いた。
今はただ、この不器用な言葉を、そのまま受け取ろう。それでいい。
それからは、二人でただ静かな時間を過ごした。
グレアムが書類を処理するペンの音。ルカがソファで本を捲る音。
特に気の利いた会話があるわけではない。でも──ひどく心地よい。
(これが、『当たり前の日常』というやつか)
ルカは本から顔を上げ、窓から差し込む秋の柔らかな光を見た。
(戦いの日々の中では気づかなかったけど。誰も死なない、誰も傷つかない、何も起きない穏やかな時間って……実は、すごく貴重で尊いものなんだな)
かつてレオナルトが、遠くからこの光景を見て「一番かなわない」と絶望した、その完成された日常の空間が、そこにはあった。
*
夕方。
夕日が王城を赤く染める頃、ルカが帰り支度を始めていると、グレアムが顔を上げずにぽつりと言った。
「……明日も、来るか」
「来ます」
ルカが間髪入れずに即答すると、グレアムはペンを動かす手を一瞬だけ止め。
「……そうか」
と、安堵したように、微かに口元を緩めた。
ルカは扉を開け──ふと振り返り、柔らかく微笑んだ。
「今日は一日、何も起きませんでしたね!」
「……ああ」
グレアムが、窓の外の夕景を見つめる。
「何も起きない日が、一番いい」
「そうですね」
ルカは笑って同意し、静かに扉を閉めた。
でも──二人とも、心のどこかで薄々知っていた。
この「何も起きない日」が、永遠に続くわけではないことを。
アッシェンバッハの背後にいた隣国・ヴァレンティアの影は、まだ完全に消え去ったわけではないのだから。
穏やかな一日が終わった。
それは、次の嵐がやって来る前の。ひどく静かで、温かくて、少しだけ甘い──名もなき令嬢の、尊い日常だった。




