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ローストビーフにむせただけで氷の公爵に溺愛されました。〜攻略本に載っていない社畜令嬢ですが、最強の二人に独占されて平穏な隠居生活が崩壊した件〜  作者: 成瀬 一
シナリオが、狂い始める

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第31話 また、話してください

 その夜、王都は冷たい秋の雨に包まれていた。


 公爵邸の書斎。


 ルカ=フォン=エデルハインは、アッシェンバッハ侯爵への対抗策に関する書類の整理を終え、ほっと一息ついていた。


 分厚いカーテンの向こうから、窓ガラスを叩く規則正しい雨の音が聞こえてくる。


「……そろそろ、帰りますね」


 ルカが立ち上がろうとした時。


「今夜は帰れないだろう。雨が酷くなる。馬車を用意させる」


 デスクの向こうで、グレアムが静かに言った。


 ルカは「ありがとうございます」と短く答え、再びソファに深く腰を下ろした。


 馬車の準備が整うまでの、静かな時間。


 ルカは、書類から視線を外し、窓の外の暗闇を見つめているグレアムの右手を、さりげなく盗み見た。


 黒い革手袋に包まれた大きな手。


 以前、王城の小部屋で彼がその手首を押さえていた日、ルカは「明日、雨になりそうですね」と遠回しに気遣った。


 だが今夜は──実際に雨が降っているというのに、彼はその手を押さえていない。


(雨が降り始めているのに、今日は痛くないのかな。それとも……もう、その痛みに慣れすぎているだけなんだろうか)


 ルカがそんなことを考えていると。


「……北部の戦争で、つけた傷だ」


 雨の音に混じるように、グレアムがぽつりと、独り言のように呟いた。


 ルカは動かなかった。相槌すら打たず、ただ彼の次の言葉を待った。


「お前が以前、雨の話をしただろう。……あれから、雨が降るたびに思い出す」


 彼が視線を窓から外し、ルカを見た。


 氷のように冷たいはずの青い瞳が、今はひどく遠い場所を見ているように揺らいでいた。


「何を、ですか」


 ルカが静かに問う。


「……戦場の、雨だ」


 グレアムは、ゆっくりと語り始めた。


 それは、彼が二十二歳の時のことだった。


 王国北部が隣国の奇襲を受け、若き日のグレアムが前線指揮官として立った、凄惨な防衛戦。


「あの戦いで……私は、部下を多く失った」


 ルカは「何人ですか」とは聞かなかった。ただ、彼の声に耳を傾けていた。


「何日も続く、ひどい雨の夜だった。泥濘で馬は進まず、補給部隊の到着が遅れ、食料も医薬品も完全に底をついていた。……私が、決断を誤ったのだ」


 ルカは「どんな決断を」とも聞かなかった。


 彼が今、自分の中にある言葉を、ただ吐き出そうとしているのが分かったからだ。


「撤退すべきだった。だが、あの防衛線を放棄して撤退すれば、王都へと続く平野の道が完全に開く。敵の騎馬隊が王都の民を蹂躙することになる。だから私は……その場に留まり、死ぬまで抗戦する『進軍』を選んだ」


 雨の音が、強くなる。


「その夜に死んだ部下の数は……。彼らが泥の中で息絶えていく姿は……今でも、全員の顔をはっきりと覚えている」


 ルカは、グレアムの横顔を見つめた。


 そこにあるのは、王国最強の軍神としての威厳でも、誰も寄せ付けない氷の公爵としての顔でもなかった。


 自分の下した決断の重さに苛まれ、死んでいった部下たちへの贖罪を、十二年間、たった一人で背負い続けてきた、一人の不器用な男の顔だった。


(この人は……ずっと、これを抱えて生きてきたんだ。誰にも話さずに。弱音を吐くことも許されず、氷の公爵という分厚い鎧を着て)


 長い、重苦しい沈黙が落ちた。


 やがて、グレアムが自嘲するように目を伏せ、低く言った。


「……なぜ、お前にこんな話をしているのか、自分でもわからない」


 ルカは少しだけ考えてから、静かに、ありのままを口にした。


「……話したかったんじゃないですか」


 グレアムが、ハッと息を呑んでルカを見た。


「誰かに。ずっと前から」


 沈黙。


 グレアムは何も否定せず、ゆっくりと視線を逸らし、窓の外の雨粒を見つめた。


「……そうかもしれない」


   *


 しばらくの間、二人でただ雨の音だけを聞いていた。


 慰めの言葉も、同情もいらない。ルカには、彼が求めているのがそういう安っぽい感情ではないことが痛いほど分かっていた。


「……あの、閣下」


 ふと、ルカが口を開いた。


「なんだ」


「あの夜の決断が、軍事的に間違っていたかどうかは、私みたいな素人にはわかりません」


 グレアムは黙っている。


「でも……十二年経った今でも、死んでいった部下の全員の顔を覚えているということは。閣下は彼らのことを、ただの駒として消費したんじゃなくて、ずっと大切にしてきた証拠だと思います」


 グレアムが、弾かれたようにルカを見た。


 その瞳が、大きく見開かれている。


「忘れないでいてくれる上司の元で戦えた彼らは、きっと、閣下を恨んでなんかいませんよ」


 グレアムは、何も言わなかった。


 ルカも、それ以上は何も言わなかった。


 正しいとか間違いとか、そういう次元の話じゃない。


 ただ、彼の抱える痛みを否定せず、一緒にその重さを見つめること。それが、今のルカにできる精一杯の『同伴者』としての仕事だった。


 コン、コン。


 控えめなノックの音とともに、クラウスの声が響いた。


『閣下、エデルハイン様。馬車の用意が整いました』


「……だそうだ」


 グレアムが、静かな声で言った。


 ルカは「はい」と頷き、立ち上がった。


 書斎の扉に向かって歩き出し、ドアノブに手をかけたところで。


 ルカはふと立ち止まり、振り返った。


「閣下。……また雨が降ったら、話してください」


 グレアムが、ルカを見た。


 氷の公爵の、その青い瞳の奥が、微かに、本当に微かに潤んでいるように見えた。


 長い沈黙の後。


 彼は、不器用に、だが確かに頷いた。


「……ああ」


「あ、晴れててもいいですよ!」


 ルカがやたら大きな声でそう言うと、グレアムは微かに肩を揺らした。


「……ああ」


 十二年間、誰にも話すことができなかった、冷たくて重い雨の記憶が。


 名もなき令嬢の「また話してください」という、打算のないたった一言で。


 ほんの少しだけ、軽くなった気がした。


   *


 コン、コン。


 クラウスの声が再び響いた。


「申し訳ございません、閣下。雨足が強まっており、馬車の出発が難しい状況で……本日はこちらにお泊まりいただく方がよろしいかと」


 グレアムが「そうか」と短く答えた。


(え、待ってちょっと待って! 公爵邸に私が一泊!? どういうこと!?)


 ルカは裏返った声で「……お邪魔します」と言うしかなかった。

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