然(一)
草は腰より高くて、歩くたびに両手で分けることになり、分けたところが背中のうしろでゆっくり閉じていく。穂の長いものが多く、先の方は白っぽく乾いていて、手のひらの内側をそれが順に撫でていく。根もとの方はまだ青くて、そのあたりだけ湿った匂いがする。
光が満ちている。上から降ってくるというより、あたり全部に溜まっているという感じで、空気そのものに厚みがある。緑がその中で少し白く飛んでいて、目を細めると、地面に近いところだけが濃く残る。
暑い。腕が熱を持っていて、それが内側から出てきたものなのか、外にあるものが腕の表面に溜まっているだけなのか、よく分からない。分からないまま、腕はずっと熱い。
高いところで音が鳴っている。ひとつではなく、同じ音がいくつも重なって、切れ目のない一枚の膜のようになっていて、どこから鳴っているのかは分からない。見上げても何もいない。空は白に近い青で、雲は端の方にわずかにあるだけで、動いているようには見えない。
草は、どちらを向いても同じ高さで続いている。うしろを見ると、通ってきたところが少しだけ乱れていて、それも遠くの方ではもう分からなくなっている。
ずっと向こうに、濃い緑の帯が横に伸びている。草の色とは違う、暗い方の緑で、地面と空のあいだに一本の線のように置かれている。そちらへ歩く。理由は特にない。ただ、そこだけが違う色をしている。
歩いていると、草の高さが急に下がっているところに出る。近寄って、手前の草を分けて、覗きこむ。
丸く倒れている。両腕を広げたくらいの幅で、茎がみな同じ向きに寝ていて、寝たまま乾きかけている。中に入って、しゃがんで、手のひらを地面につける。土はあたたかい。掻き分けてみると、下からは細い茎と、乾いた葉と、去年のものらしい黒っぽい層が出てくるだけで、それ以上は何もない。指を土から離して、立ち上がる。倒れた草は、立ち上がったところから見ると、もう丸くは見えない。
風が来る。来る前に音で分かる。向こうの方の草が先に鳴って、その鳴っているところがこちらへ移ってきて、それから背の高い穂が順に傾いて、傾いたあとで頬に当たる。熱の抜けた風ではないが、動いているというだけで、腕の表面のあたりが少し変わる。
草が戻る。音が遠ざかっていって、また膜のような音だけが残る。
しばらく行くと、草のあいだに白いものが混じりはじめる。小さい。爪の先ほどの大きさで、四つか五つに分かれた形をしていて、細い茎の先に一つずつ付いている。はじめは数えられるくらいだったのが、進むにつれて増えていって、そのうち緑の下地に白が撒かれたようになる。
しゃがむ。目の高さを花に合わせると、上から見たときとは違って、白いものが層になって奥まで続いているのが分かる。近いものははっきりしていて、遠いものはぼやけていて、ぼやけたまま数が多い。顔を近づける。匂いはほとんどしない。かわりに、地面のすぐ上の空気が、立っているときより涼しい。
一つ摘もうとして、指を伸ばす。伸ばしたところで、そのままにする。摘んでどうするのか、思いつかない。
立ち上がって、また歩く。
羽の長い虫が、草の先から草の先へ移る。飛ぶというより、落ちて、また上がるという移り方をしていて、そのたびに羽が光を通す。目で追う。三つ先の穂に止まって、そこで動かなくなる。
近寄らない。しゃがみもしない。立ったまま見ている。
虫は、しばらくしてから、また落ちるように移って、草の中へ入っていって、見えなくなる。それでもそのあたりを見ている。どれくらい見ていたのか、分からない。
歩く。急ぐ理由が思い出せない。急がなければならない何かがあったような気もするのだが、思い出そうとすると、それは輪郭のないものになって、光の中に混ざってしまう。日は高い。影は足の下にあって、歩いても足の下から出てこない。
そのうち、帯の色が一様でなくなる。濃いところと薄いところが縦に分かれてきて、分かれたものの一つずつに幅があり、その幅の上の方が丸く膨らんでいて、下の方は細い。一本ずつ立っていて、それが遠くから見ると一本の帯になっていた。森だ。
草がなくなる。足の下が土になって、その土の上に、乾いた葉が重なっている。目の前に、太いものが立っている。手を当てると、ざらざらしていて、そして冷たい。
一歩、森の中へ入る。
音が、うしろにある。
膜のようだった音は消えたのではなく、いま入ってきた側に、そのまま張り付いている。振り返ると、木のあいだから明るいものが見えていて、音はそこにある。向きを戻すと、音は遠い。
かわりに、ここには別の音がある。葉が触れ合う音、それより低いところで何かが落ちる音、ずっと奥の方で一度だけ鳴いて、それきりになる声。どれも間があいていて、間のあいだは静かで、静かなあいだにも、耳のずっと奥では何かが鳴っている。
涼しい。腕の熱が、表面から順に引いていく。引いたあとには肌そのものの温度が残っていて、それがどのくらいだったのか、暑いあいだは分からなかった。
上を見る。葉が幾重にも重なっている。重なったところどころに穴があいていて、そこから光が落ちてくる。落ちてきた光は地面に着くまで形を保っていて、地面の上で丸くなる。丸いものが、いくつも、あちこちにある。
葉が動く。上の方だけが動いていて、下の方は動かない。動くと、地面の丸いものも動く。ずれて、重なって、また離れる。ひとつが足の甲に乗って、そこだけあたたかい。
立ち止まる。立ち止まる理由はない。しばらくして、また歩く。少し行って、また立ち止まる。
太いものの表面には、灰色がかったものが薄く広がっていて、そこだけざらつきが違う。爪を立てると、乾いた薄いかけらになって剥がれる。剥がれた下は、少し湿っている。同じことをもう一度する。
倒れた木がある。半分は土に埋まっていて、表面がやわらかくなっていて、押すと指が入る。その上に、傘のかたちをしたものが並んで生えている。軸は白くて細く、傘は茶色で、縁のところだけが薄い。並び方に順序はなく、大きいものの根もとから小さいものが出ていて、小さいものはまだ傘が開ききっていない。
しゃがんで、指で触る。冷たい。乾いているように見えて、触ると湿っている。傘の裏を覗くと、細い筋が中心から縁へ向かって、隙間なく並んでいる。一本ずつ数えられそうなのに、目で追うと途中で分からなくなる。
指を離す。触ったところに、指のかたちが少しだけ残っている。しばらく見ているが、それは戻らないままになる。
そのうち、音がひとつ増える。低くて、切れ目がなくて、遠い。膜のようなものとは違って、こちらは動いている。近づくと、その中に細かいものが混じっているのが分かる。高いところで弾ける音と、低いところで擦れる音と、その二つのあいだにある、名前の付けようのない音。
木のあいだが明るくなる。葉の重なりが薄くなって、丸い光が大きくなって、いくつも重なって、地面がまだらではなくなる。




