第2話 ルーカス先輩
翌日の放課後。
図書館の大きな時計が、五時を告げた。
授業を終えた生徒たちが次々と帰っていく中、魔法学科の棟から一人の少女が駆けてくる。
「……あった!」
オリビアだった。
昨日見つけた魔法式の続きを調べるため、今日は朝から図書館へ行くことだけを楽しみにしていた。
扉を開ける。
静かな空間。
高い天井まで届く本棚。
窓から差し込む夕方の光。
そして――。
「あ」
昨日と同じ席に、金髪の青年が座っていた。
ルーカス。
彼は一冊の政治学の本を開いていたが、オリビアに気づくと顔を上げた。
「やあ」
「こんにちは、ルーカス先輩」
オリビアは迷わず彼の向かいの席に座った。
「今日も来たんだね」
「先輩も」
「僕は昨日、来るって言ったからね」
「そうでしたっけ?」
「……言ったよ」
「そうでした」
オリビアは机の上に大量の本を置いた。
どさっ。
ルーカスが苦笑する。
「今日もすごい量だね」
「昨日の続きです」
「昨日の?」
「魔力の逆流式」
「ああ」
ルーカスはすぐに思い出した。
「まだ調べてたんだ」
「気になったので」
「一晩で?」
「はい」
「……寝た?」
「寝ました」
「何時間?」
「三時間くらい」
「それは寝たとは言わないよ」
「でも十分です」
「十分じゃない」
思わず口を挟んでしまった。
オリビアがきょとんとする。
「先輩、意外と心配性ですね」
「君が無茶しそうだから」
「しませんよ」
「昨日も本を十冊以上抱えて歩いてたけど?」
「……あれは仕方ないです」
「仕方なくないよ」
ルーカスは笑った。
昨日までなら、こんなふうに誰かと話すことはほとんどなかった。
学園では常に「公爵家の嫡男」として扱われる。
同級生や上級生でさえ、ルーカスに話しかけるときにはどこか遠慮がある。
けれど、オリビアにはそれがない。
彼女はルーカスの肩書きではなく、目の前にいる本人と話している。
そのことが、ルーカスには不思議と心地よかった。
「それで?」
「はい?」
「昨日の式。何か分かった?」
「少しだけ」
オリビアは嬉しそうに一枚の紙を差し出した。
「これ、私が書き直してみたんです」
紙には複雑な魔法式がびっしりと書き込まれていた。
「元の術式を反転させて……ここに補助式を入れると、魔力が逆流するんじゃなくて循環するんです」
「……なるほど」
「でも、この部分だけどうしても安定しなくて」
「ここ?」
「はい」
ルーカスが紙をじっと見る。
「この式、魔力の量に対して出力が大きすぎるんじゃないかな」
「え?」
「ここ。術式そのものじゃなくて、魔力を一度別の属性に変換してる」
「……!」
オリビアが身を乗り出した。
「それなら……!」
「うん」
「循環が安定する……?」
「たぶん」
オリビアは急いでペンを取った。
「やってみます」
「待って。計算してから――」
「大丈夫です」
「君、昨日もそう言ってなかった?」
「今回は大丈夫です」
さらさらと式を書き換えていく。
ルーカスは思わず笑った。
「本当に魔法が好きなんだね」
「はい」
オリビアは顔を上げずに答えた。
「好きです」
その言葉には迷いがない。
ルーカスは少しだけ羨ましく思った。
自分も昔はそうだった。
魔法が好きだった。
新しい術式を見つけるだけで嬉しくて、父の書斎にあった魔導書を読み漁った。
魔法学科に進みたいと思ったこともある。
けれど――。
「先輩?」
「……ん?」
「どうしました?」
「いや」
ルーカスは微笑んだ。
「なんでもない」
「そうですか?」
「うん」
オリビアは再び研究に戻った。
しばらくして。
「できました!」
突然、彼女が顔を上げた。
「見てください」
「どれ?」
「ここです」
紙いっぱいに書かれた式を指差す。
「これなら魔力の循環が――」
「ちょっと待って」
ルーカスが止める。
「?」
「実際に試すの?」
「はい」
「ここは図書館だよ」
「あ」
オリビアが周囲を見回す。
静まり返った図書館。
当然、魔法実験などできる場所ではない。
「……忘れてました」
「やっぱり」
「明日、実験室を借ります」
「申請は?」
「まだです」
「じゃあ僕が手伝うよ」
「本当ですか?」
「うん」
「ありがとうございます、ルーカス先輩」
オリビアが嬉しそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、ルーカスの胸に小さな違和感が生まれた。
――なんだろう。
昨日も同じように笑っていた。
なのに、今日は妙に気になった。
「先輩?」
「……何?」
「顔、赤いですよ」
「え?」
「暑いですか?」
「いや……」
ルーカスは慌てて顔を背けた。
「たぶん、夕陽のせい」
「そうですか?」
「そう」
オリビアは納得したように頷いた。
「じゃあ、明日お願いしますね」
「うん」
図書館を出る時間になっても、オリビアは研究の話を続けていた。
魔法式のこと。
古代魔法のこと。
いつか自分で新しい魔法を作りたいということ。
ルーカスはそれを聞きながら、何度も笑った。
そして気づけば、昨日よりずっと早く時間が過ぎていた。
「先輩」
別れ際、オリビアが振り返る。
「また明日」
「……うん。また明日」
彼女が去っていく。
ルーカスはその姿を見送りながら、自分の胸元に手を当てた。
理由はまだ分からない。
ただ――。
明日も彼女に会えることが、少し楽しみになっていた。




