第1話 図書館の変わった少女
王立アストリア学園。
国内でもっとも格式の高いこの学園には、王族や公爵家をはじめとした高位貴族から、優秀な伯爵・子爵家の令息令嬢まで、多くの貴族が通っている。
広大な敷地の中央に建つ本校舎には、政治学、経済学、歴史学、魔法学、薬学など、様々な専門課程が設けられていた。
その中でも魔法学科には、少し変わった少女がいる。
「……あった」
放課後の図書館。
魔法関連の専門書が並ぶ棚の前で、オリビア・エヴァンスは一冊の本を引き抜いた。
伯爵家の令嬢でありながら、彼女は華やかな社交界よりも古びた魔導書を好む。
新しいドレスを選ぶ時間があるなら、魔法式を一つでも多く調べたい。
お茶会に参加する時間があるなら、過去の魔法研究の論文を読みたい。
それがオリビアだった。
「これと……あとは、あの本」
棚の上段へ手を伸ばす。
しかし、指先があと少し届かない。
「……もうちょっと」
背伸びをした、そのとき。
「これ?」
頭上から声がした。
「え?」
振り返ると、一冊の本が差し出されていた。
金色の髪。
窓から差し込む夕陽を受けて、淡く輝いている。
そして、澄んだ青い瞳。
王立学園の制服を隙なく着こなした青年が、オリビアの求めていた本を手にしていた。
「これを取ろうとしてたんだろ?」
「あ……はい。ありがとうございます」
「どういたしまして」
青年は本を渡した。
オリビアは表紙を確認すると、嬉しそうに微笑む。
「よかった。これ、ずっと探してたんです」
「そんなに?」
「はい」
青年は少し意外そうな顔をした。
「魔法学科?」
「そうです」
「やっぱり」
彼の視線が、オリビアの腕に抱えられた本へ向く。
魔法理論、古代術式、魔力循環論、属性魔法の歴史。
どれも一般の学生が好んで読むようなものではない。
「君、魔法が好きなんだね」
「大好きです」
迷いのない返事だった。
青年が小さく笑う。
「即答なんだ」
「好きなので」
「なるほど」
その青年は、棚から別の本を一冊抜き取った。
オリビアはその表紙を見て目を丸くする。
「それ……」
「ん?」
「『王国における魔導兵器の政治的利用』」
「知ってる?」
「はい。去年の魔法史の授業で少し出てきました」
「へえ」
「でも、先輩は魔法学科じゃないですよね?」
青年が少し驚いた。
「分かる?」
「制服の学科章が違います」
オリビアが胸元を見る。
「政治学科ですよね」
「正解」
「なのに魔法の本を読むんですか?」
「魔法が好きだから」
「……!」
オリビアの目が輝いた。
「先輩も魔法好きなんですか?」
「うん。かなり」
「じゃあ、この本知ってます?」
オリビアは自分の本を開いた。
「ここなんですけど」
「……どれ?」
「この魔法式。一般的な術式と魔力の流れが逆なんです」
青年はページを覗き込む。
「確かに」
「でも、記録上は失敗していないんですよ」
「意図的に逆流させた可能性は?」
「私もそう考えています。ただ、その理由が分からなくて」
「なるほど……」
二人は本を挟んで話し始めた。
最初は数分のつもりだった。
けれど、気づけば一時間が経っていた。
魔力の流れについて。
古代魔法について。
失われた術式について。
青年の知識は、政治学科とは思えないほど深かった。
「先輩、魔法詳しいですね」
「昔から好きだったからね」
「だったら、どうして魔法学科に入らなかったんですか?」
青年は少しだけ黙った。
そして窓の外を見る。
「……僕は、公爵家の跡取りだから」
「公爵家……」
オリビアはそこで初めて、彼の身分を意識した。
金髪碧眼。
整った容姿。
所作の一つ一つが洗練されている。
確かに、普通の貴族令息とは違う。
「だから、政治を学ぶ必要があるんだ」
「そうなんですね」
オリビアは素直に頷いた。
「じゃあ、魔法は趣味ですか?」
「……趣味、か」
青年は苦笑する。
「そうなるのかな」
「でも、好きなら続ければいいと思います」
「簡単に言うね」
「そうですか?」
「公爵家の跡取りが、魔法研究ばかりしてたら困る人もいるからね」
「……なるほど」
オリビアは少し考えた。
「じゃあ、先輩は魔法を諦めたんですか?」
その言葉に、青年の青い瞳がわずかに揺れた。
「……まあ、そういうことになるのかもしれない」
それ以上、オリビアは聞かなかった。
ただ、少しだけ気になった。
さっきまで楽しそうに魔法の話をしていたのに。
今の彼は、少し寂しそうだったから。
「あの」
「ん?」
「私、明日もここに来ます」
「……?」
「もし先輩も魔法の本を読むなら、一緒に研究しませんか?」
青年が目を瞬く。
「僕と?」
「はい」
「僕が誰か、知ってる?」
突然の質問だった。
オリビアは首を傾げる。
「……君は、僕が誰か知っているのか?」
「? 政治学科のルーカス先輩ですよね」
「……それだけ?」
「それ以外に何かあります?」
「…………」
ルーカスはしばらく黙った。
そして、堪えきれないように笑った。
「いや……なんでもない」
「そうですか?」
「うん」
オリビアは不思議そうな顔をした。
「じゃあ、明日もここで」
「……うん」
「また明日、ルーカス先輩」
その呼び方が、妙に心地よかった。
オリビアは本を抱えて図書館を出ていく。
残されたルーカスは、その背中を眺めながら小さく息を吐いた。
公爵令息として見られることには慣れている。
次期公爵として扱われることにも。
けれど。
ただの「魔法が好きな政治学科の先輩」として接してくる少女は、初めてだった。
「……変わった子だな」
そう呟きながら、ルーカスは机の上に残された一冊の魔導書を手に取る。
そして、少しだけ笑った。
「明日も……来ようかな」
その日から。
二人が図書館で顔を合わせることが、少しずつ当たり前になっていった。




