第11話 婚約候補の令嬢
数日後。
婚約の噂は、さらに具体的になっていた。
「公爵家が、侯爵家の令嬢を候補にしているらしい」
「王宮の夜会にも一緒に出ていたって」
「家柄を考えれば当然よね」
廊下を歩いていると、そんな声が聞こえてくる。
オリビアは足を止めなかった。
聞きたくない。
そう思った。
けれど、聞こえてしまうものは仕方がない。
侯爵家。
公爵家。
王宮。
どれも自分とは遠い世界の話だった。
「……」
図書館へ向かう。
いつもの席には、ルーカスがいた。
「オリビア」
「ルーカス先輩」
「今日は遅かったね」
「少し人が多くて」
「そうなんだ」
ルーカスは何気なく笑った。
オリビアも笑い返す。
「研究、進めましょう」
「うん」
いつも通り。
魔法式を書いて。
本を開いて。
分からないところを話し合う。
けれど、オリビアの集中力は明らかに落ちていた。
「……ここ」
「うん?」
「この式、どう思います?」
ルーカスが紙を見る。
「うーん……」
「やっぱり違いますか?」
「いや。式自体は合ってる」
「じゃあ、なんで……」
「オリビア」
「はい?」
「さっきから同じところ三回書き直してる」
「……」
オリビアは自分の手元を見る。
確かに、同じ式が三つ並んでいる。
「すみません」
「謝らなくていいよ」
「でも」
「何か考え事?」
「……少しだけ」
「婚約の噂?」
オリビアは黙った。
「やっぱり」
「……すみません」
「だから謝らなくていいって」
ルーカスは苦笑した。
「君が気にするのも分かるよ」
「どうして?」
「僕だって、最近ずっとその話ばかりだから」
「先輩も?」
「うん」
ルーカスは椅子にもたれた。
「父からも、家の者からも、王宮からも言われる」
「大変ですね」
「正直、面倒だよ」
「……」
「僕自身は、まだ何も決めてない」
「でも、公爵家の跡取りだから」
「そういうこと」
ルーカスは少しだけ目を伏せた。
「家のことを考えれば、相手の家柄は重要だからね」
「……はい」
「だから、僕が自由に決められる話じゃない」
オリビアは黙って聞いていた。
分かっている。
最初から。
自分とルーカスでは、立場が違う。
だからこそ。
なぜこんなにも胸がざわつくのか分からなかった。
「……先輩は」
「ん?」
「その人のこと、好きなんですか?」
ルーカスが目を見開いた。
「僕が?」
「はい」
「会ったこともほとんどないのに?」
「そうですよね」
「それに、まだ婚約候補というだけだよ」
「……そうですか」
オリビアは少し安心した。
その瞬間。
自分でも驚くほど、胸が軽くなった。
そして気づく。
――今、安心した。
なぜ?
「オリビア?」
「……はい」
「顔、赤いけど」
「暑いだけです」
「図書館、かなり涼しいけど」
「……」
ルーカスが笑う。
「もしかして、僕の婚約の話で緊張してる?」
「してません」
「本当に?」
「本当です」
オリビアは本で顔を隠した。
その様子を見て、ルーカスは小さく笑った。
「分かった。そういうことにしておく」
「……もう」
しばらくして。
オリビアは本の隙間からルーカスを見る。
金色の髪。
青い瞳。
普段は穏やかで、魔法の話になると楽しそうで。
それでいて。
夜会では、誰もが認める次期公爵として振る舞っていた。
そんな彼に婚約者ができる。
当然のことなのだ。
でも――。
「……嫌だな」
小さな声が漏れた。
「何が?」
「!」
ルーカスが顔を上げる。
「今、何か言った?」
「い、いえ!」
「そう?」
「はい!」
オリビアは慌てて本に目を戻した。
ルーカスは不思議そうに彼女を見ていた。
そして。
少しだけ嬉しそうに笑った。
「……そっか」
「何ですか?」
「なんでもない」
それ以上は何も言わなかった。
二人は再び研究に戻る。
けれど、オリビアの心はもう魔法式だけを追ってはいなかった。
自分が何を考えているのか。
少しずつ分かってきてしまっている。
ルーカスが誰かのものになるのが嫌だ。
自分以外の女性と並んでいる姿を想像すると、胸が痛む。
そして――。
ルーカスに婚約者がいないことを知ったとき、嬉しかった。
「……」
オリビアはそっとペンを置いた。
これは、ただの先輩への心配ではない。
ただの友人への感情でもない。
けれど。
「……まだ、考えないでおこう」
オリビアは小さく呟いた。
今はまだ。
この気持ちに名前をつけるのが、少し怖かった。




