k-45 皇紀二六〇四年(昭和十九年)十一月二十四日
この日の本田の工場は計画停電だった。
工場は休みになり、カッパとラーナと菊と陸雄が暇を持て余していた。
「最近、停電ばかりだよね」
「戦争中はこんなものだろ?」
陸雄が陸王を磨きながらぶっきらぼうに答えた。
そんな時、工場の前に黒塗りのトヨダ・AA型乗用車が停まった。
中から降りてきたのは、軍服ではなく私服の男性だった。
陸雄だけは車を見た瞬間に只者ではないと判断して、直立して敬礼した。
「おい! お前たちも直立しろ!」
カッパとラーナと菊もすぐに直立した。
男性が笑って陸雄に語りかけた。
「皆、そんなに固くならなくても大丈夫。私はただの技術者だからね。こちらの本田さんと同業者の久保ってものだよ。ところで今日は本田さんか川上さんはいるかな?」
「社長と川上さんは買い出しに行きました。すぐに帰ると思いますよ」
「それなら待たせてもらっても良いかな?」
「もちろんです! すぐにお茶を入れますね。あの〜、普通のほうじ茶が良いですか? それとも、ほうじ茶豆乳ラテが良いですか?」
「ほうじ茶豆乳ラテとはなんだい?」
菊がカッパの方を指さした。
「こちらのカッパが働いてたお店で出していた飲み物なんですって」
久保が菊の指さした方を見ると、カッパが黒板に飛行機のイラストを描いていた。
ハッチが開いた状態で、車輪の位置まで正確に描かれている。
久保は目を細めた。
子供が描くイラストならば、大抵の場合、ハッチは閉じている。車輪の正確な位置を覚えている子供もいない。
この絵は、適当に描かれたものではなかった。
「お嬢さん! その飛行機の絵は本田さんが描いたのかい?」
「えっと……私が描きました。どっか変かな?」
「いや、変どころか上手だよ。お嬢さんはこの飛行機を見たことがあるのかい?」
「うん! あるよ! 笠寺で」
久保が静かに頷いた。
「そうか……君は笠寺から来たんだね」
「はい!」
菊がほうじ茶豆乳ラテを持ってきた。
久保が一口飲んで目を丸くした。
「ほう。これは美味いな。カッパさんは笠寺で働いてるのかな?」
「うん。そうだよ。笠寺のアハロ」
「そうか……今の笠寺ではその店ももう無くなったのだな……」
久保が申し訳なさそうに呟いた。
「ところでカッパは一〇〇式司令部偵察機を見たんだね? あの飛行機をどう思う?」
「百式は鈴菌さんって人がアメリカも最も美しい機体だって褒めてたって言ってたよ。私も百式が好きだよ。戦わずに逃げ切るための機体だからカッコイイよね。あとは二人乗りだから面白い! 友達と二人でどこか遠くへ飛べるもんね」
そんなカッパの意見に陸雄が噛み付いた。
「はあ? 戦闘機なら飛燕が一番だろ! ウチの基地にもあるんだぜ? 速くて強いし飛燕の方が美しいだろ」
「だって私は百式しか見たことないもん! あとはポルコの飛行機しか知らないよ」
「ポルコ? なんだそれ?」
カッパが黒板にポルコ・ロッソの飛行機を描き始めた。
久保が身を乗り出した。
「ほう、水上飛行機か。これはまたすごい構造だなぁ。翼の上にエンジンか」
久保はチョークの先でエンジンナセルの位置をコンコンと叩いた。
「……おいおい、エンジンを翼の上に置いてどうするんだ。これでは重心が高すぎる。それに……この支柱の数を見ろ。これほど複雑に支柱を組めば、そこから発生する渦だけで速度は時速五十キロは落ちる。私の百式なら、この支柱だけで空気抵抗が全体の二割を占める計算だ」
さらに久保がプロペラの配置を見つめた。
「それにこのプロペラの配置だ。エンジンを翼の上に高く掲げているせいで、プロペラの回転軸が機体の中心線からあまりに離れすぎている。……これではスロットルを開けた瞬間、機体は前に進むんじゃなくて、地面に向かって突っ込むお辞儀をしようとするはずだ。……こんな癖の強い機体、パイロットが腕力で押さえつけるだけで疲弊して使い物にならん」
「ねぇ、ねぇ、久保さん、理屈っぽいよ? ポルコの機体は、イタリアの風を感じて飛ぶんだよ!」
久保が少し顔を赤らめ、鼻で笑った。
「フン、イタリアの風か。……だが、認めざるを得ないな。このエンジンの配置……無駄は多いが、プロペラが水面から高く離れているおかげで、波を被らないという生存率だけは計算されている。……美しさと生存率を両立させるために、あえてこんな馬鹿げた形状を選んだのか?」
久保は黒板のサボイアの絵の横に、自分の百式の断面図を書き加えた。
「結論を言おう。これは『飛ばない』のではなく、『飛ばす奴が選ばれる機体』だ。私のようなエンジニアが緻密に計算して造った百式とは真逆の……パイロットの魂で飛ばす機体だな。……悔しいが、この機体には、計算式には出てこない『夢』が詰まっている」
「本当にポルコの飛行機は飛べないの?」
久保が優しく笑った。
「さあ、どうだろうなぁ。そこの竹ひごを貰っても良いかな?」
久保は竹ひごと紙だけで、器用にポルコの飛行機の模型を作り上げた。
「これってポルコの飛行機?」
「ほら、出来たよ」
エンジンは付いていなかった。
「エンジンは?」
「まあ、待て待て。これでまず飛べるかを確かめてみないとね」
久保がふわりと模型飛行機を飛ばした。
竹ひごと紙のポルコの飛行機は、フワリと宙に浮いて工場の端まで飛んで、壁に当たってようやく落ちた。
「「凄い!」」
今度は久保が翼の上にマッチ箱のエンジンを載せて飛ばした。
飛行機は手を離した瞬間に背面飛行になり、一瞬で落ちた。
「「あ!」」
ラーナが模型飛行機を手に取って呟いた。
「やっぱり、ポルコの飛行機は飛べないの?」
そんなラーナへ向けてカッパが渋い顔で呟いた。
「飛べない豚はただの豚だ!」
カッパとラーナだけが笑った。
「飛べない豚はただの豚? なんだそれ?」陸王が首を傾げている。
「ポルコが自分で言うんだよ。飛べない豚はただの豚だって!」
「そうなんだよ! ポルコが自分で飛べない豚はただの豚だって言ったくせに、実は飛べない飛行機を大金出して作ってたんだね!」
「ハハハ、そのポルコさんって人は個人でこの飛行機を作ったのかい? 大金出して」
「そうだよ! 私と同じくらいの女の子に大金払って使ってもらったの! やっぱり、あんな女の子じゃ飛行機なんて作れないよね!」
「そうか女の子が設計した飛行機なのか……でも、こんな風に自由に設計できるのは羨ましいな……」
「鈴菌さんって人もいつも言ってるよ? 遊び心が大切だって。鈴菌さんはSUZUKIイズムの伝承者だから何でも知ってるんだよ!」
「遊び心か……鈴菌と言う人物は中々、面白いことを言うんだね。SUZUKIイズムとはどんな思想なのかな?」
「えっとねぇ。例えば単車のデザインを日本刀にしたり、兵器としてのジープを街乗り専用車に作り替えて女の人でも乗れるようにしたりすることが遊び心とチャレンジ精神なんだってさ! 鈴菌さんはSUZUKIの工場でジープの街乗り専用車ジムニーを作ってるんだって。めっちゃ売れて新車買うのも半年待ちとか一年待ちなんだって」
「ジープを作り替えてジムニー……。そうか、女の子でも乗れるジープか……そんな発想は無かったなぁ……」
「また女の子が乗れるとか言ってんのかよ。そのジムニーってヤツも四十九ccなのか?」
「アハハ! 違うよ! 車は四十九ccじゃなくて六六〇cc!」
「六六〇ccのジープだと? 本当にそんな排気量で動くのかい?」
「うん! キューンと走るよ! 私のモレよりも速く走れるんだよ! それがSUZUKIイズムなんだってさ! 私のモレもSUZUKIだよ」
「まさか、こんなに小さな単車が走るのかい?」
「久保さんも乗ってみる? SUZUKIイズムを体感してみてよ!」
久保は完全に油断していた。
こんなに小さな単車が走るはずがないと思っていたからだ。
アクセルを捻った瞬間、モレの前輪が簡単に浮き上がった。
久保が焦ってアクセルを離した。
「な、なんだこれは!?」
カッパがドヤ顔で鈴菌のモノマネをした。
「これがSUZUKIイズムだ! 俺はSUZUKIイズムの伝承者だ! お前の命はあと三秒……」
ラーナと菊と陸雄が笑った。
久保だけが笑えなかった。
久保はモレを持ち上げて、その軽さに驚愕していた。
「カッパさん、先程の私の言葉は撤回するよ!」
四人が久保に注目した。
「先程のポルコの飛行機だけど、このモレの軽くて高出力なエンジンがあるのなら、話は別だ! このエンジンなら間違いなく飛べる! 飛べる豚になれるよ!」
「え? モレのエンジンなら飛べるの?」
「あぁ、この軽さはちょっと常軌を逸しているんだよ! 水上飛行機の場合は水の抵抗を考えると四十九ccでは足りないけどね。……そうだなぁ〜。百十cc、いや、百二十五ccもあればポルコの飛行機は確実に飛ぶ!」
「「飛べない豚はただの豚だ!飛べない豚はただの豚だ!」」
カッパとラーナが何度も繰り返した。
久保はそんな子供たちには見向きもせずに、モレを観察し続けていた。
*
そこへ、買い出しから本田と源一が戻ってきた。
久保がすかさず立ち上がった。
「初めまして。三菱重工業の航空機設計技師の久保富夫です。先日の本田さんと川上さんの強制噴射装置の件でお話を聞かせて頂きたくてまいりました」
「三菱の……? 貴方があの久保さんですか……」
本田と源一が唖然として動かなくなった。
久保が笑いかけた。
「今日は強制噴射装置についてお聞きしたかったのですが、実は既にこの子達から貴重な意見を学ばせて頂きましてね。このモレという単車のポテンシャルは実に凄いです!」
「えぇ、そうでしょ? じつはこっちのモルフェの方の吸気システムをご覧いただきたくて……」
その時、久保の運転手が作業場へ飛び込んできた。
「東京の中島飛行機武蔵製作所が爆撃されました!」
「なんだと!? そんな馬鹿なことがあるか!? なぜ迎撃しなかった!?」
「敵は上空一万一千メートルからの爆撃だったようです!」
「一万一千メートル……」
久保の顔が、みるみる青ざめた。
「本田さんが危惧していたことが、ついに起こってしまったようです。敵は上空一万メートルを制しました。もう我が軍では太刀打ちできません!」
本田と源一は「やっぱりな」と思ったが、口には出さなかった。
陸雄が素早く立ち上がった。
先ほどまでの子供っぽさが、一瞬で消えていた。
「それは誤報では無いのですね! それならば、自分は基地へ戻ります! 失礼致します!」
久保と運転手に敬礼して、陸王に跨り、あっという間に去っていった。
久保も運転手に促されながら、本田と源一に頭を下げた。
「本田さん、川上さん、今日のところはこれで失礼します! また、いつかお会いできたら楽しい話題を語り合いましょう!」
そしてカッパとラーナと菊にも、優しく別れを告げた。
「君たちに会えて良かったよ! 本当にありがとう! 飛べないただの豚にならないように、もう少しだけ頑張ってみるよ! また逢えたら今度はポルコの飛行機を本当に飛ばせてみようね!」
笑顔でそう言って、トヨダ・AA型に乗り込んで去っていった。
*
工場に静寂が戻った。
カッパとラーナと菊は、三人で並んで立っていた。
大人たちと陸雄が急変した理由は、漠然としか理解できなかった。
ほんの数分前まで、久保がポルコの飛行機の模型を飛ばして笑っていた。
カッパとラーナが「飛べない豚はただの豚だ!」と騒いでいた。
それが今は、作業場に本田と源一だけが残って、何も言わずに立っていた。
「……何かあったの?」
三人の乙女は、尋ねたかった。
でも、誰も尋ねることができなかった。
大人たちの表情が、いつもと違いすぎた。
本田が静かに窓の外を見た。
秋の浜松の空は、青く澄んでいた。
その青さが、今日はどこか怖かった。
カッパはモレの横に立ったまま、その空を見上げた。
歩兵の本領の鼻歌が、今日は出てこなかった。
トヨダ・AA型乗用車
型式 AA型
最高出力 65hp / 3,000rpm




