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k-12 私を月まで連れてくの?

 四月二十九日。


 モト子が決断したのは、一週間前だった。


「ゴールデンウィークはアハロを閉めるわ」


 花とクレアおばさんが顔を見合わせた。


「この街の稼ぎ手は、みんな故郷に帰るか寮が閉まるから出て行くのよ。残った住民は大型モールへ流れる。笠寺で営業し続けるのは経営的な自殺行為ね。だから潔く閉めて、Vタックさんに相談した結果……みんなで北海道に行くことにしたわ」


 カッパは一瞬、自分の耳を疑った。


「わ、私も行って良いんですか?」


「細かいことは気にしない。どうせフェリー代なんて安いもんだから」


「そうよ、カッパちゃん。社員旅行で遠慮しちゃダメよ。これも必要経費なのよ」


 クレアおばさんが笑いながら言った。


「それにVタックさんはお金があるから甘えましょ!」


 モト子の言葉に、缶コーヒーを片手に話を聞いていたVタックが、こちらを見てサムズアップした。


   *


 当日の朝。


 笠寺の街が、消えていた。


 昨日まで信号待ちの車列で排気ガスの臭いが立ち込めていた国道一号線が、まるで映画のセットのように静まり返っている。

 この工業地帯には十万人を超える派遣労働者が暮らしているといわれている。

 その多くが今日、着替えを詰めたバッグ一つで故郷へ、あるいは安宿へと散っていく。

 大型連休の「民族大移動」だ。


 コンビニの棚から弁当が消え、深夜まで明かりが灯っていた寮の窓が、一斉に深い闇に沈んでいる。


 カッパは、オデッセイの後部座席から、その光景を眺めていた。


(……この街って、こんなに広かったんだ)


 普段は渋滞で遠く感じる道が、今日は驚くほど速く流れていく。

 誰もいなくなった名古屋を、VタックのHONDAオデッセイが悠々と走り抜けていた。


 前席にはモト子がナビを務め、運転席にVタックが座っている。

 後部座席にはクレアおばさんとカッパ。

 花だけは一人、モトラで先行している。


 立地条件の話をモト子とクレアおばさんが交わしている。

 カッパにはその意味がまだよくわからない。

 ただ、窓の外の「ゴーストタウン化した笠寺」を眺めながら、こういう日があるから閉めるという判断が生まれるのだということを、ぼんやりと感じていた。


 モト子から貰ったASUS ROG Flow Z13で、何度も太平洋フェリーのホームページやYouTubeを見ていた。

 石狩、木曽。

 フェリーの船内施設。

 北海道の風景。


 全部、画面の中の話だった。


 でも今日、それが現実になる。


 カッパは膝の上で両手を握り合わせた。


   *


 名古屋港に着いた。


 手続きを済ませて、フェリーターミナルで乗船を待った。


 やがて乗船時間になった。


 花がモトラで車両甲板へと消えていった。

 続いてVタックが乗るオデッセイも、フェリーの大きな口に飲み込まれていった。


 カッパはその光景を、目を丸くして眺めていた。

 あんなに大きな車が、あの口の中に吸い込まれていく。


「カッパ、行くよ!」


 モト子の声がかかった。


 カッパの足が、タラップを踏んだ。


 人生で初めての、フェリーだった。


   *


 重厚な扉を開けた瞬間、カッパは息を呑んだ。


 シャンパンゴールドの光が降り注ぐ、別世界が広がっていた。


(……なんだ、ここ。本当に、船の中なの?)


 笠寺の商店街の街灯とは、比べものにならない。

 毎日、排気ガスと踏切の音の中で生きてきた。

 こんなに近くに、こんな場所があったなんて。


「カッパ、口が開いてるわよ。さあ、特等席に行きましょう」


 モト子が不敵に笑って、カッパの背中を軽く押した。


 隣では花が、見たこともないほど豪華なソファに深く腰掛けて、足をブラブラさせていた。

 クレアおばさんは「まあまあ、素敵ねぇ」と、孫を見守るような目でステージを眺めている。


 出航は十九時。

 名古屋港を離れると、ステージの照明が落ちた。


 軽快なスウィングのリズムが刻まれ始めた。


 ウッドベースの深い低音が、床を伝ってカッパの足の裏に響く。

 サックスの音色が、ラウンジの高い吹き抜けへと吸い込まれていった。


(……本物のジャズだ。プロの演奏って、こんなに心臓を直接叩いてくるんだ)


 ピアノが、聞き覚えのあるイントロを奏で始めた。


「あ! カッパ、これ『エヴァ』の曲だよ! 歌ってるのは英語だけど、知ってる!」


 花が嬉しそうに耳元で囁いた。


 流れてきたのは、ジャズのスタンダードナンバー「Fly Me To The Moon」だった。


(……花さんらしいな)


 カッパは少しだけ口角を上げた。


 「私を月まで連れていって」。

 歌詞の意味はわからなくても、今の自分たちの状況そのものだと思った。


(月じゃないけど……この大きな白い船が、私たちをどこか遠い、知らない世界へ連れていってくれる。絶望してた私を、花さんたちが、アハロが、この場所まで引っ張り上げてくれたんだ)


 窓の外、真っ暗な伊勢湾に浮かぶ漁り火が、リズムに合わせてゆっくりと流れていく。


(笠寺の夜間学校の生徒が、今、太平洋の上でジャズを聴いてる。……夢じゃないんだ)


 カッパの瞳には、ステージのライトがキラキラと反射していた。


   *


 翌四月三十日。


 フェリーは仙台港に一時寄港した。


 モト子と花とカッパの三人で下船した。


 仙台牛たん 湊の小十郎。

 フェリーターミナルからタクシーで五分ほどの、地元のファンが多い穴場店だ。


「カッパ、牛タン定食、食べてみな」


 モト子が当たり前のように言った。


 カッパは人生で初めて、仙台の牛タンを食べた。


 分厚い。

 噛んだ瞬間、肉汁が弾ける。

 麦飯と一緒に口に入れると、塩気と旨みが混ざって、口の中がいっぱいになった。


「……美味しい」


「でしょ! 仙台来たら絶対これよ」


 モト子が嬉しそうに笑った。


 その後、ミニストップで船内用のおやつと缶ビールを買い込んで、時間内にフェリーへ戻った。


(時間内に帰ってこれた……!)


 カッパはほっとしながら、タラップを踏んだ。


 夕方、二日目の船内コンサートが始まった。

 映画の名曲、しっとりとしたバラード。

 二日連続のライブに、カッパはもう夢心地だった。


   *


 コンサートが終わった後、花がカッパを誘った。


「甲板、出てみる?」


 二人で外に出た。


 扉が開いた瞬間、ラウンジの暖かさが嘘のような、鋭い冷気がカッパの頬を叩いた。


(……寒い。名古屋とは、もう空気が全然違うんだ)


 四月末の夜の海は、想像を絶するほど暗く、冷たかった。

 街灯ひとつない漆黒の海。

 波の音だけが、巨大な生き物の息遣いのように足元から響いてくる。


 カッパは思わず身をすくめて、パーカーの襟を立てた。


「カッパ、見て! 月が、あんなに大きい!」


 花が夜空を見上げて声を上げた。


 カッパが顔を上げると、そこには信じられないほど巨大で、暴力的なまでに輝く満月が浮かんでいた。


(……大きい。笠寺のビルの隙間から見てた月とは、別のものみたいだ)


 昨夜、ラウンジで聴いた「Fly Me To The Moon」の旋律が、冷たい風に乗って頭の中をよぎった。


(……私を月まで連れていって、か)


 月明かりが、真っ黒な海面に一本の真っ直ぐな銀色の道を創り出している。

 船はその道の上を、迷うことなく北へと突き進んでいる。


 カッパは手すりを握る指先の感覚がなくなるほどの寒さの中で、その輝きを瞳に焼き付けた。


 ほんの数日前まで、自分は名古屋の片隅で、明日のバイトのことや、終わりの見えない生活の重さに背中を丸めていた。


 でも今、自分は太平洋の上にいる。


(……あんなに絶望してたのが、嘘みたいだ。名古屋港の先に、こんなに広い世界が繋がってたなんて、誰も教えてくれなかった)


「カッパ、そんなに薄着で大丈夫? 鼻の頭、真っ赤だよ」


 花の心配そうな声に、カッパは小さく首を振った。


「……大丈夫です。この寒さ、なんだか気持ちいいです。私、今、本当に遠くへ行こうとしてるんだなって……そう思えるから」


 花が少し驚いた顔をして、それから優しく笑った。


 二人は、並んで月を見上げた。


 しばらく何も言わなかった。

 波の音だけが、遠く近く響いていた。


 やがて花が、口を開いた。


「♪Fly Me To The Moon〜♪」


 小さく、鼻歌が漏れた。


 カッパは一瞬戸惑ってから、そっと声を重ねた。


「♪Fly Me To The Moon〜♪」


 二つの声が、冷たい夜の海に溶けていった。


 笠寺の場末のスナックの娘が、太平洋の真ん中で、花と並んで月に歌っている。


 それは、誰かに頼まれたわけでも、なにかを証明したくてやったわけでもなかった。


 ただ、この瞬間が、嬉しかった。


 笠寺の夜間学校の、十六歳の女の子として。


 それだけで、十分すぎた。


 船は銀色の道を、北へ、北へと進み続けていた。







無限オデッセイ MUGEN RZ


型式: DBA-RB3

最高出力(馬力): 252 ps /7,000rpm



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