K-99 春なのに氷の世界
早朝の千歳市。
まだ空が暗い時刻から、ヨンキュウ部の乙女たちは走り出した。
モレ、モルフェ、モンキーR、VOXの四台にはスパイクタイヤを装備し、ハンドルカバーも付けた。雪の上を走る日のために、ずっと準備してきたのだ。
千歳市内はアスファルトが見えていた。橋の上だけがブラックアイスバーンの気配を漂わせていた。夕張に入ると山が深くなり、廃線になった鉄道の跡と炭鉱の記憶が、切ない景色として現れた。路肩の雪山が高くなっていく。路面がシャーベット状になっていく。
占冠村を越え、国道二三七号の金山峠へ。
峠道に入ると、原生林が両側から迫った。白銀の世界が広がり、圧雪路面でスパイクタイヤが確かな音を立てた。その音が、乙女たちには嬉しかった。
富良野盆地が見えた瞬間、キーコンが声を上げた。
「雪だ……本当の雪だ!」
約百四十キロのツーリングの果てに、ようやく白い世界が始まっていた。
*
午後三時。今夜の宿、ホテルリゾートインノースカントリー富良野に到着した。
チェックインを済ませると、乙女たちはすぐに外へ飛び出した。道中のホームセンターで買っていたキャプテンスタッグの子供用ミニスキーを履いて、ホテル周辺の雪道を歩き始めた。
足を踏み出すたびに——
カッタ、カッタ、カッタ、カッタ……
プラスチックがアスファルトを叩く音が、雪道に響いた。
「この音、なんか良いね!」
「止められない!」
乙女たちはミニスキーを履いたまま街の中を散策した。そして、雪のドーナツというドーナツ屋を見つけた。ミニスキーのカッタカッタという音を鳴らしながら店に入り、ドーナツを買った。
雪景色を眺めながらドーナツをかじっていると、三十歳くらいのお姉さんが声をかけてきた。
「ミニスキーなんて履いて、君たちどうしたの?」
「さっきここへ来る途中でホームセンターで買ったんです! 私たち名古屋から来てるから、ミニスキーなんて見たことなくて」
「あら、そうなのね。北海道ではミニスキーは子供がやるものなのよ?」
「え? そうなの? こんなに楽しいのに? あ、でも、そういえば、このミニスキーも安かった! 確かに子供でも買える値段でした!」
「せっかく富良野スキー場が目の前にあるのに、本物のスキーはしないの? レンタルも安いわよ?」
「う〜ん……。私たちの中でスキーを出来る人がいないからレンタルしても、きっとできないんですよ……。それにミニスキーで街の中を散策してる方が楽しいです! こうやって雪のドーナツも見つけられたし!」
「そうかもね。見知らぬ土地の散策も楽しいもんね」
「はい! 私たちはいつも原付で旅をしてるので、こういう地元の人しか知らないお店を見つけるのが好きなんです!」
「へぇ〜、原付でねぇ〜。今回はJR?」
「え? 原付ですけど?」
お姉さんが目を丸くしてドーナツを落としそうになった。
「はい? 原付でってどうやって?」
ラーナはモルフェのハンドルを握るジェスチャーをした。カッパ、キーコン、ボーアも続いた。四人が並んでハンドルを握るジェスチャーをしてみせた。
お姉さんは笑い出した。
「アハハ、凄いね! 君たち! そんなに気合いが入ってる女の子たちなら明日の深夜に私に付き合わない? 凄いもの見せてあげるから!」
お互い自己紹介してLINEを交換した。お姉さんは夏子と名乗った。富良野でスノーモービルの体験ツアーを企画している会社で働いているらしい。
今夜、深夜三時に約束して別れた。夏子は追加のドーナツを奢ってくれた。
*
深夜三時。
ヨンキュウ部の四台が、夏子のスノーモービルガレージの前に現れた。
「本当に名古屋ナンバーのスクーターなんだね……。よく来たね」
「ヨンキュウ部ですから!」
ラーナがドヤ顔で答えた。
夏子からスノーモービルの乗り方を教わり、カッパとラーナがYAMAHA VK540にタンデムで、キーコンとボーアがYAMAHA RSにタンデムで乗った。夏子のYAMAHA RSを先頭に、三台が夜明け前の富良野西岳の林の中へと分け入っていった。
スノーモービルは速かった。公道ではない林の中を、雪を蹴散らしながら駆け上がっていく。寒さも忘れて、乙女たちは笑いながら疾走した。
やがて——山頂付近の見晴らしのいい場所で、夏子がエンジンを止めた。
乙女たちもエンジンを止めた。
山頂特有の冷たい風の音だけが、静かに流れた。
次の瞬間、空気が肺に入ってきた。
冷たい、ではなかった。
凍る、という感覚だった。
乙女たちが焦り始めたのを見て、夏子が優しく言った。
「大丈夫よ。この肺が凍る感覚を、必ず好きになるから……」
まだ信じられなかった。
まつ毛が凍った。懐に入れていたホットの缶コーヒーがとっくに冷めて凍りつきそうになっていた。使い捨てカイロも山頂の寒さに白旗を上げた。
それでも五人は黙って、風の音だけを聴いていた。
そして——山の際が、ほんのりと明るくなった。
*
その瞬間だった。
空気が、凍った。
凍った空気が、光を帯びた。
夜明けの淡い光の中で、空気の一粒一粒が、ダイヤモンドのように煌めき始めた。
それは降っているのではなかった。漂っているのでもなかった。空気そのものが宝石になって、静かに、静かに、あたりを満たしていた。
銀世界の上に、光が降り積もっていた。
目の前には誰もいなかった。スノーモービルが三台と、五人の乙女だけがいた。あとは樹氷と、白銀と、凍りついた空気の輝きだけがあった。
キーコンが夏子を見た。
「これがダイヤモンドダスト。北海道の山頂付近でマイナス十五度を下回ると、これが毎日見られるのよ。ね? 肺が凍る感覚が好きになるでしょ? この肺が凍る感覚がダイヤモンドダストが起こる温度なの」
誰も言葉を出せなかった。
映画でも、アニメでも、写真でも、見たことがない美しさだった。この美しさを言葉に変える方法を、五人は誰も知らなかった。
そして——朝日が昇った。
ダイヤモンドダストの中に、光の柱が現れた。
サンピラーだった。
大気に浮かぶ無数の氷の粒が朝日を反射して、地上から天へと伸びる光の柱を作り出していた。その柱は揺れも消えもせず、ただそこに在り続けた。
まるで、空と地の間に架けられた橋のように。
キーコンの目から、涙がこぼれた。
その涙さえも、宝石のように凍りついて——雪の上に、ぽたりと落ちた。
ベトナムで生まれ、雪を一度も知らなかった少女の最初の涙が、北海道の山頂で宝石になった。
乙女たちは、もう肺が凍る感覚が好きになっていた。
*
太陽が昇りきると、サンピラーもダイヤモンドダストも静かに消えた。
再び銀世界と樹氷だけの、水墨画のような世界が広がった。
朝日の中、シマエナガたちが樹氷の枝から朝の歌を奏でていた。
三台のスノーモービルがエンジンをかけ、山を降りていく。シマエナガたちはその轟音にも動じず、小さな声で歌い続けた。まるで見送るように。
ヨンキュウ部にとって、最高の春休みになった。
*
一方、アハロでは——。
カッパがバイトを休んでいる週末、ラブがせっせとホールで働いていた。
「あらあら、週末担当のカッパさんが休んでしまうと、リアルタイムでサザエさんが見られませんわね……。店長さん、本当にサザエさんはHDDに録画できてますの? 野球の延長などで録画をミスってたりはしませんの?」
「そのネタを知ってるのはVHS世代よ? 何故、ラブがそれを知ってるのよ!」
「本当にプロ野球の延長だけは許せないですわ。桑田と川口の投げ合いのように、パッパと終わって欲しいですわ」
「アンタはいつの時代の日本を知ってるのよ!」
モト子が叫んだ。
桑田と川口。巨人対カープの先発投手戦。どちらも先発完投型の両エースが丁寧に投げ合うと、スコアはどこまでも0対0のまま延長に入る。そのたびにビデオデッキの録画予約がズレてサザエさんが途中で切れる——あの苦しみをラブは知っていた。
「千年以上生きてきましたので……。ビデオデッキの時代も存じてますわ」
「その割に、この前からじゃがりこをがぶがぶ食べてるじゃないの! じゃがりこはいつ覚えたのよ!」
「あらあら、文明の進歩は積極的に取り入れてますのよ? サザエさんの録画とじゃがりこは別の話ですわ」
モト子は諦めた。
その日の夜、ラブは録画されたサザエさんをじゃがりこを抱えてニコニコしながら見ていた。
アハロの春は、こうして始まりを告げた。
ダイヤモンドダストとサンピラーについて:
気温がマイナス十五度以下になると、大気中の水分が直接氷晶となり、光を受けてきらめく現象がダイヤモンドダストです。さらに朝日や夕日の光が氷晶に反射すると、地上から空へと伸びる光の柱「サンピラー(太陽柱)」が現れます。北海道の山頂や内陸部で、冬の澄んだ空気の日に見られます。
桑田真澄(巨人)と川口和久の投げ合いについて:
昭和から平成初期にかけて、この二人が先発で当たる巨人・広島戦は「完投型のエース同士」ということでテンポよく進む傾向がありました。ゆえにプロ野球の延長で最も「早く終わる」試合ともいえましたが、サザエさんの録画に命をかけていたVHS世代には「延長はいつだって許せない」のです。ラブがこのネタを知っていたことについては、「千年以上生きてきましたので」という本人の弁を引用します。
シマエナガ:
北海道にのみ生息する小鳥。真っ白でまん丸な外見から「雪の妖精」と呼ばれます。樹氷の枝に並ぶ姿は、ダイヤモンドダストとセットで北海道の冬の象徴です。




