第12話:揺れる心
王宮の「琥珀の間」に差し込む陽光は、リリアナの回復を祝うように穏やかだった。
刺客の襲撃から二週間。
驚異的な魔導医療と、アルフレッドによる「過剰」とも言える献身的な看病の結果、リリアナは自力でテラスまで歩けるほどに回復していた。
リリアナは窓を開け、そっと頭に巻かれた包帯を撫でながら、軽いため息をつく。
「リリアナ、外の空気はまだ早い。中へ戻れ」
背後から掛けられた声には、もはや隠しようのない慈しみが混じっている。
そう、アルフレッドだ。
アルフレッドは、リリアナの肩にふわりと高級なカシミヤのショールを掛けた。
その手つきは、壊れ物を扱うように慎重で、けれど拒絶を許さない強さがある。
「殿下、もう大丈夫ですわ。それよりも、いつまでも王子の寝所の隣に私が居座っては、周囲の目が……」
「目など、潰してしまえばいい」
冗談に聞こえないトーンでアルフレッドが言い放つ。
彼はリリアナを後ろから抱きしめるようにして、彼女が見つめていた庭園へと視線を投げた。
「……私の側にいることが、そんなに不服か?」
「不服ではありません。ただ……」
リリアナの心臓が、耳元で響く彼の低い声に合わせて跳ねた。
認めざるを得なかった。
死の淵で自分を呼ぶ彼の絶叫を聞いた時、そして目覚めてから片時も離れず自分を見守り、食事を口に運んでくれた彼の瞳を見た時。
(私は……この人を『また』愛してしまったんだわ)
それは、断頭台を避けるための「生存戦略」でも、悪役令嬢としての「義務」でもない。
冷酷な仮面の裏に隠された、震えるほどに純粋な孤独を知ってしまった。
彼の唯一の「光」でありたいと願ってしまう。
しかし、自覚した瞬間に、冷酷な現実が彼女を襲う。
(私は『悪役令嬢』。この世界のシナリオでは、王子と結ばれるのは聖女エレーナであり、私は彼を闇に突き落とす存在。私が彼を愛し、彼の側にいればいるほど、本来彼が得るべき幸せ……完璧な聖女との未来を、私が奪うことになる)
リリアナの脳裏に忌まわしき、そして忘れ去りたい記憶が蘇る。
冷たい空気、周囲の怒号や醜悪な眼差し、そこへアルフレッドに処刑を宣告される自分。
もし、このまま運命の「強制力」が働けば、今のこの幸せな時間は、将来彼が私を殺さなければならない時の「絶望」を深くするだけではないか。
「……殿下、離してください」
リリアナは震える声で告げ、強引に彼の腕の中から抜け出した。
「私は公爵邸に帰ります。そして、この婚約についても……再考すべきだと思っています」
アルフレッドの瞳から、一瞬にして光が消えた。
「……再考? 何を言っている。刺客に頭でも射抜かれたのか」
「いいえ、正気です。私は、貴方の未来に相応しくない。貴方の隣には、もっと清らかで、貴方を政治的な泥沼から救い出せる光のような女性が必要です。例えば……エレーナ様のような」
「また、その女の名を出すのか」
アルフレッドが放つ魔力が、周囲の空気をピリつかせる。
彼はリリアナの腕を掴み、自分の方へ無理やり向けさせた。
「君を救うために、私はどれだけの思いをしたか分かっているのか。君が傷ついて、深い眠りについている間、私は……私の心は、君と一緒に死んでいたんだ! それなのに、目覚めた君が言うことが、私を別の女に押し付けることなのか!」
「それが貴方のためなのです! 私は……私は悪役なのですわ! 貴方を破滅させ、悲しませるために存在している、呪われた娘なのです!」
リリアナは叫んだ。
涙が溢れ、視界を遮る。
自分の恋心を押し殺すために、自分自身を呪うしかない悲しみ。
「私が貴方の側にいれば、いつか貴方は私を殺さなければならなくなる。そんな運命、私は耐えられません……!」
「……殺させない。運命など、私がこの手で捻り潰す」
アルフレッドの声が、リリアナの激昂を冷徹に貫いた。
彼はリリアナの濡れた頬を両手で包み込み、額を合わせた。
その瞳には、狂気にも似た、揺るぎない覚悟が宿っている。
「リリアナ、君が私をどう思っていようと構わない。君が自分を悪役だと呼ぶなら、私は君を愛する大罪人になろう。神が君を死なせようとするなら、私は神に剣を向け、この国ごと君を匿い抜く」
「アルフレッド様……」
「帰りたいなら帰るがいい。だが、忘れるな。君がどこへ逃げようと、私は地の果てまで追いかける。君が私を拒もうと、私は君を縛り続ける。……君の恋心が、恐怖と混ざり合って歪んでいたとしても、私はそのすべてを愛そう」
アルフレッドは、リリアナの震える唇に、誓いを立てるように深く、重い接吻を落とした。
それは愛の告白というよりも、呪いの宣告に近かい。
リリアナは、彼の熱に浮かされながら、悟った。
身を引こうと決意すればするほど、彼はより深く、より強く彼女を求めてくる。
二人の関係は、もはや「婚約」という社会的な枠組みを越え、魂の命題へと進化してしまったのだ。
翌日、リリアナは強引に王宮を去り、公爵邸へと戻った。
静まり返った自分の部屋で、彼女は一人、窓の外を見つめる。
(結局、逃げられなかった……。私の心も、彼の手の中にある)
しかし、リリアナの決意は完全に折れたわけではなかった。
彼を愛しているからこそ、彼を「物語の被害者」にしたくない。
もし、エレーナが本来のヒロインとして覚醒し、運命の強制力が強まるのなら、自分はそれに対抗するだけの「悪」ではなく「力」を身につけるしかない。
そしてリリアナの手には一通の手紙が握られていた。
それは王家の紋章が刻印された手紙。
(……王家からの呼び出し。おそらく、王家から『婚約破棄』の打診が来るはず。この婚約破棄をどう活かすべきか)
リリアナは埃を被った古代魔導書を手に取り、本を開いた。
愛ゆえの逃走と、執着ゆえの追跡。
しかし、二人の関係が世界そのものを変えていく崩壊へのカウントダウンが、もうすでに始まっていた。
そしてその頃、聖女であるエレーナの瞳からは、かつての純真な輝きが失われつつあった。
「……リリアナ様、どうして。殿下は私のものなのに。ゲームの通りなら……あの方は私を愛さなきゃいけないのに」
運命の強制力という名の闇が、物語の裏側で蠢き始めていた。
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第13話:婚約破棄の撤回




