07_王城での試練開始と見つけた紙片(2)
翌日もクレアは図書館にいた。図書館通いがほぼ日課になりつつある。
試練という気の抜けない状況ではあるものの、ディルとのお茶の時間以外は、自由に過ごせて、本も読み放題なのだから、素晴らしいことには変わりない。
でも昨日から、クレアの気持ちは沈みがちだった。
(昨日のディル、どこかおかしかったわ……。気を遣わないでいいって言ったのがそんなにいやだった? でもなんで?)
しかし、いくら思い返してみても、自分の何がディルの癇に障ったのかわからなかった。
クレアは諦めるように息を吐き出し、昨日読みかけのままになっていた『マレドロールの歌』のしおりが挟まったページを開く。
本は貸出しさせてもらえることになったので部屋でも読めるが、無数の本に囲まれている図書館で読むのは格別だ。
本当は昨日夜通し読むつもりだったが、部屋に帰ってからも、ディルとのやりとりが気になり、本を開く気にならなかった。
(考えても仕方ないわ。ひとまずディルもわたしも試練をクリアするのが目的なんだから、それさえ共有できていれば問題ないはずよ)
クレアは頭を切り替えるように、ページに目を落とす。
その瞬間から意識は活字の海へと潜り、それは次第に深くなる。
ページをめくっている手の動きすら、無意識になる。
しかしあと数ページで読み終わるというとき、クレアの指がぴたりと止まった。
首を傾げ、ある一点を凝視する。
──そこにあったのは、一枚の紙片だった。
まるで隠しものをするように、ページとページの間にひっそりと挟まっている。
そっと指を伸ばして見てみると、表面には何か文字が書かれていた。
クレアは顔に近づけ、口に出して読んでみる。
「『星は瞬き、月は満ちては欠ける。ときとして真実は嘘をつく。しかし私の愛は疑うことを知らない』──」
それは古語で書かれた文字だった。
「……これはフォン・ラーセンの詩集の一節ね。でもわざわざ古語でそれを書き記しているなんて、どういうことかしら?」
クレアは大いに興味をかき立てられた。
「それにこの一節は、たしかラーセンの生まれ故郷であるエルペリエ国で出版された本にしか載っていなかったはず……、もしかして、ここにあるの?」
誰かがそらんじるほど気に入っている一節をたまたま紙に書き記したとも考えられるが、もしかしたらエルペリエ語版をこの王立図書館で目にして、紙片へ書き写した可能性もある。
(それでも、どうして古語を使ったのかは疑問だけど……)
クレアは手にしている紙片をあらためて確認する。
そして後ろ髪を引かれながらも、残り数ページになっている本に自前のしおりを挟むと、席を立った。
あたりをきょろきょろと見回す。
ちょうど近くにいた初老の司書官を呼び止める。
「あの、こちらにフォン・ラーセンの詩集は保管されていますか? おそらくエルペリエ語版だと思われるのですが……」
初老の司書官は、蓄えた白いあごひげに手をやりながら、
「さあて、なんせここには膨大な書籍が保管されておりますからのう……。詩集なら二階の東側の一角、グーヴェルクの彫像の前の棚にまとめられているはずなのですが、若い者に探させますゆえ、しばしお時間をいただいてもよろしいですかな?」
「いえ、それなら自分で探してみますわ。二階の東側、グーヴェルクの彫像の前の棚ですね」
そう言うと、クレアははやる気持ちを抑えながら、淑女らしく優雅に階段を上っていった。
階段を上り切ると、ぐるりと全体を見回す。
回廊になっている二階、その壁際には飴色の重厚な本棚がずらりと並び、本が所狭しと収められている。回廊が取り囲む中央は吹き抜けで、階下が見える。そこにも本棚がびっしりと並ぶ。
どこを見ても、すべてが本に覆われている。さすがは王立図書館だ。
オルディス侯爵邸にもそれなりの広さを有する書庫があり、代々引き継ぐ膨大な書物を保管している。いまやそのほとんどをクレアは読み込んでしまったが、ここ王立図書館の本はきっと何年かかってもすべてを読むことはできないだろう。
クレアは息を呑む。
「もっと早く二階にも来るべきだったわ……」
まるでダンスのステップを踏むように、小さくぐるりと回りながら、独りごちた。
これまで王立図書館を訪ねるときは、いつも数時間ほどの滞在時間しかなかったため、目的の本を読むことを優先するあまり、なかなか二階にまで足を踏み入れられずにいた。それがいまとなっては悔やまれる。
ふとクレアの視界に一体の彫像が目に入る。
近づいていくと、そこには兜をかぶった雄々しい男性の胸から上が型取られた彫像があった。
その前に立つと、
「英雄グーヴェルクの彫像、これね」
クレアはひとり頷く。
約三百年前の大戦で、奇襲をかけられ劣勢だった我がサザラテラ王国に勝利をもたらした英雄だ。兜の向こうの素顔は、鷲鼻が特徴的な凛々しい顔立ちをしていたと、以前彼の数少ない肖像画を見たことがあるクレアは記憶している。
後ろを振り返り、初老の司書官が教えてくれたとおり、グーヴェルクの彫像の前にある本棚に目を向ける。
本の背表紙を下段の左から右に目線を動かして確認しながら、フォン・ラーセンの詩集のエルペリエ語版を探していく。
下段に見当たらないと、次はその上の段、そしてまたその上の段……、左から右に何度も往復してたしかめたが、見当たらなかった。
残るは自分の頭上よりはるかに高い位置にある場所の本になる。
クレアはさっとあたりを見回す。
誰もいないことを確認した上で、近くにあったはしごを動かし、淑女としては褒められた行為ではないのを承知でスカートを持ち上げ、脚立を登りはじめる。
そして上段にある本をひとつひとつ確認していく。
すると最上段の端に、フォン・ラーセンのエルペリエ語版の本がひっそりと収まっているのを見つける。
はしごの上にいることも忘れ、急いで本を手に取ると、ペラペラとページをめくりはじめる。
読みふけりそうになるのを堪えながら、しばらく進むと、またしてもページとページの間に紙片が挟まっているのを見つけ、クレアは薄く唇を開けた。
紙片には、エルペリエ語で、
『ルルクの鳥が入れ替わるとき、グーヴェルクの瞳が道しるべ』
そう書かれていた。
クレアは素早くはしごから下りると、正面にあるグーヴェルクの彫像を見つめる。
(『グーヴェルクの瞳』は、このグーヴェルクの彫像のことを指しているのよね……。じゃあ『ルルクの鳥』は……?)
クレアはドキドキしながら、左右を見回す。
回廊が続くばかりで、グーヴェルクの彫像以外の置物は見当たらなかった。
(それにしても、まるで宝探しね)
ふとおぼろげな記憶の中、昔、飴玉を探し当てるのに亡き母がこんな宝探しのようなことをしてくれたのを思い出す。
ふふ、とクレアは口元をゆるめる。
しばらく思い出に浸ったあとで、口元に指先を当て、
(ルルクの鳥と言えば、このサザラテラの北部にある高山にのみ生息していた飛べない鳥よね。いまはもう絶滅してしまったけれど、以前、図鑑で見たことがあるわ。とても特徴的な見た目をしている鳥だったけど、彫像じゃないとすると……)
頭上を見上げる。
教会などの天井は、神が舞い降りた瞬間の美しいフレスコ画が描かれている場合があるが、この図書館の天井は、幾重にも左右に組まれた梁と中央は一段高くなる形のアーチ状で構成されていて、絵らしいものは見当たらない。
クレアは左右に目を凝らしながら、ゆっくりと歩き出す。
(彫像でも、絵でもない……)
図書館の二階にある窓は、本の日焼けを防ぐため分厚い朱色のカーテンが引かれている。
それらカーテンにも目を向けるが、刺繍らしきものは施されていないようだった。
(刺繍でもない……)
コツンッと、クレアの足が止まる。
グーヴェルクの彫像からは少し離れたところだった。
クレアは勢いよくしゃがみ込む。
「……あった」
床板の表面、そこにはクレアの手のひらよりも小さいくらい、ルルクの鳥の姿を模ったパズルのような木製の小片がさりげなくはめ込まれていた。
注視していなければ、周りの書物に目を奪われ、きっと気づくことはなかっただろう。
クレアは指先を伸ばし、
「雄鶏ね」
そう言いながら、ルルクの鳥の特徴でもある長い尾に触れる。
ルルクの鳥は、雄にだけ特徴的な長い尾がある。雌に求愛するためだと言われていて、長いほどよいとされている。その特徴的な美しい見た目ゆえに、大昔に乱獲され、絶滅した悲しい歴史をもつ。
「それにしても……、見事な細工ね」
クレアは感嘆の息を漏らした。
優雅で繊細な長い尾を揺らしながら歩く、ルルクの鳥が見事に表現されている。さほど大きくもない木彫りでこれほど細かく表現できるとは、よほどの腕をもつ技師だろうと思えた。
クレアは指先で何度か、『ルルクの鳥』の表面を往復させる。
しかしふと手を止める。
よく見れば、胴体と尾の境目に継ぎ目があった。
さほど違和感はないが、これほど繊細な仕事をする技師がルルクの鳥の象徴ともいえる尾を、あえて胴体と切り離す過ちを犯すだろうか。
そこでクレアは、はっと息を呑む。
あたりを見回し、まだ誰もいないのを確認したあとで、指先に力を込め、ゆっくりと『ルルクの鳥』の尾だけを押した。
クレアの予感は当たり、境目になっている尾の部分だけが床に沈み込んでいく。
そして人差し指の爪が埋まるくらいの深さで、ぴたりと止まった。
クレアの心臓は早鐘を打っていた。
「『ルルクの鳥が入れ替わるとき』──」
紙片に書かれていた言葉をそらんじる。
「つまり、ルルクの雄鳥と雌鳥が入れ替わるとき、そういうことだったのね」
床にはめ込まれていた長い尾をもつ雄鳥のルルクの鳥は、長い尾が短くなり、いまや雌鳥になっていた。
クレアはさっと立ち上がり、グーヴェルクの彫像に駆け寄った。
兜に覆われている顔をのぞき込む。
先ほどまでは勇ましく正面を見据えていたグーヴェルクの瞳は、わずかに右側へ動いていた。
その視線の先をクレアは追う。
回廊の先、図書館の奥を指している。
(『グーヴェルクの瞳が道しるべ』ということは、どこかへつながっている……?)
はやる気持ちを抑えながら、指し示された方向へと歩みを進めると、本棚と本棚の間にある壁に行き当たる。
周りを見回しても、ほとんどの壁は本棚で埋め尽くされているが、ところどころ空白のように本棚が設置されていない場所があり、おそらく建物の構造上の柱の部分にあたるのだろうと思われた。
変哲のない壁だが、クレアはわずかに違和感を覚える。
ゆっくりと一歩を踏み出そうとした、そのとき──。
「クレアお嬢さま?」
呼ばれた声に、クレアは反射的に振り向く。
そこにはサリーが立っていた。
「こちらでしたか」
「あ……、ええ、気になる本があって探していたの」
クレアはとっさに動揺を隠すように言った。
サリーは気づかない様子で、
「それでは、司書官の方を呼んで探していただきますか?」
「いえ、いいの! 急ぎではないし。それよりもどうしたの?」
クレアが図書館にいる間、サリーは部屋にいるはずだった。
クレアは不自然さを隠すように、その場から離れるべく一歩を踏み出す。
「あの、それが先ほど殿下から伝言で、明日の昼食を一緒にと、お誘いがありまして……」
「そう……」
クレアは一瞬躊躇したものの、ディルを避け続けるわけにもいかないと思い直し、
「部屋に戻るわ。よろこんで、という承諾のお手紙を書くから、届けてくれる?」
「ええ、もちろんです」
サリーは頷いて答える。
「じゃあ、行きましょう」
クレアはさりげなく、サリーを促すように言った。
そしてサリーがきびすを返したのを見計らい、背後のグーヴェルクの彫像にそっと目を向ける。
先ほど動いた瞳は、何事もなかったかのように正面を見据えていた。
同じく床にはめ込まれていたルルクの鳥を模った木製の小片は、クレアが指で押して段違いになっていたにもかかわらず、すでに元のとおり、床と一体化している。
まるで白昼夢でも見ていたような感覚を覚えながらも、クレアの意識は遠ざかる背後に向いていた。
(あの先にあるのは、もしかして……)
ある可能性が頭をよぎり、クレアはすぐさま振り払うように首を横に振った。
あの先は自分が足を踏み入れていい場所ではない。
そう強く感じながら、クレアは、いまは踏みとどまれたことへの安堵に胸をなで下ろした。