06_出会い
「ディルさま、少しは落ち着いてください」
ルカスはため息を漏らしながら言った。もう先ほどから何度同じ言葉を口にしたかわからない。
「仕方ないだろ! だってクレアが王城にいるんだぞ!」
ディルは、ルカスをにらみつける。
ディルの手元、執務机の上にのっている確認すべき書類は、先ほどからちっとも減っていない。
しかしディルの口元は自然とゆるみ、
「今日もこのあとお茶に誘うつもりだ」
そしてまたクレアのことを考えているのだろう、何やら上の空になる。
ルカスは目をすがめて、ディルの手元に目をやる。
「それでしたら、その書類の束をさっさと片付けていただかないと」
いつもであればとっくに終わっている量なのだが、クレアが王城に滞在しはじめてからというもの、あきらかにディルは執務に集中できない時間が増えていた。
「わ、わかってる!」
自分でも効率が落ちていると自覚しているディルは、バツが悪そうに声を上げ、ペンを握り直す。
だがやはり意識は、クレアにあてがった部屋がある、客人滞在用も兼ねた棟のほうへと向いてしまう。
慣例では、王太子の婚約者となった令嬢は、王城に通い詰め、王太子妃教育を受ける必要があるのだが、クレアの父である、オルディス侯爵は不敬とも取られかねないぎりぎりの範囲で、クレアを王城に通わせることを辞退した。
愛娘を手元に置いておきたいのはもちろん、目の届きにくいところで政治の駒として利用されるのを避けたい思いもあったからだ。
しかしそれ以上に、当時、ディルにとって祖父にあたる先代の王が崩御したばかりだということが大きかっただろう。
ディルの父が王位を継いだが、有力貴族や国の重要な役職を担う者たちは、新米の王に手厳しかった。表立った勢力争いには発展しなかったものの、歴史を振り返れば女王が玉座についている御世は栄えると言われるこの国では、国民からの絶大な信頼を得ている王太后を水面下で押す声もあり、情勢は不安定だった。
そのためオルディス侯爵としては、当時まだ十三歳だったクレアを王城には可能な限り近づけたくないと考えたのだ。
クレアを心配する侯爵の気持ちを幼いながらもディルは理解できたし、クレアを王城には通わせないことを条件に自分との婚約を受け入れると提示されれば、ディルとしては頷かざるを得なかった。
しかし周りへの説得はそう簡単にはいかないと思われたが、王太后が承諾したことで、ひとまず形式上は認められた。
そのときには、王太后は、すでに自身が政には関与しないという立場を表明するため、離宮へと移っていた。数年ののち、新王のもとで情勢が落ち着けば、あらためてクレアには慣例どおり王城に通わせ、本格的な王太子妃教育を施せばいいだろうという配慮があった。
その代わりディルは、クレア以上に王太子としてさまざまな知識と訓練を受ける必要があると王太后から言われたが、心して受け入れた。
そしてクレアがディルの婚約者となってから三年が経った頃、誰もが予期しない状況になった。
クレアに付けた政治や経済、言語、地理、マナー、ダンスなど、さまざまな分野の教師が口を揃えて、『王太子妃として、これ以上教えることはない』と報告してきたのだ。誰もがクレアの優秀さに舌を巻き、なかにはクレアが男であれば、これほど有望な侯爵家跡取りはいないだろうと惜しむ者さえいた。
表面上、王太子妃教育は早々に打ち切られ、あとはクレアが望むままの知識を与えるようにと、王太后からのお達しが出るほどだった。
最初こそ慣例を破り、オルディス侯爵家へ通うことに難色を示していた教師たちだったが、その頃になると率先してクレアのもとへ通い、自分の持つ知識を与えたがった。
そうしてクレアは本人が知らないまま、王太子妃教育の範疇を超えた知識を吸収したのだった。
ディルは、クレアが王太子妃にふさわしい人物だと周りから認められたことをうれしく思う反面、クレアが王城に通う可能性はほぼなくなり、毎日会えるかもしれないという期待はもろくも崩れ去ったのは言うまでもない。
***
ディルがクレアをはじめて目にしたのは、ディルが八歳の頃に開かれた王妃主催の園遊会だ。
秋晴れの心地よい日差しが降り注ぐ庭園は、低めの気温でゆっくり花開いた秋バラや大ぶりの花を咲かせたダリアが見頃を迎えていた。
王妃主催と言いながらも、裏で開催をもちかけたのは王太后で、そこには自分の婚約者候補が一同に集められているなど、幼いディルは知るよしもなかった。
ただ当日の朝、母である王妃からは、「あなたの隣にいてくれる子がいるといいわね」とやさしく微笑んで言われた。
その言葉から、ディルは友達を選ぶ機会なのだろうと思った。
しかし園遊会で次から次に紹介されたのは、着飾った女の子ばかりで、その娘を連れている親たちは誰も彼も何か思惑があるような笑みを浮かべ、ディルにあいさつする者しかいなかった。
いまとなっては、積極的に自分の娘を王太子妃にと企む者だけでなく、波風を立てないように振る舞っていた者もいたと、その心中を察することもできるが、まだ幼いディルには居心地が悪いとしか思えなかった。
そんなとき、道中の馬車に不具合があり、遅れて到着したのがオルディス侯爵家の息女、クレアだった。
オルディス侯爵は貴族院の議員を務めていることから、王城へはよく出入りしている立場だった。
ディルが、オルディス侯爵とはじめてあいさつを交わしたのは数年前になるが、裏表のない人の良さそうな笑みを浮かべた侯爵は、ディルを王太子として敬いながらも、ひとりの人間として見てくれていることは、柔らかな眼差しからもよくわかった。
それ以来、ディルにとって、オルディス侯爵は好ましい人物のひとりになっていた。
その侯爵が溺愛している娘がいると以前から聞いていたディルは、ひそかにクレアに興味を抱いていた。
そして園遊会当日。議会の都合上、先に王城にいたオルディス侯爵は、遅れて到着した娘のクレアをともない、王妃とディルの前に現れた。
侯爵の背後から顔を覗かせたのが、当時十三歳のクレアだった。
その瞬間、ディルは恋に落ちた。
涼しげな紫みを帯びた銀髪が風に揺れ、長いまつ毛に縁取られた瞳は、やさしく甘い香りを漂わせるライラックのような薄紫色。肌は透けるように真っ白で、まるで雪の妖精でも舞い降りたのかと思った。
大人たちが大勢いる場にもかかわらず、クレアは物怖じすることなく、王妃とディルを前に、誰もがため息を漏らすような洗練された淑女の礼をとった。
一言二言、王妃とオルディス侯爵が言葉を交わしたものの、侯爵は背後であいさつ待ちする者への配慮を装い、早々にクレアを促してその場から下がった。
ディルは思わず引きとめそうになったが、それをぐっと堪えたのだった。
そのあとディルは、はやる気持ちを抑えながら、何人ものあいさつを受け入れ、ようやく解放されたとき、大急ぎでクレアの姿を探した。
しかし立ち話に興じるオルディス侯爵の後ろ姿は見つかっても、その周辺にクレアの姿はどこにも見当たらなかった。
もしかして体調でも悪くなって帰ってしまったのだろうか、そう思いながら諦めかけていたディルは、奥まった庭園から噴水のほうへととぼとぼと足を向けた。
そのとき、
──バシャーンッ!
水飛沫が上がる音がした。
ディルは慌てて、音が聞こえた噴水のほうへと向かう。
そしてそこで見た光景に、驚きのあまり目を見開いた。
彫刻が施された三段の受けがある大理石の大きな噴水、その水がとめどなく流れ落ちる土台の中に膝まで水に浸かり、ずぶ濡れになっていたのは、クレアだった。
ディルは一瞬呆気に取られたものの、すぐにクレアに駆け寄る。
「大丈夫⁉︎」
勢いよく振り返ったクレアは、先ほどあいさつを交わしたばかりの王太子の姿を目にして驚いたようだった。
しかしすぐに冷静さを装うと、
「失礼いたしました」
そう言いながら、階段を下りる淑女のような優雅さで、噴水から出てきた。
「いったい、何が……」
ディルが問いかけようとしたところで、ふとクレアの手元に視線が向く。何かを抱きかかえている。
「……猫?」
そこにいたのは、灰色の子猫だった。
クレアは、わずかばかり肩をすくめてみせ、
「ええ、足を滑らせて噴水に落ちてしまったようなんです」
「きみが、助けたのか?」
ディルは驚きをあらわにした。
「誰か呼べばいいのに」
近くには誰も見当たらなかったかもしれないが、呼べば誰か来たはずだ。ディルだって水音を聞きつけられるくらい近くにいた。そうすれば、彼女自ら噴水に入らなくても済んだ。
しかしクレアはあからさまにむっとした表情で、
「それじゃあ間に合わないもの」
そう言って、猫を抱いていないほうの手で、額にかかる髪の毛を煩わしげに払い、
「誰か呼んでいる間にわたしが助けたほうが早いわ。そんなこともわからないの?」
王族に対して不敬ともとれる物言いなのに、ディルは不思議といやな感じは覚えなかった。それどころか、どきりと胸が鳴る。
先ほど目にした淑やかな少女の姿よりも、はっきりと自分の意見を述べる目の前の少女のほうにより強く惹かれる自分がいた。
ディルははじめての感情にうろたえてしまう。
何を言えばいいのかわからず、とっさに自分の首元からスカーフを外すと、背伸びをしてクレアの小さな額をぬぐった。
だがすぐに後悔する。
びしょ濡れの彼女にしてみれば、小さな布切れで拭いたくらいではどうにもならないのは誰の目から見てもあきらかだった。
しかしクレアは、
「ありがとう」
口元をゆるめると、にこっと満面の笑みを浮かべ、ディルにお礼を言った。
あまりのまぶしさに、ディルは息をするのも忘れるほど目を奪われる。
そのとき、
「──クレア⁉︎」
オルディス侯爵が慌てて駆け寄ってくる。
その背後には、ディルの侍従であるルカスの姿も見える。
「どうしたんだ! こんなにずぶ濡れになって」
あきらかに娘が何かしでかしたことを察したオルディス侯爵は、狼狽した様子で娘のクレアと王太子であるディルを交互に見やる。
しかしクレアは、そっとディルに片目をつぶって目配せした。
ディルは目を瞬かせたが、すぐに頷く。
「なんでもないんだ、オルディス侯爵」
侯爵に向き直って言った。
王太子であるディルがそう言えば、家臣であるオルディス侯爵はそれ以上尋ねようがない。
「それよりもご息女に早く着替えを、風邪を引いてしまう。空いている部屋に案内させます。代わりのドレスもすぐに届けさせますから」
昼間とはいえ、季節は秋だ。ディルは、すぐさまルカスに視線を向ける。
「ルカス、案内と手配を」
その言葉にオルディス侯爵は弾かれるように、びしょ濡れのクレアを着替えさせることが先決だと判断し、
「……感謝いたします、殿下」
ディルに深く首を垂れる。
ディルは頷いて、
「さあ、ここは大丈夫ですから」
そう言って、侯爵とクレアを促す。
先ほどから園遊会場のほうから、こちらに近づいてくる話し声と足音が聞こえている。
おそらく誰かがディルを探しに来ているのだろう。
オルディス侯爵は一礼し、案内するルカスに続いて歩き出す。
クレアもそれに続く。しかしクレアはふと足を止め、トトトッとディルに近づくと、
「名前、いただけませんか」
そっと耳打ちする。
寄せられた頬に、ディルの心臓が跳ね上がる。
クレアはまるでいたずらの共犯者のようなにんまりとした笑みを浮かべ、
「この子の名前、殿下がつけてください」
ディルは一瞬固まってしまったが、すぐに意識を戻すと、わずかばかり考え、
「……ライラ」
ぽつりと口を開く。
目の前には、ライラックのような薄紫色のきれいな少女の瞳があった。
「素敵ね。ありがとうございます」
クレアは薄紫色の瞳を細め、優雅に礼をすると、駆け出した。
ディルは、小さくなるクレアの後ろ姿からいつまでも目が離せなかった。
そしてその夜、ディルは、王と王妃に「オルディス侯爵家の息女、クレアがいい」と告げたのだった──。
***
「しかしここまで想っているのに、まっったく報われないとは……」
『まったく』をことさら強調して吐き出したルカスの声に、ディルは眉間にしわを寄せる。
集中力をなんとかかき集め、確認した手元の書類に承諾のサインをし、次の書類に手を伸ばす。
「仕方ない、僕が不甲斐ないからだ。クレアは教師たちだけじゃなく、オルディス侯爵領の領民からも慕われ、あんなにも認められているのに、僕はまだまだ何もかも足りない」
自覚していることとはいえ、言葉に出すとますますクレアとの差を思い知らされる。
ディルとて、周りから見れば優秀な部類に入る。しかしそれは彼の努力によるもので、決して非凡な才能からではない。
そのことを誰よりも理解しているのは、ディル自身だ。
いずれ王として立つには、自分には足りないものが多い。素直さは美徳であるが、為政者としては相手に手の内を読まれてしまい悪手になる。またときに非情さも持ち合わせていなければ、政局を見誤ることもある。よき君主として万民に幸福と安寧をもたらしたいと切に願っているが、まだ十五歳のディルの肩には、それらは重圧となってのしかかる。
自分の年齢が幼かったことと、クレアにふさわしい自分になるまではと、婚約状態をずっと続けてきていたが、クレアはもう二十歳を迎えてしまった。
王太后がしびれを切らして口を出すのも当然のことだ。
クレアのことを思い、王太子の婚約者の立場から解放するなら、もっと早く決断すべきだったとわかっている。
しかしいまだにディルは、クレアの隣に並ぶ自信がもてない一方で、クレアを手放すこともできないのだ。
(でももうここが最後の岐路だ──)
あの日、王太后から、クレアの気持ちが自分に傾くことがなければ婚約解消しろと言われ、ディルはひどく動揺した。
ひとまず婚約解消だけは避けなければと思い、ルカスの提案にのって、とっさに嘘をついてまで試練を受ける方向でクレアを説得したが、無事に試練をクリアしても婚約破棄にならなければ、クレアは不審を抱くだろう。そうなれば、試練の本当の目的が婚約継続だったと告げなければならない。
(つまり……、試練をクリアできたとしても、真実を知ったクレアによって拒否されるか、試練をクリアできずに諦めるか、どちらかだ。そしてどんな結果になったとしても、僕はそれを受け入れなければいけない……)
ディルは、ギリッと拳を強く握りしめた。
そしてわずかな望みをつなぐように、クレアが無事試練をクリアできたときのため、この三ヶ月の間に、少しでもクレアの気持ちが自分に傾いてくれるよう距離を縮めておきたいと思うのだった。
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