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14_最後の試練(6)

 クレアは手綱を左手で握り締めたまま、右手一本に腕がちぎれそうになるほど力を込めて、リリアンの腕をつかんで落下寸前のところで引き寄せる。


 かろうじて彼女の体をクレアがまたがる黒毛の馬の背に、横から覆いかぶせるようにうつぶせに乗せる。


 そしてすぐさま、手綱を引いて、馬に止まれと命じる。


 強い衝撃のあと、かろうじて馬が止まった。


 クレアは、はあ、はあ、と大きく肩で息をする。

 心臓が壊れそうなくらいにドクドクと鳴っていた。


 リリアンに目を向けると、彼女は涙目になりながら、震えていた。


 ひとまず無事を確認すると、クレアは深く息を吐く。


 強張りそうな体を堪え、なんとか馬から下りる。


「あの、大丈夫……?」

 リリアンに声をかけ、馬から下ろそうとする。


 そのとき、

「クレアッ‼︎」

 後ろから、ものすごい力できつく抱き寄せられた。


 顔だけ振り向けば、そこには息を切らしたディルがいた。


「大丈夫か! けがは⁉︎ なんて無茶をするんだ!」


 そう言いながら、ディルは急いでクレアの体を反転させ、今度は正面から強くぎゅっと抱きしめる。


「あ……、ごめんなさい……」

 クレアはぽつりと言った。


 一歩間違っていれば、クレアもリリアンも大けがをするところだった。それどころか最悪、命を落としていたかもしれないのだ。


 その恐怖がじわじわと押し寄せ、肩が小刻みに震える。

 それに気づいたディルが、クレアを(いだ)く腕に力を込める。


 じんわりと包み込まれるようなあたたかさに、クレアは深く安堵し、自然ともたれるようにディルに身を預けていた。


 ぎこちなくも自分から腕を伸ばし、ディルの背中に手を置く。


 身長はそう変わらないのに、自分よりもずっと広くてしっかりとした背中だった。


(ああ、男の人なんだわ……)


 クレアは実感する。

 いまとなっては、なぜ弟のように思えていたのか、不思議に感じてしまう。


 ディルは、クレアの手のひらを背中に感じて、思わずびくっと体を震わせる。


 クレアの無事を確認できた安堵で、徐々に正気に戻ると、腕の中に抱いているクレアの柔らかな感触を意識してしまい、動揺が増す。


「い、いいんだ、無事だったんだから──」

 と言いかけたとき、


「──ありがとうございます‼︎」

 その声とともに、突然、クレアの背中に体当たりされる衝撃が走る。


 驚いて振り返ると、リリアンだった。


 リリアンの背後にはルカスの姿が見える。おそらく彼がリリアンを馬から下ろしてくれたのだろう。


「なんとお礼を申し上げればよろしいのでしょうか! 馬を華麗に乗りこなせるだけでなく、身を(てい)してわたくしを助けてくださるなんて……‼︎」


 そう言うリリアンは、まるで恋する乙女のように頬を紅潮させ、瞳をうるませ、祈りを捧げるように両手を組み合わせている。


「ああ、馬に乗るディル殿下も素敵ですが、クレアお姉さまの比ではありませんわ‼︎ どうかレースがはじまる前に、わたくしが言った賭けのことはお忘れくださいませ‼︎ なんと失礼なことを申し上げてしまったのでしょう!

 ああ、それよりもわたくし、馬が得意だなんて言っておきながら体勢を崩すなど、あってはならないことですわ! 心からお詫び申し上げますわ‼︎」


 一気に言葉を吐き出すリリアンに、クレアは呆気に取られる。


「あの、えと……、けがとか、大丈夫かしら?」


「ええ、クレアお姉さまのおかげですわ! かすり傷ひとつございません‼︎ なんという奇跡でしょう!」


 お姉さまという呼び方など、いろいろ気になるところはあるが、ひとまずけがはないらしい。


 クレアはほっと胸をなで下ろす。しかし、


「クレア」


 ディルがぐいっとクレアの体を反転させ、リリアンから引き離すと、自分の背後に隠す。


 そしてリリアンに冷気をまとう微笑みを向けると、


「リリアン、賭けってなんのことだ?」


 リリアンはとたんに顔色を悪くし、


「あー、えーっと、わたくし、そんなことを申しましたかしら? あ……!」


 しどろもどろになりながらも、何かに気づいたらしく、目を留める。


 視線を追うと、そこにはこちらに近づいてくる王太后の姿があった。


 クレアは、いまの状況を思い出し、はっと息を呑む。


 ディルも王太后の存在に気づき、姿勢を正す。


「……試練」


 クレアの口から言葉が漏れる。


 最後の試練の最中だった。


 レースがはじまる前は、試練をクリアするつもりはない、だから一着になるつもりはない、そう決意したはずだった。


 でもいまは──。


(ディルのそばにいたい──)


 本当の思いに気づいてしまった。


 しかしクレアは、落馬しかけたリリアンを助け、結局ゴールすらできていない。

 一着は、王太后が選んだあの栗毛の馬に乗った騎士だろう。


 最後の試練は、クリアできなかったのだ──。


 現実がじわりじわりと押し寄せ、クレアは指先を震わせる。

 無意識に、隣に立つディルの上着の裾を右手でぎゅっと握りしめていた。


 王太后は静かに、クレアに歩み寄る。


 クレアは告げられる言葉から逃げるように、顔をふせてしまう。


 するとふいに、クレアの空いている左手がふわりと、あたたかな感触に包まれた。


 目を向けると、王太后の両手がクレアの手を包み込むようにそっと握っていた。


 クレアは目を疑う。


 王太后直々に臣下の手をとるなど、見たことがない。

 手袋越しでもはっきりとわかる心のこもった感触、それはまるで母親に手を握られているようにも感じて、クレアはただ戸惑う。


 わずかな沈黙のあと、王太后はゆっくりと口を開いた。


「クレア、あなたが無事で何よりでした。そして身を挺してまでリリアンを救ってくださって、心から礼を言います」


 思いがけない言葉に、クレアははっと顔を上げる。


「ですが一歩間違えば、あなたも大変な危険にさらされていました。けっして無茶をしてはいけません」

 王太后は真剣な眼差しで、諭すように言った。


「……はい」

 クレアは小さな子どものように、ただ小さく頷く。


 王太后はふっと空気をゆるめると、柔らかく微笑み、クレアの右手にちらりと視線を向ける。


 その視線を追ったクレアは、はじめてそこで、自分がディルの上着を握っていることに気づき、驚きのあまり、慌てて手を離す。


 しかしそれを引き止めるように、すかさず、ディルがクレアの手を握りしめる。


 王太后は目尻のしわを深めたあと、クレアの心のうちを覗き込むような視線で、

「もう覚悟はできているようですね」

 透き通るような声音で告げた。


 クレアは、小さく息を呑む。


 王太后は続ける。

「わたくしは今回、『知識や行動を問うもの』としてさまざまな試練を出しました。そして先ほどの最後の試練は、『行動を問うもの』として挑んでもらいました。予想外の事態が起こりましたが、クレア、あなたの行動は試練をクリアするに値します」


 クレアの手を握っているディルの手に、ぎゅっと力が入る。


「それでは──‼︎」

 ディルが緊張しながら声を上げる。


 王太后は、小さく頷いて、

「ええ、認めましょう」


 するとディルは、勢いよくクレアを振り返る。

 そしてクレアの手を取ったまま、さっと膝を折って、その場にひざまずく。


 わずかにためらうように複雑に微笑むと、クレアの手を自身の額にゆっくりと押し当てる。


 かすかに彼の指先が震えているように感じるのは、気のせいだろうか。


「……本当はこの試練、婚約破棄のためじゃなく、婚約継続のためだった。僕はクレアに嘘をついて、試練に臨ませた。どれだけ怒ってもいい。でもお願いだ」


 ディルは、ひざまずいたまますっと顔を上げると、深緑色(しんりょくいろ)の瞳で射るようにクレアを見上げる。


 どきりとするような力強い眼差しに、クレアは目を奪われる。


「──クレア、僕のそばにいてほしい。僕は僕の役割を投げ出すことはできない。それでもクレアのことも手放せないんだ」


 クレアは見下ろす先にある、ディルの黄金色の髪の毛をじっと見つめる。

 乾いた風がふわりと彼の髪の毛を揺らす。


「……なんで嘘をついたの」

 クレアはぽつりとつぶやく。


 ディルはじっとクレアを見つめ返し、ややあってから目尻を下げる。


「……ごめん。自分でもばかなことをしたと思ってる。婚約継続の試練だと伝えたら、クレアはきっと試練を受けずに、よろこんで婚約解消すると思ったんだ。……怒ってる?」


 たしかにあのときのクレアなら、ディルの予想どおり、きっとふたつ返事で試練を受けることを辞退しただろう。


 ややあって、クレアは小さく首を横に振った。


「……もう嘘はつかないで」


 怒っているわけではない、ただ悲しかったのだ。

 クレアは唇を引き結んだ。


 ディルは反省の色をにじませながらも、やさしく微笑んで、

「約束する」

 そう言って、そっとクレアの手の甲を引き寄せると、自身の唇を押し当てた。


 手袋越しにもかかわらず、熱を帯びた柔らかい唇の感触があった。

 あいさつ以上のものを感じさせる、いままでにない感覚に、クレアはめまいを覚え、足元をふらつかせる。


 さっと立ち上がったディルが彼女の華奢な腰に手を回し、力強く支える。


 そのままクレアの耳元に頬を寄せ、

「好きだ、愛している」


 クレアは目を見開く。

 たちまち耳がじんとするほど熱くなる。


「僕はクレアとなら、道を(たが)えず、この国を背負っていける」


 ディルはそっと顔を離すと、クレアの頬に両手を添え、彼女のライラックのような薄紫色の瞳をじっと覗き込む。


「クレアは? 少しでも僕のこと、好きだと思ってくれてる?」


 これ以上ないくらいに頬を染めているクレアは、ためらうように視線をさまよわせる。

 もう答えは出ていると告げているようなものだ。


 ややあってクレアは、戸惑いと恥ずかしさがにじむ瞳で、少しだけディルに視線を合わせると、小さく頷いた。


 それははじめてクレアが示す、ディルへの想いだった。


 ディルはたまらず、クレアをぎゅっと抱きしめる。力強くも、まるで探し求めていた宝物をやっと手に入れたような慎重な手つきだった。


 すると、コホン、と小さな咳払いがした。


「ディル、みなが見ていますよ」


 王太后の言葉で意識を戻したクレアは、あたりを見回す。


 目の前の王太后、ルカスとリリアン、王太后の侍女たち、さらに遠くからこちらを注視している騎士や使用人たちの視線に気づき、クレアは弾かれるようにディルから離れたのだった。



残り2話で完結です……!

完結までどうぞよろしくお願いいたします!

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