14_最後の試練(5)
土や砂が細かく敷かれた走路のダート、そのスタート地点に、三頭の馬が並ぶ。
王太后が選んだ若者と栗毛の馬、そしてリリアンと白馬、そのふたりの間に、黒毛の馬にまたがるクレアが位置する。
リリアンは、乗馬が得意だと自信たっぷりに言っていたとおり、騎乗する姿は予想以上にさまになっていた。日頃から馬に慣れ親しんでいる証拠だ。
クレアは手を伸ばし、自分がまたがっている黒毛の馬のたくましい首筋を、手袋越しにそっとなでる。
(きっと一着になりたいだろうけど、我慢してね……)
心の中でつぶやく。
──この最後の試練は、クリアしない。
今朝、悩んだ末にクレアはそう心に決めていた。
昨日立ち聞きしてしまったディルとルカスの話のとおりなら、最後の試練をクリアしなければ、この婚約は白紙になるはずだ。
予想外にリリアンが参加することになったが、いずれにしても、クレア自身は最後にゴールすればいい。
リリアンがどこまでこの試練の事情を知っているのかはわからないが、クレアが一着になれなければ、その時点でどのみちクレアはディルの婚約者ではなくなる。
リリアンが勝手に決めた、クレアがリリアンに負けたらディルから身を引くという賭け事も、そんなことをしなくても、結果はすでに決まっているのだ。
クレアはふうと息を吐き出したあと、ふと視線を上げる。
ディルがじっとこちらを見つめていた。
遠目だが、はっきりと目が合う。
クレアは、ぱっと顔を背ける。
ディルの視線など、見慣れているはずだった。でもいまは、なぜか落ち着かない。
ディルはこの国の王太子だ。クレアが婚約者の座から下りれば、すぐに別の令嬢がその座につくだろう。公爵令嬢のリリアンをはじめ、それこそ候補はいくらでもいる。
ディルの容姿は、はっとするほど整っていて華があるし、数年経てば、それこそ非の打ちようがないほど精悍な青年に成長するのは間違いない。
見た目だけでなく、性格は傲慢なところがないし、素直で、気遣いができて、とてもやさしい。
彼の内面のよさを知れば、どんな令嬢もそばを離れられなくなるだろう。
そしていずれはディルも、未来の王妃となるひとりの女性を見初めて、その女性をきっと心から慈しんで愛するのだ。
そのときには、過去の婚約者だったクレアのことなど忘れているだろう。
クレアがディルと一緒に過ごした七年という歳月も、跡形もなく消え失せる。
そしておいしいお菓子を食べながらお茶することも、庭園を一緒に散歩することも、思い出を語り合うことも、ディルのややくせのある金糸のような細くしなやかな髪の毛に触れられるのも、それらすべては、クレアではなく、リリアンか別の誰かのものになるのだ──。
クレアのまぶたの裏には、その光景がやけに鮮明に浮かぶ。
現実と空想との境でめまいがしそうだった。
心臓が痛いくらいに鳴っていた。
「──では、旗が上がると同時に発馬してください!」
白い旗をもつ係員が、馬上にいるクレアたちに大声で告げる。
クレアははっと意識を戻す。
前を向き、頭を切り替えようと集中する。
緊張感が漂うわずかな沈黙ののち、
「では、よーい……」
──バサッ‼︎
勢いよく旗が振り上げられる。
同時に、三頭の馬が一斉に走り出す。
直線距離を、瞬発力のあるリリアンの白馬が先頭に躍り出る。ついで、クレアが乗る黒毛の馬が続き、そのあとに騎士の若者が乗る栗毛の馬がつける。
栗毛の馬は様子見というところだろうか、騎手に焦りは感じられない。
最初に迎えるカーブを、それぞれ手綱を操る馬が華麗にぐるりと回る。
そのまま二個目のカーブも順位を変えずに回り、三個目のカーブを抜けたところで、騎士の栗毛の馬が徐々に追い上げてくる。
クレアの黒毛の馬を抜き、リリアンの白馬に詰め寄る。
やはり序盤はクレアたちの動きを様子見していただけで、最後で突き放すつもりだろう。
そしてゴール目前の直線距離に入ったところで、予想どおり、栗毛の馬は一気にスピードを速めた。
リリアンが驚きの眼で、それを見る。なぜかリリアンは焦りを感じているようだった。
その様子からクレアは、はっと気づく。
リリアンがレース前に口にした、『勝負に勝つ』というのは、彼女に負けずぎらいな面があるなら、クレアに勝つだけじゃなく、一着という意味で口にしたのかもしれない。
気づけば、ゴール直前の最後の直線距離に三頭は入っていた。
先頭は騎士の栗毛の馬で、後続を突き放そうとしているが、リリアンの白馬は離されまいと詰め寄る。
一方で、このままクレアの黒毛の馬が徐々に後退すれば、望んでいたとおり、クレアのゴールは最後になる。
(これでいい……)
クレアは騎乗している黒毛の馬に減速するよう伝えるべく、手綱を引こうとした。
しかし、次の瞬間──。
馬は黒いたてがみをさらにためかせ、グンッと力強く加速した。
クレアは驚きのあまり、目を瞠る。
黒毛の馬は、これまで力を抑えていたと言わんばかりに、全力で駆け出す。
それはまるですべての迷いを振り払うかのような、風を切る走りだった。
見る間に、リリアンの白馬にぐんぐんと追いつき、先頭の栗毛の馬もすぐ目の前に迫っている。
気を抜くと振り払われそうな勢いに、クレアはぐっと全身に力を込めるしかない。
すると黒毛の馬は、より一層速度を速める。
気づけば、横を走るリリアンの白馬に並ぶ寸前だった。
久しぶりに感じる疾走感に、クレアは息を呑む。
と同時に思い起こされるのは、幼い頃にはじめて馬に乗ったときの記憶だった。
幼いクレアにとって、見上げるほどの大きな馬は、とても怖い存在に感じた。
しかし馬上から見る景色は驚くほど見晴らしがよく、すぐに虜になった。
うまく乗れるようになるまで、ときに落馬しそうな危機をも経験しながら、ひたすら訓練を続けた。
ディルが婚約者になった頃には、まだうまく馬に乗れない幼いディルに、クレアが教えてあげることもあった。
そんなディルもいまでは、王立騎士団の騎手をもしのぐほどの腕前だと聞いている。
頬にあたる風の勢いに、クレアはふと、
(わたし、怖いからってこれまで何かを諦めたことがあったかしら……?)
とても大事なことに気づいた気がした。
何事もはじめては怖い、でもそこで諦めてしまっては、前へは進めない──。
なおも疾走し続ける黒毛の馬の振動が、突き動かすようにクレアの心の奥に響く。
(本当は、どうしたい──?)
まばたきするほんのわずか、浮かんだのはディルの顔だった。
昨日、厩舎で立ち聞きしてしまったとき、ディルはなんと言っていただろう。
『明日の最後の試練が終わって、クレアがそれでも僕との婚約を望まないと言うのなら、僕はもう身を引くしかない。クレアの幸せの中に、僕はいなかったということだから……』
そう言っていた。
クレアが婚約継続を拒否すれば、ディルは身を引くことを決意している。
それはつまり、これから先、クレアのそばに、ディルはもういないということだ。
(わたしの幸せ──?)
ドクンッと、大きく心臓が跳ね上がる。
(ディルがそばにいないのに、それでもわたしは笑っていられるの──?)
ディルがリリアンや別の女性と並んで歩く光景は鮮明に思い浮かぶのに、それを祝福している自分の姿は想像すらできなかった。
クレアは苦しげに表情をゆがめる。
なら、答えはひとつしかない──。
(ディルのそばにいたい、これからも、そのためなら──)
驚くほど強く、その思いが胸を満たす。
クレアは手綱をより強く握りしめた。
まだレースは終わっていない。
(間に合って、もっと、もっと速く──)
そう思った次の瞬間──、クレアははっと目を見開く。
すぐ真横を走る、白馬にまたがっているリリアンの体が、ぐらりっと大きく姿勢を崩したように見えた。
──落ちる。
クレアは、とっさにリリアンの体に手を伸ばしていた。
残り3話で完結です……!
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