14_最後の試練(4)
円形の競技場は、右回りにぐるりと一周する形で馬が競争できるようになっている。
ここでは年に数度、競走馬の見せ物が開かれることもあるため、クレアも過去、父に連れられて訪れたことがある。
スタート位置と思われる場所に、王太后が選んだらしき濃紺色の騎士の制服に身を包んだ若者がひとり、栗毛の馬をともなって立っていた。
王太后が選抜するくらいだ、若くとも相当腕が立つに違いない。
そしてそこから少し離れた位置に、クレアが選んだ黒毛の馬が厩番に手綱を握られ、待機している。
昨日、厩番に相談したとき、この黒毛の馬なら従順でなおかつ足が速いということだった。
初対面のクレアにも鼻先を擦り寄せてくるくらい愛嬌があり、ひと目で気に入ったのだ。
クレアは、競技場の端へと歩いていくディルの後ろ姿にちらりと目を向ける。
ディルが向かう先には、馬を引き連れている数名の騎士たちの姿が見える。
本来なら、クレアは彼らのうちのひとりに、自分の代理として騎手をお願いするはずだった。
しかしクレアが自分で試練に臨むと告げたため、ディルはそのことを説明しに行ったのだろう。
「ご機嫌よう」
突然、背後から場違いなほどに洗練された声がして、クレアは肩をびくりとさせた。
振り返れば、そこにいたのは、ディルのまたいとこで公爵令嬢のリリアンだった。
リリアンは、クレアに目を留めると、
「何やら面白い馬の競争があるとうかがったもので、ぜひわたくしも参加させていただこうかと思ったんですの。王太后陛下のご許可はいただいておりますわ」
クレアは思わず、向こう側にある観客席に目を向ける。
一階席の端のほうに王太后とお付きの侍女らの姿が見える。
王太后は広げた扇子を口元に当て、優雅に観覧するそぶりを見せていた。
クレアは、視線をリリアンに戻す。
彼女の服装は、公爵令嬢が着るドレスとしてはあきらかに見劣りする、スカートの膨らみや装飾を極力抑えた軽装のドレスだった。いかにもおしゃれ好きで、自分をよりよく見せることを知っているであろう令嬢のリリアンが、自らそんな格好をするとは意外に感じる。
リリアンの背後には、彼女の馬だと思われる美しい毛並みの白馬と、その手綱を握る使用人の姿が見える。
「わたくし、こう見えても乗馬は得意なんですの。ですから……」
リリアンは、そっとクレアに近づくと、
「この勝負、わたくしが勝てば、ディル殿下から身を引いてくださいませ。クレアさまには、よりふさわしい年上の殿方がいらっしゃいますわ、そうでしょう?」
とささやき、ふふふ、と不敵な笑みを見せる。
そのとき、
「──リリアン、どうしてここにいるんだ!」
慌てて駆けつけたディルが、クレアとリリアンの間に割り込む。
リリアンはにっこりと笑い、
「わたくしも参加しますの。王太后陛下のご許可は得ておりますわ」
「そんなはずないだろう!」
ディルは信じられず、声を上げる。
「いいえ、本当ですわ」
さらにディルがリリアンに詰め寄ろうとしたので、クレアは、
「ディル、あちらにいらっしゃる陛下が何もおっしゃらないもの。リリアンさまの参加は認められているのよ」
ディルは眉根をきつく寄せ、視線を王太后がいる観客席へと向ける。
ややあって、納得せざるを得ないと判断したのか、
「……わかった」
そう言って、息を吐き出す。
リリアンは、クレアに向き直ると、
「では、準備いたしましょう、クレアさま」
その視線を受け止めながら、クレアはリリアンのあとに続いて、競技場の中央へと進んだ。
***
ディルは、離れていくクレアの後ろ姿をじっと見つめる。
(まさかリリアンが参加することになるなんて……、陛下はいったいどういうつもりなんだ……)
王太后の意図がわからず、ディルはより表情を険しくする。
それに昨日、厩番から受けた報告も気がかりだった。
乗馬が得意なクレアが自ら試練に参加する可能性もあるだろうと思い、クレアの代理で侍女のサリーが馬を借りたいと言ってきたら、そのとおりにするにようにとあらかじめ伝えてあった。その際、黒毛の馬をすすめるようにとも言付けていた。
黒毛の馬は、馬が好きなクレアのために、去年からディルが特別に飼育していた馬だった。利口で主人の命をよく聞き、足も速い。
本当はクレアの二十歳の誕生日パーティーのあと、遠乗りに誘った折りにでも、お披露目しようと思っていた。
しかし試練の話が出てしまい、結局そのままになっていたのだ。
厩番が言うには、昨日クレアは、ひとりで厩舎を訪れたらしい。
出かける際は必ずサリーを連れていくようにと伝えてあったので、まさかサリーが外している間に、ひとりで出歩くとは思いもよらなかった。
そして外れてほしいと思っていた予感は的中し、クレアは馬を借りたいと願い出たのだ。
その上、厩番が促すまでもなく、自ら黒毛の馬を選んだということだった。
でも問題は、ディルとルカスが厩舎を訪れたすぐあとに、クレアも来ていたと報告したことだ。
厩番が見かけたとき、具合が悪くなったのか、厩舎から少し離れた木のそばでうずくまっていたそうだが、今朝の顔色を見る限り、緊張はしていても体調が悪いようには見えなかった。
(でも万が一、僕とルカスの会話を聞いていたなんてことは……)
ディルは不安を覚える。しかし、いいやと、首を横に振る。
(聞いていたなら、クレアのことだ、すぐさまどういうことだと僕に詰め寄るはずだ。……でも、もしすべてを知った上で、自ら試練に臨もうとしていたら……?)
クレアが握る手綱に、試練の結果が委ねられていることになる。
(『クレアの希望は叶う』なんて、どうしてあんなことを言ってしまったんだろう……)
ディルは、クレアの後ろ姿をじっと目で追う。
ひとつに束ねられている紫みを帯びた銀色の長い髪の毛が陽の光を受け、キラキラと輝いている。
男装のような簡素な白いシャツと黒いズボンを身につけただけのクレアは、女性らしさを省いている分、かえってより彼女自身の魅力が引き立っている。
クレアの希望は『婚約の解消』で、ディルの希望は『婚約の継続』、それらは正反対のものだ。
この三ヶ月の試練の間に、クレアの気持ちが自分に傾いてくれるよう働きかけができたか、ディルは正直なところ、まったく自信がなかった。
それどころか、ラースレー領の不正書類の件もあり、ここ数週間はクレアと顔を合わせる機会さえもてない日も多かった。
(やっぱり三ヶ月でクレアの気持ちをどうにかしようなんて、無理だったのか……)
クレアを手放さなければならない、その現実がもう目の前に迫っているような気がして、胸が張り裂けそうだった。
『あなたは国を背負うことが怖くないの?』
先ほど、唐突にクレアから尋ねられ、ディルは息を呑んだ。
まるでディルのこれからの覚悟を問うような言葉だった。
怖くない──、そう自信をもって答えられればどれほどよかったか。
でもディルには偽ることは無理だった。だからありのままの自分の気持ちを伝えた。
離れていくクレアの後ろ姿を目に焼きつけるように、じっと見つめる。
「クレアがいてくれるから、僕は道を違えず、背負っていけると思うんだ……」
ディルはぽつりとつぶやいた──。




