14_最後の試練(2)
王太后から最後の試練を言い渡された翌朝、クレアはひとり、王城の馬が飼育されている厩舎へ向かっていた。
今朝早く、ディルから手紙が届いた。
午後から、クレアと自分が選んだ乗馬が得意な騎士の数名とで顔合わせをおこないたいという内容が書かれてあった。試練については、詳細はふせ、馬の訓練の一貫として競争させるらしい。
承諾の返事の手紙をディルに届けてもらうため、サリーが出て行ったのを確認してから、クレアはそっと部屋を抜け出した。
サリーが戻ってきても、少し休みたいからひとりにしてほしいと伝えている。寝室を覗かれない限り、外出したことは気づかれないだろう。
ラースレー領にかかわる書類を拾った日以降、棟の警備人数は増えていたが、客人が滞在していることは内密なので、道に迷った令嬢のふりをしてなんとか通り過ぎることができた。外から入る人間は厳しく監視されているようだが、中から出る人間、しかも貴族の令嬢ともなれば無害だと思われたのか、そこまで疑われなかった。
クレアは足早に進み、滞在している棟から離れてしばらく行ったところに、ようやく厩舎らしき小屋を見つける。
あたりを見回し、中を覗こうとそっと近づく。すると、
「明日で決まってしまいますよ──」
ふいに聞こえた声に、クレアは動きを止める。
「……わかってる」
ついで聞こえたのは、低い憤りの声音だった。
それはクレアにとって聞き間違えるはずのない人物。
(──ディル?)
ディルは、侍従のルカスと立ち話しをしているようだった。
執務室にいるとばかり思っていたため、クレアは思わぬ鉢合わせに焦る。
ひとまずその場から離れようとしたが、
「クレアさまのことはどうするんですか?」
クレア、と聞こえて、足を止める。
(わたしのこと……?)
耳を澄ますが、
「…………」
ディルは何も答えない。
ただ沈黙だけがあたりを漂い、少しひんやりする乾いた風が幾度も通り過ぎる。
ルカスがたまりかねたように息を吐き出し、
「明日、最後の試練を無事クリアできれば、おふたりの婚約はこのまま継続されます」
その瞬間、クレアは耳を疑った。
(……クリアできれば、……婚約、継続?)
たしかにクレアの耳には、婚約破棄ではなく、婚約継続と聞こえた。
なおもルカスの冷静な声が続く。
「ですが、いずれにせよ、試練をすべてクリアできたにもかかわらず、婚約破棄にならなければ、クレアさまは不審に思うでしょう。そうなれば、試練の本当の目的を告げなければなりません。じつは婚約破棄ではなく、婚約継続のために試練を受けていただいたのだと──」
クレアはひゅっと息を呑む。
(──本当の、目的、……つまり、ディルは嘘をついていた? 本当は婚約継続の試練なのに、婚約破棄のための試練だと偽って……? でもどうして……?)
わけがわからず、頭が混乱する。
「ディルさま、試練をクリアできた際には、本当にすべてをクレアさまに打ち明ける覚悟はできていますか? じつは王太后陛下からは婚約の解消を促されていたと、それを引き止めるためにも試練をクリアしてもらう必要があったのだということを」
重たい沈黙のあとで、ディルは、
「……ああ、覚悟はできている。どうなっても僕はそれを受け入れる」
それはクレアがこれまで聞いたことのないほど、真剣で切迫している声だった。
「そうですか。もし婚約が白紙に戻れば、もうクレアさまがあなたの婚約者になることは二度とないでしょう。それどころか、オルディス侯爵家の息女で、あれほど美しいご令嬢ともなれば、すぐさま婚約話が持ち込まれるでしょうね。それこそこれまであなたと王太后陛下が水面下で阻止していた分」
「……それはクレアが決めることだ」
「ええ、あなたが諦められるなら、ですが」
「…………」
ディルはぐっと言葉に詰まったようだった。
たたみかけるようにルカスは、
「所詮はその程度ということですか……」
「その程度だと‼︎」
胸ぐらをつかむような、乱暴な衣擦れの音がする。
にらみ合いでもしているような緊迫感がひしひしと伝わってくる。
しかしすぐに、
「……すまない」
ディルが謝ったようで、わずかに張り詰めていた空気が解かれる。
「いいえ、私も口が過ぎました」
クレアは気づけば安堵の息を吐いていた。
いくらなんでも殴り合いにでもなれば、とても黙ってはいられない。
握り込んだ拳を胸に押し当て、落ち着かせようとする。
でも冷静さを保とうと思うほど、じくじくとうずくような痛みが胸に広がる。
(ああ、わたし、すごくショックなんだわ……)
クレアは思い知る。
まさかディルが自分に嘘をつくとは思ってもみなかったのだ。
裏切られた気がして、怒りよりも大きな悲しみが込み上げる。
(どうしてディルは、わたしに嘘をついてまで試練を受けさせて、婚約を継続しようとしたの……? 公爵令嬢のリリアンさまを婚約者にしたいんじゃないの……? だからわたしとの婚約を破棄したかったんでしょう……?)
クレアは、ディルの気持ちがわからなくなる。
ふいに、ディルが口を開く。
「……クレアのことは、好きだ。嘘をついて試練を受けさせてしまっているけど、明日の最後の試練が終わって、クレアがそれでも僕との婚約を望まないと言うのなら、僕はもう身を引くしかない。クレアの幸せの中に、僕はいなかったということだから……」
しばらくの沈黙のあとで、
「……少し馬を見に来たつもりでしたが、長居してしまったようです。一度、執務室に戻りましょう」
ルカスが促すように言った。
「ああ、そうだな」
ディルが答える。
ふたりはそのあと無言のまま、厩舎から遠ざかっていく。
クレアはよろよろと踏み出し、厩舎から離れると、近くにあった木に手をつき、ずるずるとしゃがみ込んだ。
(……好き? ディルが、わたしを……?)
ディルの言葉が頭から離れない。
ディルがクレアのことを好きだと言うのは、これがはじめてではない。
幼い頃は、幾度となく、そう口にしてくれていた。
でもそのたびにクレアは、五つも年下のディルが自分に向ける好意は、婚約者に対する義務的なものだろうと、身内に向けるものと同じだろうと、そう思っていた。
(でもそうじゃなかった──?)
クレアは胸元を押さえる。
あれほどディルのことを弟みたいだと思っていたのに、もうそんな風に思えそうもなかった。
(どうしたら、いいの……)
ディルが婚約破棄できるよう、クレアも納得してこの試練に臨んだはずだった。
でも本当は、婚約破棄ではなく、婚約継続のための試練だった。
ならばこのまま、明日の最後の試練をクリアしてしまえば、あんなに解消したいと思っていた婚約を自らの手で、継続の方向へと後押ししてしまうことになる。
(じゃあ逆に……? 試練をクリアしなければ、婚約は白紙に戻る……? でもディルが望んでいるのは……)
そのとき──、
「あの、こんなところでどうされましたか? ご気分でも悪いのですか?」
背後からかけられた声に、クレアははっと振り返る。
そこにいたのは、日に焼けた、いかにも純朴そうな青年だった。この厩舎を管理している厩番のひとりだろう。
その表情には、うずくまっている貴族令嬢にどう接するべきか、戸惑いの色が浮かんでいる。
クレアは瞬時に、ここを訪れた目的を思い出す。
「突然ごめんなさい、じつは折り入ってお願いしたいことがあって」
そう言ってクレアは、厩番にある頼み事をしたのだった──。




