13_ロラッカの刺繍糸(1)
「……、お嬢さま、クレアお嬢さま」
何度目かの呼び声で、ソファーに座っていたクレアははっと顔を上げた。
手元に開いている本は、先ほどからちっとも進んでいない。
そんな状態がここ数日、ずっと続いている。
原因はわかっている。
数日前にディルと公爵令嬢のリリアンとの親しげな様子を目撃してしまったからだ。
「あ、ごめんなさい、何かしら?」
クレアは、こちらを覗き込んでいるサリーに目を向ける。
「旦那さまからお手紙が届いておりますわ。どうやら旦那さまが登城された際に、ディルハルト殿下に直接お渡しになられたようで、今朝早く、殿下の代わりにルカスさんが届けてくださいました」
クレアは差し出された封筒を手に取る。
封筒の表面には、見慣れた父の筆跡がクレアの名前を書き記している。
久しぶりに見た気がして、ほっと息をつく。
「ありがとう」
そう言って、封筒と一緒に渡されたペーパーナイフで封を切れば、手紙には、
『愛しい我が娘 クレアへ
王太子妃教育はどうだ? 大変じゃないか? サリーが一緒にいるから大丈夫だと思うが、もし無理をしているようなら我慢せずに便りを寄越しなさい、私がなんとかしてあげるから。三ヶ月は本当に長いな。お前が戻ってくる日が待ち遠しくて仕方がない──』
娘を心配する父の心情が綴られていて、クレアの胸は熱くなった。と同時に、王太子妃教育と嘘をついていることにあらためて罪悪感を覚える。
手紙を読むクレアのそばで、サリーが膝をつく。
優秀な侍女は少し躊躇するそぶりを見せたあとで、
「お嬢さま、滞在期間も残り一ヶ月を切りましたが、このまま本当に試練を受けていていいんでしょうか……?」
不安そうな瞳でそう投げかける。
「なんでそんなことを言うの、サリー?」
クレアは戸惑いの色を浮かべ、訊き返す。
でもクレアには、サリーの言いたいことがなんとなくわかった。
サリーも昨日、ディルが公爵令嬢のリリアンに腕を取られているのを目にしたはずだった。
そしてクレアが逃げるように走り出してしまったことも……。
本当にディルがリリアンを婚約者にしようと思っているのかはわからないが、そんな状況でこのまま本当に婚約をなかったことにしていいのかと、サリーは心配しているのだ。
クレアは、姉のように慕う彼女の手を取る。
「もう試練ははじまっているのよ、それにこれはディルもわたしも望んでいることだわ、だって最初にそう約束したのをサリーも聞いていたでしょう? なんとしてもクリアしなければならないのよ」
不自然にならないように、クレアは精いっぱい笑ってみせた。
サリーは納得できない様子で、じっとクレアのライラックのような薄紫色の瞳を見つめ返している。
それ以上何も言えなくなったクレアは、話題を変えるように、
「そういえば、この部屋には素敵な刺繍箱が用意されていたわね。せっかくだから一緒に、何か刺繍でも刺してみない?」
サリーは無類の刺繍好きだ。クレアの部屋にある、ベッドカバーやクッションなど、サリーが手がけた作品が数多くある。
オルディス侯爵家主催のチャリティバザーに出すサリーの作品は、いつもすぐに売り切れるほどだ。
一方で、クレアは腕は悪くないものの、刺繍はあまり好きではない。だからクレアの部屋にある、それなりの値段がする刺繍箱は、ほぼサリー専用といってもいいくらいになっている。
サリーは切り替えるように、ふうっと小さく息を吐き出すと、いつものやさしげな微笑みを浮かべ、
「私はこのお部屋に来た初日からずっと刺繍箱が気になっていましたわ。いつお嬢さまが開けて見せてくださるのかと、いまかいまかと首を長くして待っていたのですが、ようやく拝見できるようで大変うれしい限りです。
そうですね、せっかくお嬢さまがその気になってくださったのですから、ぜひそうしましょう」
サリーは立ち上がり、キャビネットの上に置かれていた高級そうな刺繍箱をかかえて戻ってくると、それをクレアの前のローテーブルに丁寧に置いた。
刺繍箱は上部が両開きになっており、その下には三段の引き出しがついている。
箱の表面には、精緻な木彫り細工が施され、まさに淑女のための刺繍箱と言えるだろう。
クレアはまず上部の両開きに手をかけて開く。
太さの異なる刺繍針と、取手部分が金製でできた糸切りハサミ、象牙の指ぬきなどがおさまっている。それぞれ細かな蔦模様が施され、実用品というよりも芸術品のようだった。
「まあ、どれも素晴らしいですね、お嬢さま」
サリーは感嘆の息を漏らす。
「本当ね、さすが王城にある刺繍箱だわ。こっちも見てみましょう」
そう言うと、クレアは三段の引き出しをそれぞれ開けていく。
上段と中段には、これまた一目で高級品だとわかる、色とりどりの刺繍糸が階調に色分けされ、これでもかと詰められていた。
下段には、刺繍用の円形の木枠と刺繍を施す土台になるハンカチなどの布がしまわれている。
「まあ……、ため息しか出ませんね」
さすがのサリーも驚きを隠せないようで、目が釘付けになっている。
「この部屋に置いてあるということは、お好きにどうぞってことだわ。せっかくだからありがたく使わせてもらいましょう?」
クレアはサリーに提案する。
「ええ、それではこちらのシルクのハンカチをいただいて、何か指しましょうか」
サリーが刺繍箱から取り出した光沢のある白い布を広げる。
それを見ながらクレアも乗り気になって、
「そうね、図案は何がいいかしら? お花? 鳥? それとも何かの模様がいいかしら?」
「そうですね、まずは慣れた図案のほうがいいでしょうから、お花とイニシャルではいかがでしょう?」
「そうするわ、では糸の色はどうしようかしら?」
クレアは目移りするくらいたくさんの刺繍糸を順番に眺める。
どれにしようかと迷うものの、無意識に、緑と黄色系の糸ばかりに視線が向いていた。
それはディルの瞳と髪の毛の色を連想させる。
クレアは意識から外すように、別の色に目を向ける。
「青色、にしようかしら……」
あえて言葉に出して、青色系の糸を眺める。
「いいですわね、クレアお嬢さまの雰囲気にぴったりですわ」
サリーは、紫みを帯びた銀髪と薄紫色の瞳をもつクレアの姿を眺めて、頷く。
「じゃあ、青色で」
そう言ってクレアは、青色の刺繍糸を薄い色から順番に手に取り、真っ白なハンカチの上にのせて、色味をひとつずつ確認していく。
二色を選び取ったところで、クレアの手がふと止まる。
「……これって」
刺繍箱から濃い青色の刺繍糸のひと束を手に取る。
すると横から覗き込むサリーが、一際熱のこもったため息を漏らし、
「まあ、これはとても貴重な糸をご用意くださったんですね」
サリーがうっとりするのも無理はない。
それは昨年、とある国の王族の婚礼衣装、その一部に使われたことで一躍有名になった、ロラッカの宝石とまで謳われる、ロラッカ国産の刺繍糸だった。
ラピスラズリのような紫みを帯びた濃い青の中に、角度によってかすかに金粉をまぶしたような黄金色に反射する不思議な輝きをもつ糸だ。とても手間がかかる糸らしく、希少性が高く、製造過程は他国に流出しないよう厳重に管理されていると聞く。
クレアはロラッカの刺繍糸を掲げるように持ち上げ、左右に動かしながら、じっと眺める。
ついで糸の表面を何度も指先でなでる。
「どうされました?」
クレアの様子に、サリーは首を傾げて尋ねる。
「……ねえ、サリー」
「なんでしょう?」
「これ、どう思う?」
クレアはロラッカの刺繍糸を、サリーの視線の先にかかげて見せる。
「ええっと、ロラッカの宝石と言われるロラッカの群青ですよね? 刺繍糸に巻かれている紙のラベルに『ロラッカ』と書いてありますもの。さすが王城にある刺繍箱は揃えている糸も最高級品ですわね。私ははじめて目にしました」
「そうよね、たしかにラベルにも『ロラッカ』と記されているわ、でも……」
クレアは再度たしかめるように、またいろいろな角度でかざしてみたあとで、
「でもこれ、にせものじゃないかしら?」
「ええっ⁉︎」
サリーは驚きのあまり、目を大きく見開いている。
「以前、お父さまの商談に同席したとき、偶然ロラッカの貴族の方がいらして、身につけているスカーフの刺繍が大変素晴らしかったから、手にとって拝見させていただいたことがあるの。
あのときはもっと黄金色が星のように瞬いていて、全体的にツヤがあって輝いていたし、適度な厚みがあるのに、手触りはシルクのようになめらかでしなやかだった。
でもこれはよく見れば、輝きもツヤもそれほどでもないし、厚みも薄い感じがする。手触りもほんのかすかに引っかかりがあるような気がするわ」
クレアは、サリーの手のひらにロラッカの刺繍糸をのせた。
サリーも、クレアと同じように、宙にかかげて見たり、何度も指先で触ったりしてたしかめる。しかし困ったように、
「私はロラッカの群青の実物を見たことがないので、色味は判断できかねますが、手触りはたしかにお嬢さまがおっしゃるように、わずかに引っかかる感じがいたしますね。でもそう言われて、なんとなくわかる程度ですから、製造上の誤差と言われればなんとも申し上げられないところですわ」
「そうよね、でももしも本物のロラッカの群青じゃないのに、そうと謳って売っているなら、とんでもないことだわ」
「そんな、まさか……」
と、サリーは絶句したが、すぐにはっと思い至るように、
「でもここは王城ですわ、刺繍糸に限らず、ここにある数々の品は、王城に出入りできるたしかな身分のある商会や商人がおさめたもののはずです。その中ににせものが混じっているなんて……」
信じられないとばかりに声を上げる。
クレアはあごに指先を当て、考え込む。
「ディルに──」
そう言いかけて、口をつぐむ。
クレアの脳裏に、数日前に見た、ディルとリリアンの親しげな様子がよみがえる。
私情を挟んではいけないと思いながらも、まだ平常心でディルに会える気がしなかった。
ディルは多忙を極めているらしく、顔を合わせる機会がなくてよかったとさえ思っている。
「……いえ、王太后陛下にお会いできるようおうかがいを立ててみるわ」
「では、すぐにお手紙の用意を──」
サリーは急いで、持参した中で一番上等な封筒と便箋を用意する。
クレアは、部屋に備え付けられている華奢な猫脚の書斎机に向かう。
羽ペンを手に取り、陛下への謁見の申し込みを手紙にしたためる。
しばらくして、書き終えると、封蝋を押して、封をした。
クレアは、手紙をサリーに手渡しながら、
「サリー、これを王太后陛下のもとへ届けてもらえるよう、陛下が住まう離宮の使用人に言付けてきてくれるわね?」
サリーはしっかりと頷き、
「承知いたしました。ではさっそく行ってまいります」
そう言って駆け出すサリーを見送ろうとしたクレアだったが、
「──あ、待って」
ふと呼び止める。
クレアは思い直すように、
「やっぱりその手紙を出すのは明日にするわ。その前に、これから書くもう一通の手紙のほうを先に、指示するところへ届けてくれる?」




