12_すれ違いと戸惑い(1)
クレアとの朝食と庭園の散歩のあと、後ろ髪を引かれる思いで執務室に戻ってきたディルは、机の上に置かれた二枚の書類を見比べていた。
「左側はラースレー伯爵のサインじゃない、おそらくにせものだろう」
ルカスは息を吐き出し、
「やはりそうですか」
「ラースレー伯爵は去年あたりから、サインする書類の右端に気づかないほどの小さなインク染みを落とすようになっていた。最初はただのミスだと思ったけど、毎回だったから気になっていたんだ」
「そうなのですか?」
さすがのルカスも驚いたようだ。
「ああ、それで以前、伯爵が登城した際に立ち話でそれとなく尋ねたことがある。でも伯爵は『年をとったせいでしょう』と笑ってはぐらかした。もしかしたらこうなる事態を警戒していたのかもしれない。
そしてこの左側の書類の端には、インクの染みがない。どうやらラースレー伯爵のにせのサインを使った何者かが、洪水被害の支援申請をおこなったようだな。ラースレー伯爵に連絡を取れるか?」
「それが……」
ルカスは渋面になる。
「どうした?」
ディルは執務机の前に立つ、ルカスを見上げる。
「ラースレー伯爵は、洪水の際に指揮をとっているところ、落石に巻き込まれ、いまも療養中とのことです」
ディルは目を見開く。
「容体は? 悪いのか?」
「それが念のため面会は控えているものの、ベッドの上で執務はおこなっていると……」
「それは誰が言っているんだ?」
「伯爵の甥です。去年他国から戻ってきたばかりとのことで、いずれ自分が養子に入り、伯爵家を継ぐとあちこちで言っているそうです」
ディルは考え込む。
「ラースレー伯爵には子どもがいらっしゃらなかったな、夫人も十年以上前に亡くなっているし。たしか伯爵には弟がいたはずだが?」
「数年前に病気で亡くなっております」
「じゃあ、甥はその息子か?」
「はい、でもラースレー伯爵は、甥に爵位を譲ることには迷いがあるようだったと、伯爵家の執事が申しておりました」
「その執事はいまも伯爵家に?」
「それが、伯爵が洪水に巻き込まれ、療養中になってから、その甥に暇を出されたようで」
「信じたのか?」
「暇を出す書類に、伯爵のサインがあったそうです。ただし本物のサインかどうかは疑わしいと思ったそうで……」
「そうか、でも執事の立場でサインを偽物だと反論するのは難しいだろう。納得はできないが、受け入れるしかなかったというわけか」
「いかがいたしますか?」
ルカスは、ディルの指示を仰ぐ。
ディルはやや考えを巡らせたあとで、
「まずはラースレー伯爵の安否を確認したい。至急、人を向かわせて、直接顔を見るまで帰ってくるなと伝えろ。あと伯爵家の元執事にも連絡をとって同行させた上で、伯爵本人かどうかその目で確認させてくれ。最悪の事態は想定したくないが、伯爵のにせ者を用意している可能性もある。
それと甥が屋敷への立ち入りを拒否したときのために、有無を言わさない法的な書状も準備しておいてくれ」
ディルは一息に指示を出す。
「承知いたしました、すぐに手配します」
「頼む」
ルカスが出ていった扉を見つめ、ディルは椅子の背もたれに体を預ける。
「クレアが滞在する棟を偶然通りかかった事務官、偶然落とした書類、そして偶然発覚した不正……」
(偶然が重なりすぎているな……)
クレアには、朝食の席でこれは試練ではないと思うと伝えたが、やはりディルの胸には、もしやという可能性がよぎる。
落とした書類にクレアが気づき、それをディルがどう対応するのか、王太后はそれを見ているのではないのか、という気がするのだ。
「考えすぎだろうか……」
あのあと書類を落とした事務官を突き止めて確認したが、彼は指示された書類を届けようとしていただけだった。その日は急いでいたため、客人がいないと知っていて棟を近道で通り抜けしたらしい。それもはじめてのことだという。通り抜けしたこと、書類を落としたことについては、軽い処罰を与えるだけに留めた。
ディルは、先ほど庭園でクレアが発した言葉を思い出す。
『多少ものめずらしさもあったんじゃない? じゃなきゃ、五つも年上の女性を選ぶなんて、扱いにくだけでしょう?』
まさかクレアがそんなことを感じているなんて、思ってもみなかった。
(僕ばかりが埋まらない年の差を気にして足掻いているだけだと思っていた。でも、クレアも少しは僕のことを気になっている、とか……? いや、まさかな、クレアに限って……)
でもそうだったらどんなにいいだろうと、ディルの頬はゆるみそうになる。
なんとも思っていない相手なら年の差が気になることもないし、扱いにくいなんて言葉も出てこないはずだ。
少しでもディルに似合いたいと思ってくれているという裏返しではないだろうか。
「……いやいや、期待しすぎるな」
ディルは自戒を込めて言い聞かせ、はああ……、と長いため息を漏らす。
「クレア……」
ディルは愛しい人の名前を小さくつぶやいた。
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