11_ペンテスの花と希望(1)
翌朝、目覚めたクレアは、やけにすっきりした気分だった。
(以前にもこんな感覚があったような……)
はて、それはいつのことだったか。記憶を探ろうにも、思い出せない。
ふと、クレアは思考を止める。
なぜだか、体や手に、誰かがやさしく触れていったような名残りを感じた。気のせいだろうか。
「──クレアお嬢さま、お目覚めですか?」
コンコンとノックする音がして、クレアは、はっと顔を上げる。
「ええ、いま起きたところよ」
返事を聞いたサリーが寝室に入ってくる。
お湯が入った手桶とタオルを寝室の隣にあるドレッシングルームに置いたあと、ベッドの上にいるクレアのもとへと近づく。
クレアはサリーを見上げ、
「ねえ、サリー、昨日、ワインの試練みたいなものを受けた気がするのだけれど……」
ワインボトル十本のうち八本目まで選んだ記憶はあるが、そのあと最後のほうがすっぽりと抜け落ちている。
するとすぐさまサリーは目尻を吊り上げ、
「ええ、そうですわ! 試練を受けられました。私は飲み過ぎないようにと、途中申し上げましたのに! お嬢さまはすっかり酔ってしまわれて、寝てしまったんです!」
「え! じゃあ試練は⁉︎ どうなったの⁉︎」
クレアは蒼白になる。
「ご安心くださいませ、クリアだそうですわ」
「そ、そう、クリアできたのね」
ほっと胸をなで下ろすが、サリーの視線がとても痛い。
「あとで殿下とお会いになるはずですから、詳細は直接お聞きください」
「え、なんでディルに?」
「それも殿下にお聞きください」
ぴしゃりとサリーは言い放つ。
(これはわたし、何かやらかしたのね……)
サリーがここまで怒っているのは、昔、毒のある薬草を興味本位で育てていたとき以来だった。
「殿下が駆けつけてくださったからよかったものの、どうなっていたか……」
サリーは呆れ混じりのため息を漏らし、首を横に振った。
「そ、そうなのね、ごめんなさい」
(いったいどんな醜態をさらしたのかしら……)
確認したいけれど、訊くに訊けないわ。
「では、殿下のお声がいつかかってもいいように、すぐにお支度をお願いいたします」
すぐに、を強調して問答無用でそう言うサリーには逆らえず、クレアは仕方なくベッドから下りた。
それから間もなく、ディルから朝食の誘いがあった。
王族が住まう棟に足を運ぶと、いつもディルが使用しているというモーニングルームに通される。
「気分はどうだ?」
クレアが入室するなり駆け寄ったディルは、心配そうにクレアの顔色を覗き込む。
「ええ、なんともないわ。それよりも途中から記憶がないのだけれど、何か迷惑をかけたみたいで、ごめんなさい……」
クレアはまず謝った。
サリーの様子からすると、自分に非があるのは疑いようもない。
「やっぱり覚えていないのか。ああ、ひとまず、座ってくれ」
そう言ってディルは、クレアをエスコートして席に着かせた。
すでにテーブルには、焼きたてのパンや野うさぎのソテーのマスタードソース添え、ハチミツ風味の人参のマリネ、ふわふわのスクランブルエッグ、サラダ、フルーツなどが並べられている。
そこまでお腹が空いていないクレアは、軽いものだけをいただくことにした。
ディルはよほどお腹が空いているのか、思いのほかたくさん食べている気がする。
「それで? 試練はクリアしたとサリーから聞いたけど」
クレアはサラダを口に運びながら、ディルに確認する。
彼は扉の近くに控えるサリーに目配せし、
「ああ、訊いたのか。もしクレアから試練のことを尋ねられたら結果を言ってもいいと伝えてあったからな」
再びクレアに視線を戻すと、
「そうだ、昨日、バトラーの彼女がそう言っていたから間違いないだろう」
「え? 彼女?」
「本人がそう言っていた」
驚いて訊き返したクレアに、ディルはあっさりと答える。
中性的な顔立ちのバトラーだと思っていたが、まさか女性だとは思わなかった。
「そう、全然気づかなかったわ。それにしても男装がよく似合っていたわね」
ディルはナイフとフォークを動かしている手を止め、
「これからは本当に気をつけてくれ。オルディス侯爵からも、酒はできる限り口にするなと言われているだろう?」
五歳も年下のディルに真剣な表情で諭され、クレアは言葉に詰まる。
(お父さまからそう言われていることを、どうしてディルが知っているの……?)
クレアはサリーに目を向ける。
しかしサリーは首を横に振り、自分が漏らしたわけではないと主張している。
(じゃあ、お父さまがディルに言ったのかしら……? もしかして、王城のパーティーなんかで、ディルがわたしをエスコートするから? そういう場ではあまり飲ませ過ぎないように伝えているとか?)
ふう、とクレアは息を吐き出し、
「昨日のわたしはとんでもない失態をしでかしたのね。ええ、わかっているわ、今後はくれぐれも控えるようにするから」
何をしたのか覚えていないものの、周りの反応からも本当に注意したほうがいいだろうと思い、素直に反省する。
「失態というか……、まあ、注意してくれればいいんだ。それにしても、知識に関する問答の次はワインか……」
ディルは考え込む仕草を見せる。
「ええ、まさか試練にワインが出るとは思わなかったわ」
「そうだな、僕も驚いている」
「次は何だと思う?」
考えているが、王太后の考えはまったく読めない。
(ヘテン語とエリシア語、古典文学、古代史、数術などの知識の問答、次いでワインの銘柄当て、ならその次は……?)
試練の内容もそうだが、試練をクリアすることで、クレアも婚約の白紙を望んでいるという意思表示ができ、さらには婚約者側であるクレアにはなんら非はないという証明になるというが、試練の内容との関係性がわかるようでわからない。
「難しいな、でも行動を問われるものがまだないから、そこも気になっている」
ディルはそう言いながら、ナプキンで品よく口元をぬぐう。
「それにメリツァ先生の問答や昨日のワインの試練は、それぞれ提示した人間があらかじめ『試練』と口にしていたけど、そもそもそれすらも提示されない場合もあるかもしれない」
「え?」
クレアは小さく口を開けた。
「ああみえて、お祖母さまは人をからかうのがお好きな方だから」
ディルは呆れたように肩をすくめる。
王太后をあえてお祖母さまと呼んだのは、いまこの場は公の場ではないと示しているようでもあった。
急に家族で囲む朝食のような気持ちになったクレアは、少しどきまぎする。
「問答やワイン以外で、王城にいる間、何か気になることはなかったか?」
ディルに問われて、クレアは、はっとする。
図書館で見つけた謎の紙片のことが頭をよぎった。
(まさか、ね──)
「いいえ、これと言って……、それに滞在させてもらっている棟の外廊下で拾った、あのラースレー領の書類は試練とは関係ないでしょう?」
クレアは首を横に振ってから、ディルに確認する。
「うん、たぶん、あの書類は試練じゃないと思う」
やや歯切れの悪い言い方だったが、クレアは気のせいだろうと思い、
「そう、それで……」
と言いかけ、すぐに唇を閉じた。
ラースレー伯爵のことが気になったが、さすがに進捗状況を訊く立場ではないと思い直す。しかし、
「まだ調査中だ。それにさらに気になることも出てきた。何かあれば教えるよ」
ディルはクレアの気持ちを察して、そう言った。
その気遣いがうれしかった。
クレアは口元をゆるめると、
「ええ、ありがとう」
その後、ひとしきり食事を終えてから、
「ところでクレア、このあとの予定は?」
ディルが紅茶のカップをソーサーに戻しながら尋ねる。
「え? とくにないわ、どうして?」
「それなら、この間言った、庭園の花が見頃を迎えているんだ。せっかくだからいまから見に行かないか?」
ディルは笑みを浮かべて、クレアを誘う。
まるで、婚約破棄などなかったかのようだ。
クレアは一瞬迷いながらも、
「ええ、そうね、じゃあ見に行こうかしら」
その後、庭園に足を踏み入れると、秋バラとダリアがあちこちで咲き誇り、見頃を迎えていた。
赤やピンク、オレンジ色の蔓バラがアーチに沿って花をつけ、美しい景色を彩っている。
甘くかぐわしい香りが漂う中、クレアはディルと肩を並べて歩く。
しばらくすると、大理石でできた大きな噴水がある広場まで来ていた。
「噴水に入る令嬢なんかはじめて見た」
ふいにディルが楽しそうに語る。
クレアがディルと出会った、七年前のあの王妃主催の園遊会のことだとすぐに気づく。
あのときのクレアは、噴水で溺れている灰色の猫のライラを助けるため、噴水に入ってずぶ濡れになっていたのだ。
「そうね、そんな令嬢、わたし以外にそうそうお目にかかることはないでしょうね」
クレアも冗談めかして笑い、
「あのあとに王家からの婚約の話がきたものだから、きっと王太子殿下に暴言を吐いたわたしへのいやがらせかと思ったわ」
「そんなわけ──」
ディルは、勢いよくクレアのほうへ顔を向ける。
「ふふ、そう? でも淑やかな令嬢ではないって、あなたはその目で見てわかっていたはずでしょう? 多少ものめずらしさもあったんじゃない? じゃなきゃ、五つも年上の女性を選ぶなんて、扱いにくいだけでしょう?」
(あれ、わたしなんでこんなこと言ってるのかしら……?)
クレアは、自分の意思とは関係なしに思わず漏れ出た言葉に驚く。そしてなぜか傷ついている自分にも戸惑っていた。
ふと気づくと、隣にディルがいなかった。
「……ディル?」
クレアが振り返ると、ディルは数歩後ろで立ち止まっていた。
その視線は地面に落としたままだ。
しかし、ふっと彼は顔を上げる。
ハチミツ酒を思わせる、黄金色のややくせのある髪の毛が風でふわりと揺れ、その隙間から覗く切なげな深緑色の瞳にクレアは思わずどきりとして、目を奪われる。
「……ない、ぜったいに。めずらしいからとか、扱いにくいとか、そんなこと思ったことなんてない」
突然告げられる真剣みを帯びた言葉に、クレアはなんと返していいのかわからなかった。
とっさに顔を背け、先に歩き出す。
「そ、そう。ならよかった……」
心臓がバクバクと早鐘を打つ。顔が赤くなっている気がした。
(ならよかったって、何よ、その返事……。ど、どうしたの、わたし……)
ここから少しずつクレアの気持ちが変化していきます……!




