10_お酒は控えめに(1)
「それで、殿下はなんと?」
サリーがクレアに尋ねる。
拾ったラースレー領の書類をディルに届けた翌日、朝一番で彼からの手紙と小さな花束がクレアのもとに届いた。
「しばらく会えなくなるかもしれない、何かあればルカスに伝言を、とですって。あと念のため、不自然でないほどにこの棟の警備も増やすそうよ」
「そうですか……」
サリーはどことなく残念そうに眉を落とし、
「いえ、警備を増やしていただけるのは安心なのですが……」
何やら口ごもる。
サリーは、最初からこの婚約破棄に納得していない。ディルの態度も以前と変わらないことも気になっている。
クレアの気持ちを尊重し、幸せを願っているが、このまま状況が進んでいいのかという不安もあるようだ。だからこそクレアとディルの会う機会が増えて、お互い考え直すきっかけになればという思いもあるのかもしれない。
たしかに端から見れば、クレアとディルの関係は何も変わっていないように思えるだろう。
クレア自身でさえ、もうすぐ婚約者から他人に戻るであろういまの自分の立場を錯覚しそうになる。
だからクレアは、あえてサリーに諭すように言った。
「サリー、これはディルから言い出したことよ。そしてわたしも同意している。だからこの試練は必ずクリアしなくてはならないの」
「でも、お嬢さま……」
「それにね、やっぱり王太子妃なんて、わたしには務まらないわ。本ばかり読んでるし、面倒くさがりだし、ドレスだって脱ぎ散らかすし、木にだって登るわ」
サリーは困ったように笑い、
「そうですわね、旦那さまに内緒にするために、何度こっそりドレスを繕ったのか数え切れませんわ」
クレアもふふっと、笑みを返す。
「ええ、そうね。サリーには本当に迷惑ばかりかけているわね。こんなわたしの侍女は大変だろうけど、まだそばにいてちょうだい。無事に試練が終わって屋敷へ帰れたら、たっぷりお休みをあげるから」
「わかりました。でも私から一言だけ。殿下のお気持ちだけは信じてあげてください。きっとそれだけは変わらないと思うんです」
ふいに言われた言葉に、クレアは小首を傾げる。
「……ディルの気持ち?」
そういえば登城する前にもそんなことを言っていたような気がすると、クレアは思った。
サリーの次の言葉を待ったが、彼女は姉のようなあたたかな微笑みを浮かべるだけで、それ以上何も教えてくれそうにはなかった。
***
その日、日も沈みかけてきた夕暮れどき、クレアはある応接間の一室に通されていた。
先日筆記の問答を受けたのはクレアが滞在している棟の応接間だったが、今回は別の棟にある応接間だった。
つい先ほど、クレアを呼びにきたのは、王城滞在中に付けられているメイドのひとりだった。
彼女は、室内にクレアと侍女のサリーを残すと、静かに扉を閉めて出ていった。
「ご足労いただき恐れ入ります、オルディス侯爵令嬢」
恭しく頭を下げたのは、黒い燕尾服を隙なく着こなしている、物腰の柔らかそうな青年だった。
背はクレアよりも少し高いくらい、どこか中性的な甘い顔立ちは多くの女性を虜にしそうな雰囲気さえある。
「次の試練というわけね?」
クレアは青年に尋ねる。
「見たところ、ワインの試飲でもすればいいのかしら?」
青年の後ろ、白いクロスが敷かれたテーブルの上には、ワインらしきボトルがずらりと並んでいるのが見える。
とすれば、青年の年齢は若そうだが、れっきとした王城のワインなどの酒類を管理するバトラーだろう。
「ええ、そのとおりです。ここに銘柄の異なる十本のワインを用意しております。それぞれ試飲して、該当する銘柄を選んでいただきます。銘柄はこちらの紙をご参考に」
青年バトラーは並んだワインを紹介するように、手のひらをすっとかざす。そのあとで、ジャケットの内ポケットから一枚の紙を取り出し、クレアの前にある丸テーブルに置いた。
紙には十本のワインの銘柄が書かれている。ここからそれぞれ試飲するワインに該当する銘柄を選べということだろう。
「なるほど、なかなか難しそうね」
クレアはそう言いながらも、余裕のあるそぶりを見せる。しかし、
「お嬢さま……」
すぐ後ろに控えているサリーは、胸元で両手を握りしめている。
(ええ、そうね、サリー。ちょっとこれは、大丈夫かしら……)
クレアは心の中でつぶやいた。
「では、はじめたいと思います」
バトラーはおもむろに、左端の一本のボトルを手にするとコルクを手際よく抜く。
テイスティング用のワイングラスに注ぎ、色味を見てから、グラスを軽く回して空気に触れさせ、一口含み、香りと味を入念に確認する。
しばらくしたのち、納得できたのか、磨き上げられた別のワイングラスに注ぎ入れ、クレアが立っている前にある丸テーブルにすっと置いた。
「ありがとう」
クレアは優雅な微笑みを浮かべ、パーティーの合間でお酒を楽しむかのように、淑やかなしぐさでグラスを手に取る。
目線と同じ高さに掲げると、色味をたしかめる。
(濃いめの紫がかったルビー色……、でも……)
クレアは室内を横目で見回す。
夕暮れどきということもあり、室内にはすでにロウソクが灯されている。
(これは、厳しいわね……)
ロウソクの淡い光の前では、それぞれのワインのわずかな色味の違いを見極めるのは難しそうだった。
次にグラスを軽く回し、鼻先を近づけて香りを確認する。
(チェリーのような果実味、あとはスミレや杉かしら? 植物を思わせる香り、それにスパイスの風味もかすかにあるような……)
そっと唇を寄せ、ワインを一口含む。
(あら、おいしい)
思わず、本音が漏れる。
(あ、それどころじゃないわね。ええっと、しっかりとした酸味と渋味を感じるわ……。渋味は少し粗くて、わずかに後口に残る印象があるわね……)
銘柄が書かれた紙を手に取り、上からじっくりと眺める。
(飲んだのは赤ワインだから、白ワインやシャンパーニュの銘柄は除けばいい。とすると、七本に絞れるわ……)
丸テーブルの上に置かれた羽ペンを手に取り、七本の中から、候補にあがる銘柄に印をつける。
(あとは二本目以降を飲んでから、さらに絞り込めばいい。それにしても、かなり上等なワインを用意したのね)
「では、次をご用意してもよろしいですか?」
バトラーが尋ねる。
クレアは残っていたグラスの中身を飲み干す。
空になったグラスをテーブルに置き、
「ええ、どうぞ」
ほんのり色づいた頬に笑みを浮かべて答えた。
しかしそんなクレアをよそに、彼女の後ろにいる侍女のサリーは、内心ハラハラしていた。
(お嬢さま、一口、せめて一口に留めてくださいませ。ああ! そんなにすべて飲み干しては! どうしたらいいの、こんな試練があるなんて……)
サリーは、見目麗しい青年バトラーにちらりと視線を向ける。
(ああ、本当に、まずいことになったわ……)
サリーが心配するのも当然のことだった。
なぜなら、クレアは父であるオルディス侯爵から『できる限り酒は口にするな』と言われている身なのだ。
しかしなぜだめなのか、当のクレアは知らない。
侯爵をはじめ、サリー、そのほか屋敷の使用人はみな口を閉ざしているからだ。
(こんなことなら、お嬢さまに打ち明けておけばよかったんだわ! このままではあのときのように、ああ、私はどうしたら……)
最悪の事態を想像しているサリーは、気づくと祈るように胸の前で両手を組み合わせていた。
その間にも、クレアは次々とワインを飲み干していく。
クレアの頬と首元が紅潮し、いっそ艶かしいほどだ。ロウソクの淡い光の中でも、色白のクレアなだけに、肌の赤みがより一層映える。
八本目を飲み終わったところで、
「ちなみにオルディス侯爵令嬢は、ワインにお詳しいのですか?」
バトラーが興味を引かれるように、クレアに尋ねた。
クレアの手元の紙には、銘柄をある程度絞り込んでいる様子がうかがえるからだろう。
クレアは、ややにじむ瞳で彼を見返し、
「どうでしょうか、でも我がオルディス領の北部ではワイン造りが盛んですので、味に疎いようでは、良し悪しは判断できませんわね」
挑戦する含みをもたせる。
おや、と眉を軽く上げたバトラーは、
「では、ご令嬢もワインの品質管理に携わっておられる?」
「ええ、もちろんですわ。大事な産業ですもの」
「なるほど」
彼はますますクレアに興味を引かれたようだ。
見守っていたサリーは、たまらず声を上げる。
「お、お、お嬢さま! あまり飲み過ぎるとお体に障りますわ、ほどほどに! ほどほどになさってください!」
クレアは、サリーのほうを振り返ると、
「そんなに飲んでないわ、大丈夫よ」
あっけらかんと答える。
しかしあきらかに酔っ払ってきているであろうことは、ややふらついている足元が証明している。
「では、残り二本となりましたので、最後は一緒にご確認ください」
バトラーはそう言うと、残った二本の中身を、それぞれのワイングラスに注ぎ入れた。
ひとつは赤ワイン、ひとつは白ワイン。
クレアの手元の紙には、まだ選ばれていない赤と白の銘柄がそれぞれひとつずつ残っている。つまりもう答えは出ているも同然だった。
その紙に視線を向けたあとで、バトラーは、
「念のため、どうぞ」
と付け加える。
クレアは手元の紙と注がれたワインを見比べる。
(すでに選んだ八本に間違いがなければ、残った赤ワインと白ワインの銘柄を当てはめるだけ……)
ちらりとバトラーの顔を確認する。
優秀な使用人らしく、一分の隙もない朗らかな笑みを見せている。
「そうね、ではいただくわ」
クレアは白いワインに手を伸ばす。
透き通った色と芳醇な香りを確認し、口に含む。
残された白ワインの銘柄に合致する香りと味に間違いなさそうだった。
そして最後の一本である、赤ワインに口をつける。
「……」
かすかに違和感があった。
もう一口含む。
クレアはじっとグラスを見つめる。
しばしののち、バトラーは、
「では、こちらが最後の答えでよろしいですか?」
そう言って、クレアの手元の紙の中でまだ選ばれていない赤ワインの銘柄『ル・ヴィニヨン』を指差す。
クレアは、その銘柄をじっと注視する。
しばらくして、ふっと口元をゆるめ、
「いいえ、わたしが最後に口にした赤ワインは、『ル・ヴィニヨン』ではありません。それどころか、この紙に書かれているどの銘柄でもありません」
ややろれつの回っていないしゃべり方にはなったが、はっきりとクレアは言った。
「なぜ、そう思われるのでしょうか? ご令嬢がすでに選ばれたものに間違いがなければ、残っている赤ワインの銘柄は『ル・ヴィニヨン』こちらしかないのでは?」
バトラーは笑みを見せているが、瞳の奥からは鋭い視線をクレアに向けている。
「いいえ」
クレアはきっぱりと否定した。
「最後の赤ワインは、紙には書かれていない『カペルネ・ル・ヴィニヨン』ですわ」
(色や香り、味わいは、たしかに紙に書かれた『ル・ヴィニヨン』に合致するものだった。でも……)
ワイングラスを傾け、残っている赤い液体を味わうように飲み干す。
そして確信する。
「後口に、わずかに熟したイチヂクとハチミツのような味を感じます。ならば『ル・ヴィニヨン』ではなく、『カペルネ・ル・ヴィニヨン』しかあり得ません」
挑戦状を叩きつけるように、クレアは高らかに言い放った。
(試練がはじまる前、彼は『銘柄はこちらの紙をご参考に』と言っていたわ。つまり、該当する銘柄が必ずしも紙に書かれてあるとは明言していない──)
しかしクレアの酔いは、すでに限界に達していたようだった。
意識が朦朧としはじめ、目の前にいるバトラーの姿が、昔大事にしていたクマのぬいぐるみに見えてきていた。
ゆらり、とクレアは足を踏み出す。
しかしおぼつかない足元は容易にバランスを崩してしまう。
すぐさまバトラーがクレアの体を支える。
クレアはふわふわとした気分で、クマのぬいぐるみを抱きかかえようと、彼の背中に両手を回した。
──そのとき。
勢いよく扉が開いた。
「離れろ! 僕の婚約者だ!」
(……ディル?)
クレアは残された意識の隙間で、ディルの声を聞いた気がした。
しかしそれもすぐに消え失せ、体から力が抜け落ちる感覚に身を沈めたのだった。
次話は、ディル視点でこの話の続きになります。
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※ストーリーの都合上、飲酒描写を入れていますが、過度な飲酒を推奨しているわけではありません。




