09_ラースレーの書類
試練と思われるメリツァの問答から数日後、クレアは自身にあてがわれている客人滞在用も兼ねている棟の外廊下を歩いていた。
後ろには侍女のサリーがついてきている。
あれから試練らしい試練はクレアの身に起こっていない。
次なる試練の準備中なのか、はたまた不意打ちを狙うための空白期間なのか、クレアにはわからない。
王城にいる間は可能な限り、図書館に通い詰めたいが、あの謎の紙片のことを思い出すと、いまだになんとなく足が向かなかった。
そして図書館通いを控えてしまうと、部屋で一日中じっとしているのにも飽きてしまい、こうしてどこへ向かうわけでもなく、ここ数日はぶらぶらと棟の敷地内を歩いている。
(この間貸出しさせてもらった三冊はとっくに読み終えてしまったし、何なら三巡しているくらいだし。まあ、でも読み返すことで、それはそれで新たな解釈なんかを発見できて悪くはないのだけれど……)
でも次に読みたい人もいるだろうから、さすがにそろそろ返却しなければならない。貴重な本だから自分の手できちんと返却したいし、図書館に行くなら新しい本も借りたい。そしてやっぱりできることなら、本に囲まれた図書館でずっと本を読んでいたい。
逡巡する思いで、クレアは悩んでいた。
「あ、クレアお嬢さま、足音が聞こえますわ」
サリーの声に、クレアははっと意識を戻す。
急いであたりを見回す。
「あの茂みに隠れましょう」
サリーに目配せし、外廊下を離れ、向こう側の草木が生い茂るほうへと逃げ込む。
クレアの王城滞在は公にはふせられているため、図書館など開かれている場ならともかく、客人用のこの棟で姿を見られるのはなるべく避けたほうがいいだろう。どんな噂を立てられるか分かったものではない。
この棟がある敷地内には足を踏み入れられる人間は限られているはずだが、それでも万が一ということもある。そのため、こうして人の足音を聞きつけ次第、すぐに物陰に隠れるようにしていた。
しばらくすると何やら急ぐような足音がバタバタと近づき、そして向こう側へと遠ざかっていく。
「……いまのは事務官の方でしょうか」
足音が聞こえなくなってから、クレアの隣で息を潜めていたサリーが口を開いた。
草木の合間から見えたのは、濃い灰色の事務官らしき制服を身につけた若い男性だった。
「ええ、そうでしょうね。公にはこの棟に滞在している客人はいないことになっているから、近道に通り抜けしたんじゃないかしら」
立ち上がり、服についた木の葉を手で払いながらクレアは言った。
「それにしてもずいぶん急いでおりましたわ、遅刻でもしそうだったんでしょうか」
男性が消えた方向に目を向けながら、サリーが漏らす。
サリーはいたって真面目に口にしたのだが、冗談だと思ったクレアは、ふっと笑みをこぼし、
「そうかもね」
と言いかけて、
「あら──」
視界に映ったものがあった。
先ほど男性が通り過ぎたあたりに何か落ちていた。
駆け寄って拾い上げると、それは一枚の書類だった。
一瞬、躊躇したものの、容易に持ち運びするくらいだから目にしただけで咎められるような機密文書というわけではないだろうと思い直し、さっと目を走らせる。
「さっきの方の落としものでしょうか?」
クレアのもとへ追いついたサリーが横から覗き込む。だが、すぐに困り果てたように首を横に振り、
「ほぼ数字の羅列ばかりですわ。これでは届けようにも、どこの事務官の方かわかりませんね……」
「財務省工部よ」
首を傾げるサリーに向かって、クレアは言った。
「ほら、治水工事に関する支出を計算してるもの」
ほっそりとした指先で該当の数字を指し示す。
「えっ⁉︎ ええっと、お嬢さま、すみません、財務省? 工部? とは、なんのことでしょうか?」
サリーは聞きなれない言葉を耳にした上、クレアがすぐさま落とした人物を特定することを口にするものだから、わけがわからず訊き返す。
「国の財政を司るのが財務省、その中でも城壁や道、橋、港などをおもに管轄しているのが工部よ。きっと先月起きたラースレー地域の洪水の件で、ラースレー領が復興と今後の対策のための治水工事の支援を要請している書類じゃないかしら。最近、洪水被害が起きた地域は、ラースレー領だけもの」
サリーは、クレアが持つ書類を真剣に読み込むが、ややあって諦めたように、
「……お嬢さまは、これだけの情報でそこまで読み解けてしまうんですね」
とひとり感嘆のため息を吐き出す。
しかし書類に注視していたクレアにはその声は聞こえなかった。
「でも、おかしいわね……」
クレアは、サリーに言うでもなくつぶやくと、視線を忙しなく左右に動かしたあと、眉間に小さなしわを寄せる。
「何がでしょう?」
サリーが問いかける。
クレアは顔を上げ、ある一点を指差す。
「ほらここ、『ボルニ』と書いてある。ラースレー領の一部、ボルニ村のことだと思うわ。でもおかしいのよね、今回の洪水はラースレー領のかなりの広範囲に被害をもたらしたけれど、ボルニ村は地理的に近くに大きな河川はない高台で、幸いにも被害がなかったはずだから、今後も治水工事をする必要はないわ。なのに支援を要請するなんて……」
サリーにそう答えながらもクレアは、
(やっぱりおかしいわ。領地を治めるラースレー伯爵は昔から勤勉実直で知られているお方、被害もないのに復興支援と、さらに治水工事とは名ばかりの不要な工事の支援を王家に求めたりするかしら……?)
しばらく考え込んだあと、クレアははっと弾かれるように、
「ディルのところへ行くわ、いますぐに──」
その後、先触れを出さずディルの執務室を訪ねたクレアだったが、ディルはすぐに迎え入れてくれた。
クレアは入室するなり、先ほど拾った書類をディルにかかげて見せる。
部屋の中にはルカスもおり、彼もまた書類を覗き込む。
「これなんだけれど──」
そう言って、クレアはまずは書類を拾った経緯と落とした人の目星だけを簡単に説明する。
聞き終わったあと、ディルは真剣な表情で、
「……落としたのは、財務省工部の事務官?」
「絶対じゃないけど、事務官の濃い灰色の制服を着ていて、落とした書類の内容がこれだったから、財務省工部の方じゃないかって思ったの」
クレアは前置きした上で答える。
「そうか……」
ディルは腕を組んで考え込み、ふっと視線を上げると、クレアが持っている書類のある一点を指差し、
「この書類、洪水被害があった地域なら当然だが、ここに記載があるボルニ村に治水工事は不要だ。むしろ今年は夏の日照りのせいで作物の大部分がやられて、じきに来る冬の蓄えが乏しいと聞く。支援を要請すべきはそちらのほうだろう」
「そう! それなのよ!」
クレアも的を射たとばかりに大きく頷く。
ディルはクレアの視線を受け止め、
「それでクレアは、これは単なるミスなんかじゃないかもと思って、僕に届けたのか?」
クレアはわずかに躊躇しながらも、
「ええ、考えすぎかもしれないけど、この機会に乗じて、わざと虚偽の内容で支援を申請しようとしているのかも……。食糧支援よりも治水工事のほうがよほど大きな支援になるもの。
でもだったらなおさら、ラースレー伯爵ではないと思うの、いえ、わたしがそう思いたいだけなのかもしれないのだけれど……。それに書類がどこかで差し替えられた可能性もあるかもしれないし……。
いずれにせよ、この書類に付随する、ラースレー伯爵のサインが入ったほかの書類も確認したほうがいいわ」
聞き終えたディルは、真剣な表情で頷き、
「たしかに、僕の知るラースレー伯爵も虚偽をするような方ではないし、かといってミスに気づかず申請するとも考えにくい……。万が一、書類が差し替えられていたとするなら、王城内の可能性も否定できないな……」
そこで言葉を区切り、険しい表情を見せたあと、すっとクレアの手から書類を抜き取った。
「すぐに調査する。ただし──」
「ええ、だから」
ディルが言いかけた言葉をあえて遮るように、クレアは言った。
そしてディルの背後に控える、彼の侍従のルカスにすっと目を向け、
「ルカス、書類はあなたが拾ったことにしてくれる? そして不審なところに気づいて、ディルに届けた。それでどうかしら?」
そもそもクレアは王城にはいるはずのない人間だ。だからこそ文書を拾ったのがクレアだと知られるのは、あまりよろしくないはず。だからといってメイドや使用人が拾って届けたとするのも、書類に目を通したことになるので支障がある。ならばもっとも妥当なのはこの案だろう。
そしてきっとディルも、クレアにそう言おうとしていた。
クレアと視線を交わしたディルは、
「ああ、そうだな、この件はこちらに任せてくれ」
同意を示すように答え、ルカスに目配せする。
「では、わたしはこれで……。お忙しい中、突然の訪問、大変失礼いたしました」
クレアは気持ちを切り替えるようにそう言うと、サリーを促し、部屋をあとにした。
廊下を歩きながら、クレアはどことなく疎外感を覚えていた。
同時に、先ほど目にしたディルの表情がやけにまぶたにちらつく。
クレアが拾った書類を見せた瞬間、ディルの表情ははっとするほど真剣みを帯びた。
(そういえば、ディルが執務室で仕事をしている姿なんて、ほとんど見る機会がなかったものね……。いつもお茶会とか散歩とかパーティーだったから……。だからちょっと驚いたのよ、あんな真剣な表情、あまり見たことなかったから)
あらためてディルの覚悟と真剣さを目の当たりにし、クレアはかすかに動揺していた。
ディルは必死で国を背負うべき人間になろうとしている。それは昔から変わらない。
わかっているつもりだったが、本当のところでは理解していなかったのかもしれないと、クレアは思い知らされた気分だった。
その一方で、自分はその立場から離れようとしている。
そのことが妙に胸をざわつかせる。
(ラースレー伯爵のことは気になるけれど……、政務にかかわっているわけでもないわたしが中途半端に首を突っ込めることじゃないもの……)
クレアはひとり納得しようとしていた。
***
クレアを引き止めたい気持ちを抑え、ディルは彼女が去ったあと、ルカスにすぐさま鋭い視線を向ける。
「念のため、クレアがいる棟の見張りを増やしておいてくれ、くれぐれも滞在している人間がいると気づかれない程度に。それとあの棟は、客人がいなくてもそもそも通り抜けは禁止のはずだ。管理をもっと徹底させてくれ」
「承知いたしました」
ルカスはきびすを返し、執務室を出て行く。
ディルは、執務室の机の上にクレアの手から抜き取った書類を置くと、どさりと椅子に腰かけた。
(クレアのことだから、ラースレー伯爵のことが気になるからぜったい自分も調査に加わると言い出すと思ったけど……、あっさり引き下がってくれてよかった……)
ディルは胸をなで下ろす。
現国王のもとで治世は安定しているが、過去の歴史を振り返れば、何が足を引っ張るかわからない。本当にあの書類が不正を示していた場合、見つけたクレアを逆恨みする輩ではないとは言い切れない。万が一クレアに危険がおよぶことがあってはならない。だからこれ以上かかわらせないほうがいい。
それでも納得してもらえず、クレアの機嫌を損ねることにでもなれば、ディルは困り果てていただろう。
(仲を深めるどころか、溝ができることはなんとしても避けなければ──)
そして視線を問題の書類に向ける。
(これは試練とは無関係だと思いたいが……。それにしても、いまか……)
自分のタイミングの悪さに運命を呪いたくなる。
ますますクレアとの時間を確保するのは難しくなりそうだった。
「はあ……」
ディルは深いため息を吐いた。




