08_知識の問答
「ふう……」
クレアはため息を漏らした。
あてがわれた部屋の中、窓際の席に腰かけ、外の景色にぼんやりと目を向けている。
「ため息なんて、本当にどうされたんですか?」
サリーは、いつにないクレアの様子に目を留め、不安げに尋ねる。
寝食を忘れるほど本に夢中になることもあるクレアが、あれほどよろこんで通い詰めていた図書館行きをなぜか今朝は控えている。それだけでなく、ため息まで漏らしているのだ。
幼い頃からクレアに接しているサリーにしてみれば、問いたくなるのも当然だった。
クレアはちらりとサリーに目を向け、
「本は貸出しさせてもらえるから、部屋でちょっと集中して読みたいだけよ」
「そうですか……」
それにしてはあまり手元の本を見ていないような、とサリーはどこか腑に落ちないながらも、ひとまず頷く。
本当はクレアだって、王城に滞在しているこの機会を無駄にしたくない。暇さえあれば図書館に通いたいと思っている。
しかしまた昨日のように、本に謎の紙片が挟まっていたらと思うと、今朝はどうしても向かう気にならなかった。
誰が仕掛けたのかはわからないが、謎解きを楽しむのはいい。でも知るべきではない謎まで解き明かすことになるなら話は別だ。
(……まさかあれが王太后さまからの試練だなんてこと、ないわよね)
クレアは眉間にしわを寄せる。
そもそもクレアが王城に滞在しているのは試練をクリアするためだ。
(それらしいものがないから油断してしまっていたわ、気を引きしめないと……)
謎の紙片を見つけたことは、ディルにはまだ伝えていない。
気まずいままになっているというのもあるが、ディルに言えば、クレアと同じく、その先をたどろうとするだろう。そしてそれが何を意味するか、彼自身が知っているならいい。でももしもまだ知らないなら……。
(ディルが知っているかどうかわからない以上、わたしから伝えるべきではないわ……)
そもそも王立図書館の書物に紙片を挟み、なおかつその紙片に古語とエルペリエ語で文字を残すなど、誰にでもできることではない。
とはいえ、あれが試練だったとしても、どうしてあのような試練を出したのか意図がわからない。
(謎解きに見せかけて知識を問う、というのなら理解できるわ。古語は現在では日常的に使うことはほぼないけれど、王族ならば、古語で祈りを捧げる儀式が年に数回あるもの。だからわたしが受けた王太子妃教育の中にも、基礎的な読み書きの習得も組み込まれていたわ)
クレアは、王太子妃教育の一環として受けた古語の授業を思い出す。
儀式で使う文言を中心に教わったが、もっと知りたくなったクレアは、教師に頼み込んでそれ以外にもいろいろと教えてもらった覚えがある。その後、完全に習得してからは、過去の史実なども読み漁った。
(でも二枚目の紙片に使われていたエルペリエ語は……? 王太子妃教育の中にエルペリエ語の授業は含まれていなかったわ。それともいずれおこなわれる予定だったのかしら……?)
そこまで考えて、クレアは首を横に振る。
(いいえ、それはないわね。そもそもエルペリエ国は海を越えた先にある小国で、我がサザラテラとは長年国交がないだけでなく、エルペリエ自体、何十年も昔に周辺諸国との国交すらほとんど断絶してしまった国だもの。
サザラテラの国益を考えるなら、国交の可能性がない国よりも、すでに国交がある重要な国の言語を習得するほうが優先順位は高いはず。そもそもわたしだってエルペリエ語を学びはじめたのは最近で、それも翻訳された小説が面白くて、原書でも読みたくなったからだし……)
クレアは頭を悩ませる。
(試練の具体的な内容がわからないのがこんなにも厄介だなんて……。いったい王太后さまはどんな試練をお出しになろうとしていらっしゃるのかしら……)
そのとき、コンコンと扉を叩く音がした。
すぐさま反応したサリーが扉を開ける。
扉の向こうに立っていたのは、眼鏡をかけた身なりのよい中年男性だった。
彼は対応したサリーに小声で何事か伝える。
サリーはいささか困惑気味で振り返り、クレアのもとに駆け寄ると、
「お嬢さま、試練の件で、これから案内するお部屋へお越しくださいとのご伝言が……。でも今日は昼食を殿下とご一緒するお約束も……」
クレアは、ちらりと来訪者に目を向けたあとで、
「わかりました、すぐにいきます」
そう言って、立ち上がる。
「ひとまず試練が優先よ。まずは話を聞きましょう」
サリーの肩を軽く叩く。
そしてそのままサリーとともに、男性のあとに続く。
クレアはじっとその男性の後ろ姿を注視する。
紳士だが、身なりは貴族ほど華美ではない。先ほど部屋から出る際にすれ違った一瞬、眼鏡から覗く紳士の瞳の奥には、深い知性を感じさせるものがあり、どこか学者風にも思えた。
しばらく歩いたのちに通されたのは、クレアが滞在している部屋の下の階にある、とある応接間だった。
中に入ると、応接間にあるはずのテーブルやソファーはなく、代わりに執務室のような机と椅子が、広い部屋の中央に小島のようにぽつんと配置されていた。あきらかに部屋の動線を遮る配置に見えるが、とすれば、それを承知であえてそうしたのだろう。
「恐れ入りますが、侍女の方はこちらでご待機ください」
男性は手のひらを見せ、扉に近い壁際に配置された椅子に侍女のサリーを促す。
サリーは、クレアが頷くのを確認し、そのとおりに従う。
続いて男性は、
「オルディス侯爵令嬢はあちらにおかけください」
と言って、部屋の中央にある机へとクレアを誘導し、椅子を引いて座らせた。
クレアは冷静に観察する。
男性は名乗らなかったが、クレアの素性を知っている。『試練の件で』と前置きするくらいだ、当然といえば当然だろう。
クレアはさっと机の上にも目を走らせる。
羽ペンとインク壺、銀製の懐中時計があった。
「それでは、こちらを」
そう言って男性が机の上に置いたのは、数枚の紙だった。
「書かれてある問いにお答えください」
そこでクレアは横に立つ男性を見上げる。
「解答を書けばよろしいのですね?」
「ええ、さようです。時間は正午までとさせていただきます」
男性は言葉少なめに頷くと、クレアから距離を置き、サリーと同じように扉のそばにある椅子に座って控える構えを見せる。しかし視線は監視するように、部屋の中央にいるクレアに注がれている。
(せめてもう少し説明がほしいところだけれど、正午まで、ということは、ディルとの昼食には間に合うかしら……)
クレアは机の上に置かれている懐中時計をあらためて確認する。ふたはすでに開いており、いまの時間を指し示している。
(質問しても、その分時間を取られるだけね)
ふう、と息を吐き出すと、手元の紙に視線を落とす。
ヘテン語、エリシア語、古典文学、古代史、数術、それぞれについての問いがいくつも提示されている。
クレアはしばらく全体を眺めたあと、羽ペンに手を伸ばし、ペン先をインク壺につけ、質問に対する解答を書き記しはじめた。
懐中時計の針が正午を告げるよりも早く、クレアは羽ペンを置いた。
それを合図に、それまで微動だにしなかった男性が静かに立ち上がり、クレアに近づく。
クレアは、まとめた紙を男性に差し出しながら、
「これでよろしいでしょうか、メリツァ先生」
男性は、わずかに目を見開き、
「──お気づきでしたか」
クレアは微笑みを浮かべて答える。
部屋に呼びにきたときから、クレアはこの男性が何者か気になっていた。
そして解答を書くようにと告げられた紙を見て、確信に変わった。
「ええ、お会いするのははじめてですが、お噂は王太子殿下よりかねがね」
「それは光栄ですな。どんな噂か気になるところではありますが、授業の際は問いが解けるまで殿下を椅子に縛りつけているなど、おっしゃられていないことを祈るのみです」
メリツァは先ほどまでの硬い表情から一転、冗談まじりで笑みを見せる。おそらくこちらが素なのだろう。
「ええ、チェスでは子ども相手にも容赦ないということも、わたしは耳にしておりませんわ」
クレアは、ふふっと微笑む。
メリツァは、ディルの専属の教育係だ。
名前は知っていたが、クレアがメリツァと会うのは今日がはじめてだ。
彼は他国の出身だが、たまたまサザラテラ王国へ研究に来ていたところ、深い見識と知性を見込まれ、ディルの教育係のひとりとして抜擢されたと聞いている。
研究であちこちの国をわたり歩いている中で物盗りに遭い、けがをして以来、左足がわずかに不自由になったという。しかし注視していないとわからないほどで、現にクレアも、もしやと思い、意識を向けていたから気づけたようなものだ。
「では解答を確認させていただきます」
メリツァはジャケットの内ポケットから取り出した紙と、クレアが解答したものと答え合わせをはじめる。
しばらくして、
「……さすがと申しましょう。ではこちらを解答として預からせていただきます」
そう言って、クレアの背後に回り、椅子を引くそぶりを見せる。
(これ以上の結果は教えてもらえないというわけね)
「お時間いただき、ありがとうございます、先生」
クレアは立ち上がり、応接間をあとにした。
部屋に戻ると、サリーが、
「クレアお嬢さま、あれが試練なのでしょうか?」
首をひねりながらクレアに尋ねる。ずっと気になっていたのだろう。
「そうね、おそらく」
確認はもてないものの、クレアはひとまず頷いた。
「では、『さすが』とおっしゃってましたから、結果はクリアということなんでしょうか?」
「どういう基準がクリアに当てはまるのかがわからないけれど、メリツァ先生からいただいたお言葉をそのまま受け取るなら、ひとまずそう思っていいんじゃないかしら」
そう言いながら、クレアは考える。
(試練はいくつかあるということだから、残りの試練もさっきみたいな筆記のものになるのかしら……? それなら助かるけれど……)
***
「メリツァ先生が?」
昼食の席、クレアから試練らしきものをつい先ほど受けたと聞いたディルは、驚いて訊き返した。
(まさかクレアが試練を受けていたとは……)
ディルは、昨日のクレアへの態度を散々後悔しながら、なんとか今日のこの昼食の時間を確保するために昨日から今朝まで執務をこなしていたのだが、その間にすでに事態が動いているとは思いもよらなかった。
ディルの言葉に頷いたクレアは、カップをソーサーに戻し、
「ええ、ヘテン語とエリシア語、古典文学、古代史、数術についての解答を求められたわ」
と答える。
その様子から、昨日のことは気にしていないように見え、ディルはひとまずほっと胸をなで下ろす。
「それは、また……」
ディルは言葉を区切る。
いくら王太子妃教育でクレアがほかの令嬢よりも高い教育を受けているとはいえ、ヘテン語とエリシア語、古典文学、古代史ならまだしも、数術はそもそも教育に含まれていないはずだ。クレアだからこそ答えられたようなものだ。
(しかしメリツァ先生まで動かすとは……)
思ってもみなかった展開に、ディルは驚いていた。
その表情を読み取ったクレアが、
「やっぱりディルも、メリツァ先生が絡んでいることを知らなかったのね?」
「ああ、一昨日お会いしたが、そんなことは一言も……。それで、結果は?」
自分の教師であるメリツァが絡んでいたことも十分気になるが、それよりもついに試練がはじまったことのほうが重大だった。ディルは緊張を押し隠して尋ねる。
クレアは一瞬、考えるそぶりを見せたが、
「はっきりとはおっしゃられなかったけれど、ええ、おそらく悪くはなかったんじゃないかしら」
「そうか」
ディルは安堵の息を漏らす。
やや首を傾げたクレアは、
「でもこのあとの試練も同じような筆記のものになるのかしら、どう思う?」
「そうだな、でも『試練が知識や行動を問うもの』ということだから、やはり筆記以外にもありそうだな」
「やっぱりそうよね。じゃあ、行動、つまり立ち振る舞いとかなのかしら?」
「それもあり得るが、クレアの振る舞いが完璧なのは王太后陛下もご存じだ。あえて試練にするとは考えにくいが……」
とディルは言いかけたが、はたと思考を止める。
(ああ、だめだ。これじゃあ、いつもと変わらない。試練ももちろん大事だが、クレアに意識してもらうためにはもっと違う話題にしないと、それでなくても昨日はクレアに八つ当たりしてしまったんだから……)
『もしわたしが試練をクリアできないんじゃないかとか、途中で辞退してしまうとかを心配して気を遣ってくれているなら、そんなことをしなくてもいいのよ。約束したとおり、きちんとクリアできるように全力で頑張るから』
昨日のクレアの言葉がよみがえる。
『わたしは自分のためでもあるんだし』
そのとおりだ。この試練は長年ずっと婚約の解消を望んでいたクレアにとって、どうしても叶えたいものだろう。
でもディルは、そんなクレアに嘘をついて、婚約継続のために試練を受けさせている。
(僕がクレアにやさしくするのも、試練のためだと思っている……。でも、それも仕方ないのか……、婚約破棄なんて言葉を持ち出したのは僕なんだから……)
それでも、自分がクレアのためにする行動すべてが試練のためだと思われているのが、無性に腹が立った。自分勝手もいいところだ。抑えなければいけないと思えば思うほど、自分の感情が制御できず、声を荒げてしまった後悔に苛まれる。
だからこそ自戒するように、ディルは心を強く保とうと意識する。
そしてひとまず話題を変えるように、
「このあとも図書館に行くのか?」
すると一瞬間があったように感じた。それはクレアをずっと見てきたディルだからこそわかる、ささいな違和感だった。
しかしクレアはすぐに、
「そうね、でも本は貸出しさせてもらえたから、今日は部屋でゆっくり読むのもいいかしらって思っているわ」
にこやかに答える。
「そうか、気になった本があればほかにも貸出しするといい。あ、それと、庭園のバラとダリアが数日後には見頃を迎えるらしい。そうしたら散歩にでも行かないか? 花を見るのは昔から好きだろ?」
気になったものの、ディルはそのままクレアとの仲をできるだけ深めるべく、次の話題を振ったのだった。




