2話 ほんのわずかな現実逃避
「すずき?」
賢護たちが去り、俺の名を呼ぶ逢世の顔をボーっと見る。
俺を置き去りにしていった仲間たちとは、後でクラン・クランの中で合流できるわけだから、良しとしよう。現実でもカラオケに行って打ち上げに参加もするわけだしな。
「すずき~?」
それにしても、と思う。
この逢世という美少女とは、クラン・クランで一緒に冒険してきた仲ではあるが、他の3人同様に現実で関わることはクラスが違うこともあってあまりなかった。
「すずきぃ~」
それが、ここ数日前から態度が激変して、なぜかゲーム内でも学校でも積極的に関わってくるようになったのだ。
俺に。
だからなのか、野球部の前田は俺に対して高圧的に絡んでくるようになったのだ。
きっと、この事が気に入らないのだろう。
若いっていいね、青春だね。
「すぴすぴ」
そんな物想いにふけっていると、突然耳元から鼻息が大音量で聞こえた。
見れば、逢世が背後から、匂いを嗅ぐ動物のように俺の耳へと鼻を近づけていた。
「うひゃおあお!?」
光と同じような台詞で叫び、驚き飛びずさった俺だが、逢世は両肩をガッツリと掴んできて、再び鼻息荒く俺の耳へと「スピスピッ」といった、なんとも言えないメロディを奏で始める。
さらに、たまに「ズルッ」と言った、鼻水をすする音が聞こえる。
「おい……逢世。風邪気味なのか?」
つっこむところはソコじゃない、とわかっていてもハッキリとは言えなかった。
どうして人の耳の匂いを急に嗅ぐ奇行に走ったのか。疑問は尽きないけども、とりあえず彼女は鼻風邪のようだった。
「すずきのにおい」
俺の質問に逢世は答えになってない返事をくりだした。
逢世優希という美少女の奇行に、どうして凡人であるこの俺が、ここまで冷静に思考できているかと言えば、それはこういった絡みが初めてではないからだ。
先も言った通り、数日前から彼女の行動はおかしい。
だからなのかもしれないが、先ほどの3人は早々に撤退したに違いない。その奇行が俺一人に向けられるのであれば、我関せずといった風情で。
「ねね、耳のにおいかいで~」
ぽやっとした口調で変な要求をしてくる彼女からスパっと距離を取る。
「できるわけないな……」
「うくぅ~」
逢世優希は日頃からボーっとしてるというか、人付き合いを得意としない性格と認識されているらしい。たまに妙な発言をすると噂されたりもしているが詳しくはわからない。というのも、あまりクラスメイトとは喋らないようで、たまに言葉を発したとしても一言、二言、なんてことも日常茶飯事だそうだ。
おかげで、学校での友達はゼロに等しい。
そんな彼女だが、見た目だけは一級品ということで男子からはそれなりの人気を集めている。
一部、女子の間ではやっかみも含め、『なに天然ぶってるの』『ぶりっことかキモい』『頭の弱い子だよね~』などなど『逢世は頭にいくはずの栄養が胸にでもいっちゃったんじゃない?』と、悪口を囁く子たちもいるらしい。まぁ確かに、逢世が巨乳な部類であることは否定しないが。
「すこし、すずきと行きたいところある」
そんな逢世が、どうして急に俺にこんな態度を取るようになったかはわからない。だけど美少女にこんなに親しく接してもらえて、気分が悪いと感じる男子はいないだろう。
ご多分に漏れず、俺も同様だ。
「うーん。でも俺達はこれから最期の、クラン・クランを楽しむんだよ?」
最期という部分に力を入れて、彼女を説得にかかる。
「クラン・クランはどこでもインできる~」
まぁ、確かに逢世の言う通り、クラン・クランは専用端末であるコンタクトレンズ、イヤフォン、スマホがあればどこからでもゲームの世界にログインし、自分の分身体となるキャラクターを操作してプレイする事ができる。
「まぁ」
少しぐらいなら、いいかなと頷こうとすれば。
「じゃあ、いくですよ」
急に中途半端な敬語口調に変えた逢世が、ギュッと俺の手を握り駆け出した。
「お、おいっ。こんな急に走ったりしたら、足がつるかもッ」
逢世に手を引かれた俺は、教室を飛び出して廊下を走る。彼女の柔らかい手から伝わる温かさが、照れを生じさせ少しだけ鼓動が速くなる。
誰かに見られてないよな?
恥ずかしさと、クラン・クランが今日で終わってしまうという悲しみの感情が混ざり合い、思わず顔を下へと向ける。
目に入った床のリノリウムは、わずかに残る太陽の残滓に反射して煌めいている。『リィン、ゴォ~ン』と、学校に併設された教会の鐘が放課後の時を告げてくるなか、校舎内には影がどんどん伸びていく。鐘の音に釣られ、ちらりと窓の外に目を向ければ、夕空のほとんどが暗闇に呑まれようとしていた。
クラン・クランが、俺達が夢中になっていた世界が今日で終わる。
また、退屈な日常へと戻ってしまう。
俺達の冒険は、コレで最後になるのだ。
「すずきぃ~急いで~」
俺の行く先を無理矢理に先導する彼女に引っ張られ、自然と視線が前を向く。
目の前の美少女に取られた自分の腕は、一体どこへ向かっているのだろうか。
「はははっ」
なぜだか、前を駆ける逢世の流れる髪を見つめていたら、笑いが込み上げてきた。
自身の吐き出した白い息を置いて行くように、俺は前だけを見る。
現実を、見よう。
これからは、したくもない勉強を無難にこなし大人になってゆく。その果てに成人して就職を迎え、労働に励む毎日が待っている。そうやって世界のサイクルの一環になって、歳を取り、人生を終えるのだろう。
だけど、その前に。
ほんの少しだけ、最期の冒険を楽しもうと思う。
最期の冒険などと、錯覚していた事に。
この時の俺は微塵も気付けなかった。
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