Act68 赤い 赤い
ACT68
焼き菓子には蜜がかかっていた。
サーレルは、カーンへの手紙を書いている。
そして私とエリの前には、焼き菓子と茶が置かれた。
「どうした、食べて良いのだぞ」
存外、子供に優しいのか、侯爵が気を使って勧めてくる。
なら、お家騒動に巻き込まないで欲しいと切実に思う。
だがそれとは別に、今現在差し迫った問題は目の前にある。
エリは、肩に置かれた私の手を握りしめてきた。
見ると、彼女もお茶を見ていた。
そして、私と目が合うと、頷いた。
私は困惑と落胆を押さえながら、エリに恐る恐る確認した。
「見える?」
それに首を振る。
そして、自分の鼻に指をあてた。
「匂う?」
頷くエリに、私も頷いた。
赤いのだ。
お茶の湯気に、うっすらと色が踊っている。
液体が赤いのではない。
赤い文字がゾワゾワと虫のように茶に混じっている。
だが、これは私に見えるのであって、万人に見えてはいないだろう。
エリは匂うと言う。
私とは違う種族としての特性があるのかもしれない。
用心して、菓子にも目を凝らす。
やはり、食べられそうもない。
赤黒い文字が微かに滲む。
いったいこれは何だ。
地下で見た赤いモノは人形であったり、紋様であった。
今見えるモノは、文字である。
複雑な文字が蠢いている。
意味は拾えない。
地下の壁紙の文字に似ていた。
それともアノ死霊術師の呪文だろうか?
どちらにしても、食べられそうもない。
サーレルは封蝋をした手紙を侯爵の兵に渡した。
「必ず返信を貰ってください」
受け取ったのは、やはりラースと同じ黒い兵装の男だ。
「ところで、侯爵殿の病の原因は何です?」
遠慮のないサーレルの問いに、侯爵はラースを見た。
「毒の反応はでませんでした。しかし、未発見の毒という線が一番濃厚です」
「というと、もしや、侯爵殿以外にも同じ症状の者がおられると?」
ラースは返答に窮した。
そして、侯爵が再び促すと続けた。
「氏族の方々に、数名。そして、領内全体では結構な数です」
「伝染病や、既存の疾病では?」
「いいえ、既存の疾病に症状は似ていますが、発症者によっては別の病名が当初診断されていました。」
「どういうことですか?」
「ある者は肺炎、ある者は腫瘍、それぞれに病名が違うのです。ですが一様に最後は臓器が萎縮します。衰弱が激しく床から離れる事ができなくなります。」
ラースの説明によると、領主の息子の葬儀の晩、侯爵が倒れた。
当初、心労によるものかと思われた。
症状は、倦怠感に微熱。
しかし、医者の診察を受けるも、長命種に病無しとの通説の為か、様子をみることになる。
ところが、次の日には、他の症状も出始める。
指先に痛みと痺れを覚え、さらに時がたつと体の間接に痛みが走り、仰臥する事もままならなくなる。
やがて、葬儀から一週間ほどで、意識が混濁した。
この時の医師の診断は、流行性の感染症であった。
この頃になると、誤診を危ぶみ、王都からも医者を呼んでいた。
その甲斐もあってか、四日ほどで意識を回復。
ところが、全身の震えと、臓腑の萎縮、記憶の混乱などが見受けられ、どう考えても、病というよりも、毒物の影響ではないかという話になる。
「王都から医師と薬学者を数人招きました。そして毒物検査をしましたが、何も発見できませんでした」
「軍部へ打診しましょう。毒物は専門です」
それにラースは深々と頭を下げた。
もう一通書きますかと、サーレルが筆をとる。
「遠慮せずに食べなさい。もう少し時間がかかりそうです。」
サーレルにまで促され、進退窮まる。
私は恐る恐る、エリの分も私が飲食しようと手を伸ばした。
すると、横からエリが杯を掴んだ。
「エリっ!」
思わず叫ぶ私を余所に、エリは杯を中身ごと格子窓に投げた。
派手な音の割に、杯は割れなかった。
だが、液体は優美な格子を濡らし、酷い有様である。
窓といっても室内の空気を逃がす程度の隙間である。飾りの意味合いの物で、物を捨てるには不都合だ。
赤い文字は、ヌルリと滴り徐々に薄れていく。どうやら乾けば消えそうだ。
そこまで呆然と眺めていたが、慌てて私は膝をついた。
「お許しください、子供の事です、どうかお慈悲を」
自分でも意外なほどに、謝罪の言葉を喚いていた。
這い蹲るが、むしろ、私の喚きに不興をかう事を失念していた。
だが、誰も動かなかった。
顔色を伺うこともできず頭を下げる。そして、侯爵も無言だ。
只、エリだけが、杯を小卓へと戻した。
「何が気にいらなかったんでしょうねぇ」
暫くの沈黙の後、サーレルが筆を置いて、私達の所へ来た。
「こんなに美味しそうなのに」
そして、徐に杯を掴んだ。
私の飲まなかった茶を矯めつ眇めつ見る。
そうしてから、口元へ
「いけません」
今度は私がサーレルの手から杯をたたき落としていた。
後から考えれば、飲む気など無かったのだ。
さもなければ、容易く杯が床に落ちることはない。
再び沈黙だけが漂った。




