Act56 宿場の夜
ACT56
朝から水を浴びる音がする。
冷えた大気の中、たき火を前にして男達が冷水をかぶっている。
そうしなければ、体中についた臭いがとれないのだ。
一通り水を浴びた後、清潔な衣類に着替えてから、食事を始める。
凍えているから、最初は酒を落とした茶を飲ませた。
多少の疲労はあるが、たっぷりと備蓄の食糧を使った朝食に元気を戻したようである。
男達は、がつがつと食事をとり、今日こそは出発できると意気込んでいる。
さすがに、そろそろ人と、つまり女性のいる街にたどり着きたいのだ。
私とエリには聞こえないように、ごそごそと話していたが、生憎、耳も目も良いので丸聞こえである。
本来なら北領を抜けて街道の宿場についていても良い頃だ。
今日は駆けて駆けて駆け抜けるらしい。
実は、天気が持たないと言うのもある。
昨日の晩から遠雷が続いている。
猛烈な寒気がいよいよ迫っているのだ。
私はエリに、予備の防寒具を着せた。
洗った服以外、彼女は持っていないのだ。
村を家捜ししたが、服一枚残っていなかった。
改めて思う。
何がこの村であったのか。
仕方なく、この集会所にあった古ぼけた毛布や布を彼女に巻き付けた。そうして荷物の一番軽い私と一緒に馬に乗る。
それから、あの墓地へ向かう。
焼いた遺骸は掘り返されていた墓穴に埋めたそうだ。
未だにチリチリと煙を上げている灰も、この後の寒気に消えるだろう。
エリはじっと村を見て、墓地を見て、灰を見て、振り返って、見えなくなるまで見ていた。
そして、あの灰色の岩の場所へ。
エリは私の肩を叩くと、岩の上を指さした。
薄暗い中でぼんやりと白く滲む岩の上に、小さな蛇がいた。
愛嬌のある顔の蛇は、鎌首をもたげてこちらを見ると、舌をチロリと出した。
エリが手を振ると、蛇はスルリと姿を消した。
馬上で振り返るが、エリは手を振り続けていた。
私も倣うと、エリは少し唇をあげた。
友達かと聞くと、彼女は頷いた。
私の中でそれは矛盾しないのだ。それが少し悲しかった。
以前、ここを通り過ぎた時の、禍々しさがない。
石は相変わらず奇妙だが、不思議と怖さを感じなかった。
そう、恐ろしいのは人で、夢に立つ蛇ではない。
少なくとも、この村で起きた事は人の罪である。
逃れようのない、事実だ。
カーン達は、道に迷わないようにと、縄や紐で所々に印を付けて進んだ。
それ以外は順調に進んだ。
程なく、以前迷った事が嘘のようにすんなりと旧街道に我々は立っていた。
湿った空気も消え、吹き抜ける風もどこかしら軽い。
そこからは馬の様子を見ながら駆けた。
エリはあまり馬になれていないらしく、私にしがみついて目を閉じていた。
周りの景色を見ないと気分が悪くなるし、動きを合わせないと内臓を痛める。
調子を合わせるように声をかけ続けていると、景色が唐突に変わった。
北領の殆どを覆う森林を抜けたのだ。
冬の枯れた草原が広がる。
振り返ると恐ろしいほどの積乱雲と冬の山々がそびえて見えた。
距離はある。
だが、北領にあるときよりも、その偉容は恐ろしげである。
稲光を伴い寒気が渦を巻いている。
しかし、男達は途端に陽気になった。
未だ昼前である。
休憩を入れても夜には大きな宿場に着く算段だ。
その気安い雰囲気にエリが顔を上げる。
私も知らずに顔が緩んだ。
違う土地に行くのだと、今更、実感した。
枯れた草原に点々と石の道標が続く。
旧街道の道標が示す距離は、今の首都ではない。
距離の刻みが指し示すのは古い都の位置で、この道しるべは本道への繋ぎにすらならない。
それでも、これによって確実に本来の道からどれぐらいの距離かは測れる。
そろそろ昼になる頃に我々は進路を東南に変えた。
ここからは旧街道を外れて、本来の道へと向かうのだ。
目的の道は公道の中でも交易路となる太いもので、馬や馬車が通りやすく補整されている。
北領への公道は悪路であるため、獣道と化した旧街道の方が馬が進みやすいという矛盾が起きているのだ。
そして、枯れた大地に砂利を含んだ道が見えた。
確かに踏み固められた黒い土と、簡素な平石が見えた。
馬の往来には十分であるが、それにしては予想より酷い。
私の感想をよそに、一行は馬を乗り入れ、今度は東に馬首を向けた。
軍馬の体力と村の馬の体力は段違いである。
もちろん、北の品種が劣っている訳ではない。しかし、軍馬のような巨体ではない。そして、体力も普通である。
暫くすると、私の馬は足並みを落とした。
それを合図に休憩となる。
エリは馬から下りると、さっそく用を足しに草むらに入っていった。
遠くに行かないように言って、馬に水を与える。
馬用の水と言っても十分ではない。
彼らを満たすには大量の水がいる。
運べる量も少ないし、本来なら水場を選んで進むものだ。
それから火を使わずに食事と水分をとる。
馬に揺られたので食欲はない。
戻ったエリに携帯食を食べさせ、最後に滋養になるようにと飴を含ませた。
私がそれを与えていると、カーンが珍しそうにしていた。
飴と言っても街の高級な菓子とは縁がない。
蜂蜜に黒砂糖と蓮華、そして少しの薬草を煮た煮凝りのようなものだ。
あんまり、しげしげと見られたので、小さな固まりを食べさせる。
殊の外気に入ったらしく、もっと欲しいと言い出した。
エリに食わせるから駄目だと言うと、次の宿場で菓子を買ってやるからくれと言う。
呆れて少しづつ食わせるが、子供のようにねだる。
エリが少し笑ったので、飴はエリとカーンに半分こにして渡した。
そんなやりとりの後、再び、東に向かう。
私の馬は大分疲れていたが、背後に迫る寒気がわかっているのか、賢明に走り続けた。
初めての宿場だ。
生まれて初めての宿場である。
書物や人から聞いた話以外で、初めての町である。
大きな丸太を地面に突き立てた塀が町を囲んでいる。
城壁とは違って木だ。
だが、よじ登る事はできない位高い。
夜には街道に向き合っている門は閉じられる。そして門の上には見張り台が据えられていた。
お堀は無い。
私からすれば、大きな街だが、堀を作る程の宿場では無い。小さな町なのだそうだ。
その為、エリを預けるような役場が無かった。
あるのは、簡易の伝令所と町の小さな集会所ぐらい。
後は、小さな寺院と宿場らしく宿屋、馬車屋に食事所、酒場だ。
地主の経営する酒場と遊興の店が何軒かあり、商店などもあって中々賑やかである。しかし、街道の宿場として人の賑わいはあっても、本来の住人は少なく、町の治安を維持する領主から派遣された兵隊が少しいるだけで、子供を預けるような場所は見あたらなかった。
寺院も年老いた司祭が一人いるだけで、子供の面倒を見る体力もないようだ。
そして、適当に預ければ子供など売り買いされてしまう。
ここは、先の大きな町までエリを連れて行くことになった。
カーンが中々良心的な判断をした理由はわからないが、私は少しほっとした。
私も大きな街で身を潜めるつもりだが、それまでにエリの身の振り方を見届けたいと思っていた。
もし、この街に置いていくことになるなら、私も暫くここにいるつもりだった。
ただ、私自身が災厄を背負っているはずであり、禍々しいものが私を見ている限り、エリの側にいるのはいけない事である。
だとしても、身より無い子供が、昔の自分のようで知らぬ振りも寝覚めが悪く感じた。
だから、今暫く旅が続くのに安堵した。
宿場の宿屋は三軒あった。
商人向けに、旅人向けの安い店、そして高い店。
カーンは軍馬が十分に休める高い店に入った。
私は安い店にエリと入ろうとすると、遠慮するなと高い店に連れ込まれた。
道案内料と同道する間の手間賃代わりだと一部屋エリと私にあてがった。
私はエリを部屋で休ませると、厩に急いだ。
宿屋の馬番に指示していたエンリケに代わる。彼とて久方ぶりの宿だ。私が馬の面倒を見るというと、エンリケは中に入った。
足取りも弾んでいる。さっそく風呂に入ると騒いでいた。
宿屋の従業員は、顔には出さなかったが、彼らに緊張を隠せなかった。
宿場など荒くれ者も多いが、見るからに彼らは異質だった。
私は、彼らと接する時間が濃いものだったらしく感覚が麻痺していた。
だが、その普通の感覚を思い出したところで、私が変化してしまっている。
意味がない話だ。
私自身が、そう、普通の人達に避けられていた。
忘れていたが、私の顔には入れ墨がある。
この中央大陸オルタスで、顔に入れ墨をするのは罪人か、野蛮な者と蔑まれていた。
もちろん、罪人の入れ墨は文字であるし、野蛮な風習で彫られる物は極彩色で、獣面を真似ているらしい。
だから、私の顔の入れ墨は、文字ではないし獣面を真似た物でもない。
では、どう見えるのか?
厩の使用人は、私を彼らの奴隷と考えたようだ。
この紋様は、彼らが私を買い上げて彫り込んだと。
確かに、貴族の酔狂ならあり得る。
自分の奴隷に、模様をつける。
幸いなのか怒るべきなのか、使用人は同情したように、馬の世話がよくできるように、水場の使い方から何から教えてくれる。
馬達を世話しながら、思ったのは。
彼らから、離れ、身を隠した後。私は逃亡奴隷などと勘違いされないだろうか?と、いう不安だった。
宿屋の食事は不味かった。
塩気が効き過ぎているのと油が酷い。
私とエリは早々に食事を切り上げると部屋に戻った。
手持ちの金を使わずに、宿代も食事もすんでいる。
代わりにエリの衣服と旅の間に消耗した物を買う事にした。
部屋から出てきた私達と、カーンの部下である茶色の髪の騎士、スヴェンとオービスの二人と出くわした。
男達は時間を分けて外出するらしい。
金品の番に必ず誰かは残るのだ。
スヴェンとオービスは一番の年かさで、どちらも濃い髭の生えた男だ。彼らはとてもよく似ているが、兄弟ではない。
エリは二人の区別がつかないようだが、筋肉質で海賊のような雰囲気がスヴェン。少し猫背で吃音気味がオービスである。
闇夜にあったなら、悲鳴を上げて逃げるような風貌の男だ。カーンよりは低いが、一般人からすれば大男である。
それが廊下に二人もいれば、息苦しい。
そのオービスがエリに小さな笛を渡した。
何かあったら笛を吹けと言うことらしい。
目を見開いて巨人を見上げるようなエリが可笑しかった。
だが、確かに、声のでないエリに何かあったら困る。
礼を言うと、オービスが笑った。
白い歯が光って怖かった。が、それは失礼な感想なので、隣のスヴェンに何処に出かけるのかと聞く。
所用である。
と、実に素っ気ないが。まぁ、女子供の耳に入れるべき場所ではないという、紳士的な配慮らしい。
それが、又、怖い顔なのだが、多分、ニヤケないようにしているらしく、オービスを小突きながら出かけて行った。
カーンの部屋を訪ねる。
出かける前に声をかけるためだ。
中には、カーンとサーレルがいた。荷物を広げて何かをしている。
私達が出かけると言うと、ついでにアレこれと買い物を頼まれた。
「他の方々はお出かけですか?」
「あぁ、レオもナシオも酒を飲みにでている。馬鹿二人はいつも通り悪所に走っていったしな。エンリケは伝令所に使いだ。この後、サーレルも風呂だ。」
「カーン様は出かけないんですか?」
「うん、俺は留守番だ。なにしろ、こいつが寂しがるからな」
そういうと、酒を片手に首級の袋を指さした。
仕事の途中で、部下の鬱憤を減らすのが目的のようだ。
「ほれ、菓子代だ。買い物にいってきな」
エリにも洋服を買うようにと金を渡された。
私は、首と男を見てから静かに扉を閉めた。
私とカーンの見えている世界は、多分、全てが違うのだろう。