幕間 精霊の娘
[精霊の娘]
娘は目覚めない。
息はあるが、一度自分が殺している。
馬鹿な言い回しに、口元がひきつった。
切りつけた場所を探ると、ナリスが砕けていた。
その他は衣服にも傷はない。
砕けたナリスは、只の破片になったようだ。
これを寄越した男は、何と言うだろうか。
ボルネフェルトを追うことになって、まず最初にこれを寄越した。
あの男に娘を見せれば、何事かわかるだろうか。
破片を革の物入れに押し込む。
捨てると後が面倒だ。
娘の外傷を探る。
剣を叩き込んだ胸は何ら変わりは無い。
手足も欠損がない。息も鼓動も正常だ。
本来なら衣服の下も探るのだが、娘とわかってはこれ以上何もできない。
もちろん、大けがをしているのなら、話は別だ。
だが、様子を見た限り、殺した痕は無かった。
言い回しに再び唇がひきつった。
血の痕も無い。
出血していれば匂いでわかる。
とても、静かだ。
娘が目覚めねば、再び出口を探して彷徨う事になる。
この入れ墨は何だろうか。
手で触れると、本来の入れ墨のような体温の違いは無かった。
化粧のように、綺麗な線が描かれている。草花のような蔦のような。
小さな顔を囲み、陶器の芸術のように見えた。
だが、これが辺境の蛮族ならいざ知らず、若い娘の顔にあるのだ。
ここまで考えて、己が馬鹿であることを再確認する。
事は美醜の問題ではない。
これが体に何をもたらすかだ。
この奇っ怪な場所で、あの狂人、らしき者の手にあった本が元だ。
意味が不明である上に、どう考えても、よくない話だ。
森の民。
森の民とは何であったか。
叔父と遠征に行った時に、何か聞いた覚えがある。
密林の中で泥に腰まで浸かった行軍中だったろうか。
森の民という言葉ではなかった。
森の子。
案内を頼んだ、肌の黒い者をそう呼んでいた。
ほっそりとした容姿で泥水も難なく歩く。
真っ黒い瞳をした彼は、森の神と契約していると自慢げに話す。
だから、森の道はすべて知っているし、獣は彼らを恐れる。
森の子。否、森の精霊だ。
草臥れ果てた泥の行軍に、暇つぶしの会話。
確か、本物の精霊の見分け方を講釈していた。
つまり、あの案内人は精霊では無い。単に、森の精霊と同じくらい腕が良いと言う話だ。
確か、精霊は美しい髪と目の色をしていて、男女ともそれは容姿に優れている。
お伽噺や法螺話のお約束である。
彼らは時として、人を惑わせ、人を欺き、そして、人を救うのだとか。
精霊に気に入られれば、幸運が訪れ、怒らせれば不運にとりつかれる。
まして、精霊を殺せば、ありとあらゆる天罰が下る。
さしずめ、この娘に刃を突き立てた自分は、天罰を受けて黒こげになるだろう。
そういえば、と、思い出した事がある。
獣人に獣面という、肉体の特徴があるように、精霊にも特徴があると、あの案内人は言っていた。
叔父も立派な獣面で、まるで肉食獣そのものを人間の形にしたような先祖返りだ。
だからだろう、精霊を見分ける事細かな法螺話が続いた。
美しい容姿は様々な色相であるが、一つだけ共通の特徴がある。
耳だ。
獣面の獣のような耳とは違うらしい。
そういえば、この娘は厚い外套に付いて
いる毛皮の頭巾を被っている。
それを脱がすと、兎の毛皮のようなふんわりとした耳当てをつけていた。
何気なく、それを外してみる。
耳にも入れ墨が入っていた。
耳飾りのように左右対称に描かれている。
綺麗な飴色の髪は長く、耳は人より長く尖っていた。
静かに耳当てと頭巾を戻す。
それから娘を背負うと革帯を巻き付けた。
石の町は静かだ。
静かすぎて、気が狂いそうだ。