Act47 冬の狼
ACT47
招かれて、私は主の部屋の小さな足かけに腰を下ろした。
水晶の椅子は思ったよりも人肌の暖かさをもっていた。
疲れ切っていたのか、私はカーンが扉から戻るのをぼんやりと見ていた。
カーンは、外に出なかった。
だが、約束は、その一人が逃げなかった場合まで言及していない。
そう思いたい。
そんな私を見やりながら、主は微笑んでいた。
「兄弟、語ってやるがよい。
森の民の子は、相も変わらず慈悲に富む
誠、愚かで愚かで」
カーンは、迷路に戻ると無闇に歩き出した。
「ウルリヒ・カーンは獣の子だ」
仮面の異形の問いに、懐のナリスが苦々しく答えた。
「幼き頃より、人を殺して生きてきた。罪業深く、救いようのない獣だ。」
私が薄板を取り出すと、異形は再び笑った。
「邪魔者を殺し、罪を許さず、人を許さず、己を許さず、人の世の全てに一片の期待も持たない。実に忌々しい獣だ」
「それは重畳である。まるで、我らのようではないか」
ナリスは押し黙った。
「信じる心を持たぬ、憎悪と狂気を持つなど実に素晴らしいのである。元より、邪悪であるならばそれも道理である。」
「娘よ、宮の呪いとは己が内にある物を肥大させるのだ。それも負の感情を」
「さてもさても、ウルリヒ・カーンなる男を見てみよう。兄弟、読んでくれるであるか」
面倒な、と、ナリスが呟く。
私は、幻影に眼を凝らした。
読むほどの苦悩などあの男にはない。
下劣な欲望も人並みだ。
あの獣に悲壮な生い立ちなどない。単に獣が獣として育っただけだ。
他の人間との違いは、飼い主がいるかいないか。己が野蛮な獣であると自覚していることか。
今も己の中の獣がどんどん姿を大きくしている。
獣は怒り狂っている。
お主がかけた慈悲が元で。
慈悲ではない?
そうか、だが、獣は慈悲と感じたのだ。
獲物も逃がし慈悲をかけられた獣はどうすればいい?
このまま飼い主の元に戻ることはできない。飼い主は許すだろうが、獣自身が許さない。
理解できないか?
私もだ。
獣はお前の慈悲に打たれて、その足を戻したのではない。
怒りだ。
道理ではない。
獣を動かすのは理性ではないからだ。
ウルリヒ・カーンは王国南領軍団では狼と呼ばれている。
何日も敵を追い続け、必ずその命を刈り取ってくる。
あれに情けをかける?
馬鹿馬鹿しい。
情けとは侮るということだ。
お前は弱いのだと決めつけられたも同然。
自分より遙かに弱いお主に、逃がされた。
罠にはまった狼を逃した狩人はどうなる?
罠から逃れでた狼は、何を思う?
いつの間にか、カーンは闇の中にいた。
何かを言っている。
剣を担ぎ、腰には首を下げ、荒々しい形相で何かを叫んでいる。
私は、私が供物になることで、終わるのだと思っていた。
だが、これは何であろう?
この男は何だ。
私の混乱に、宮の主は笑みを深くした。
「おぉ、それはよろしゅうございます」
仮面の異形が手を打ち鳴らした。
あの男は、客の首とお前を寄越せと言っている。
宮の客は、始原の種である。
その血肉は元より魂は狭間を支える
故に、あの男の言う首は無い。
お前は、供物である。
供物とは、我の慰みであり我の言
葉を身に刻む者である
故に、あの男の物ではない。
だが、それでは今までとなんら変わらない。
我は、飽いておる。
故に混沌を望む。
汝に名を与えよう。
昔、我がまだ人であった頃、
深き森に暮らす輝かしき乙女がいた
その名を与えよう。
その名は、身に刻まれ魂に刻まれる。その呪縛は死した後、魂が戻る場所を指し示す。
カーンの足下に光りがはしった。
あの転移の陣だ。
徐々に広がり、男を包む。
その時だ。
幻越しに、目があった。
狼の目が、私を睨む。
雪の日に見る獣の瞳は、何を見ているんだろう。
私にはわからない。




