Act38 水底
ACT38
水の中だ。
そうわかっていても、私の体は動かない。
頭の中がかき混ぜられたように、痛い。
ただ、胸は苦しくないし、暑くも寒くもない。
水の中にいるのだが、その水とは、一枚幕で隔たっているような感じだ。
私の体は徐々に沈んでいるようで、目の前を気泡が昇っていく。
あの水の中なのだろうか?
洞窟の縁から落下した後、私は少し気を失っていたようだ。
意識が断ち切れていた間、何か気持ちの悪いものを見たような感じがする。
不愉快な何か。
だが、それは私には関係の無い事のような気もした。
藍色の視界に、白い物が見えた。
どうやら水底に近づいたようだ。
白い物がごろごろと転がっている。
ゆっくりとその間に落ちていくと、体が底に着いたのがわかった。
ただ、それだけで何の感慨も浮かばない。
奇妙なことに、何も考えが浮かばない。
眼の縁に、白い物が見える。
何だろう?
私はゆっくりと瞬きをした。
腕に見えた。
ここにきて、やっと首が動く。私は、周りを良く見ようと動いた。
足だ。
彫像の手足に見えた。
たくさんの手足が転がっている。
白い、手足。
ぼんやりと水にたゆたいながら、じんわりと意識が戻ってくる。
彫像ではない。
人間の手足だ。
断面には骨と肉が見える。
血が澱んで底には黒い濁りでいっぱいだ。
私を未だ支配する呪縛の所為なのか、驚きは眼を見開くだけですんだ。
逃げなくては。
何から逃げるのかはわからない。
だが、このままでは、肉片になる。
動かない体を捩ろうとする。
だが、私は動くことができない。
辺りは静かな水だけだ。
蝋のように白い手足が視界を埋めている。
胴体や頭部は無い。
どういう事だろうか?
運がいい
ナリスの声に私は心の中で怒鳴り返した。
どこがだ?
それにナリスは例の苛々する笑いを返した。
死体の奥に光がある
ナリスに言われるまま、私はもがいた。
すると、ゆっくりとではあるが水底を進むことができた。
散乱する手足に、個人の特徴は無い。
どこから、どれだけの人間がここに入ったのだろう。
辺境の森の奥。
では、ない。
入り口は確かにあの穴であったが、この場所に通ずる道は、色んな場所にあるのではないだろうか。
だと考えなければ、腐りもせずに水底にあるのはおかしい。
水底ならば
どう言う意味?
ここを満たすのは水ではない
宮の主の記憶だ
主は半ば眠っている
起きて羽ばたけば、お前の国は地獄になる
水ではない?
主は篩をかける
歪んだ魂を殊更求める
人が人たる業を求める
なぜ?
欲深い者は番人の娯楽
心弱い者は主の餌
どちらにしろ、恐ろしい末路を迎えるようだ。
光は水面から射していた。
もがきながら、その揺らめく面に手を伸ばす。
すると、ぬるりとした感覚と共に私は吐き出された。
水から出たのではない。
何か生き物から吐き出されたような感覚だ。
急に取り込まれた空気が肺に痛みを訴えた。
体は濡れもせず乾いていた。
ただ、全身がしびれている。
眩しさに涙がこぼれた。
娘よ、
心を閉じよ
歪み腐った臭いがする
誰かの嘆息と共に冷気が辺りを満たした。
戻った視界に男がいた。
微笑みを浮かべた、あの男だ。
死霊術師ディーター
ボルネフェルト公爵家元嫡子
中央軍南領第五兵団上級大佐
そして、狂人。
暁に死んだ子供