閑話 宮の底にて
「さてもやっと呼ぶことができた。
さてもさても、忘れてはおるまい。
誠に喜ばしい事で、あ〜る。
だが、しかししかし。
裁きの前に、褒美を渡さねばならぬ、で、あろうあろう?
我らは、慈悲、にて、その方の願いを聞き届けた。
だが異議の申立もあり、ここに先に先に、それをばどうあつかうか、申し伝えるのであ〜る」
ふぅと大袈裟なため息が一つ。
「誠、大儀であった。
考慮すれば、召喚の実績により、お主らの異議を受け止め、功績により代替えも致し方無しとする。
が、しかししかしだ。
これからも助力をし、次代の守護者の育成をもまかせるとのお言葉を伝えるのであ〜る。
まぁ褒美でもあるが、我々はいつでも、その方の側に控え、死後は我らの宮の者である事に変わりなしであ〜る。」
誰かが何処かで笑う。
「簡単に言えば、許す。で、あ〜る。
お主は宮からの使者故、それをゆめゆめ忘れる事無く、励むのであ〜る。
そして伝えておくことがもう一つ。
エイジャ・バルディスが回収できたのである。
副次的な効果であったが、お主らの争いによって縛りの呪術がイアドの消失と同じく消えたのだ。
めでたきことよ。
懸念の元であった魂の器も、今は主の元にある。
これにてお主は正統なる後継者となった。
おって我らの意思も伝わるであろう。
我ら宮の者一同、生者の世界にていきるその方を、兄弟とよぼうぞ。よくやったのであ〜る」
そして冷ややかな気配が満ちた。
「お主は返した。故に、お主へも返された。
守護者とは、特別な者ではない。
夜においての灯りである。
故に、その方が命ある限り、愚かな物を宮に送るのだ。
灯りを絶やさずに、人を導くのだ。
我らはずっと待っている。
愚かな魂を、そしてお前の魂を。いつまでも、いつまでも」
***
彼は普通の男であった。
ただ、心が弱く逃げる事を選んだ。
逃げるのは間違いではない。
ただ、人を騙してはならない。
誹られる事だけは受け入れなければならない。
そして、逃げるという選択肢は、孤独に繋がっている事も理解すべきだった。
けれど、その弱さを認めなかった、他の者に罪はなかったか?
戻された魂を並べて、宮の主は考える。
彼は好きだった。
嘘つきで、傲慢で、孤独で、弱く、誠に。
もちろん、その弱い魂によって、生まれた変化の事を。
魂としては、彼の妻や眷属の女、たくさんの犠牲者を好いている。
ただ、愚かしい魂は面白い。
彼は3つに別れていた者に、仮初の命を吹き込んだ。
するとどうだろうか、3人共にお互いを敵として戦い始めるではないか。
面白い。
己が敵とは何と面白い。
そうして宮の底に又一つ、不思議な生き物が増えた。
深い深い闇の底。
甲冑を纏った騎士が彷徨っている。
3体の甲冑に首は無く、いずれかが争い一つの首を持っては逃げている。
3つの体に首が一つ。
運悪く、首無しに出逢えば、己が首を持ち去られる事になるだろう。
死して恐れは消えず、冥府の底にて逃げ回る。
誠に哀れな魂だ。
***
目を開くと、壮年の男が微笑んでいた。
何処の誰だと思うが、すぐに誰かを思い出す。
やはり、己は死んだのか?
その思いに、相手は口を開いた。
「やぁ、今代の人。
大丈夫ですよ、まだ、生きておいでだ」
漆黒の空間に浮かびながら、相手は愛想よく続けた。
「ここにいる間に、ちょっとだけ教えておかねば思いまして。主に繋げて頂いたのです。
いつも、彼らの声ばかりを拾っているので、不思議ではありますまい?」
グリモアの悪霊の事か。
「その欲張りに名前を与えた者です。お若い今代の人。
よく、我慢しましたね。
彼らの声を拾った上で、選び方を間違えなかった。
やり方は、稚拙ですが、よくがんばりました」
微笑む顔に、うっすらと呪言が浮かぶ。
濃縮された力が、男の魂と結びついていた。
「大丈夫ですよ、この私の場合、根源構築から必要な時代でした。貴方には必要のない力です。
そして、貴方はグリモアの主ではありますが、呪術者ではない。
この力は呼び水であり、水門であり、水車に過ぎません。
私のように、流れの一部になる必要は無い」
何故、今。
「私の失態の始末と、家族を救っていただいた礼です。そして私自身も解放してもらった。
ならば、恩を返すのがすじでしょう」
勝手にやったことだ。
それに彼女を奪われたくなかっただけだ。
「だが、取り返すだけで、貴方はここにいる。私は、いろんな意味で嬉しいのです。だから、今、ここにいる内に伝えておかなければなりません」
もう、死ぬまで時間があるが?
「誰でも死ぬまで生きますねぇ、ふふふ。何をいっているのでしょう。」
男は冗談を散らすように手を振った。
「さて、それでも多少の使い方の基本は必要です」
振った先に、椅子と机が現れる。
思い出した。
この雰囲気は、神殿や収容施設でよくあった。
「先ずは、呪術文字と文様の基礎から勉強しましょうね」
一番、嫌いな座学だ。
「逃げられないのはご存知でしょう?まぁ呼び戻されるまで時間もありますし。今なら眠る事も食べる必要もありません。実に素晴らしい事ですね」
まっとうそうな顔で言うが、割とおかしい内容だ。
そんな考えを読んだように、机に書物が積み上がる。
「息苦しいのもいけませんね」
暗闇に窓が出現する。
そとは明るい陽射しに、大樹と小島と城の残骸が見える。
時々、視点が変わるので、誰かが見ている世界のようだ。
「では、子供でもわかる文字の初歩から」
座るように促され、彼は頭を振った。
寝るはずが、こんな事に。
「よく覚えておいてください。これはこれからの貴方の力になります。貴方が生きていることが、私の娘の願いです。
腹立たしいですが、貴方こそが希望の光り。
存分に時間を使って学びましょうね」
彼はため息をついて、書物に手を伸ばした。
***
呪術文字は、神聖教の神の文字と共通するものが多い。だから大陸共通語が理解できれば、学習するのは難しくない。
問題は、呪術紋様、所謂、魔法陣である。
基礎の呪術方陣は、十二種類。
一つの呪陣の構造は、外側と内側に分かれている。
そして外が三つ、内側が四つの種類がある。
全部おぼえると百四十四の形だ。
変則例は抜かして。
変則例は、この十二の呪陣を繋げる形である。
いや、なんだそれ。
そしてそこに呪術文字を組み込むのだが、正しい繋がりで置かないと発動しない。
これを又、グリモアの力で書き上げていく。
呪術師の力があがると、見ただけで構造が把握できる。
ここまでが基本である。
教えられる側から、耳を通過して垂れ流されていく。
これは無理だと、そうそうに思ったが、教師役は椅子に縛り付けると講義を続ける。
次に、呪術の基本の考え方である、理の運用だ。
商人の商売と同じく、対価の法則や生贄の基本運用法。
こう聞くと、あまり気持ちの良い話ではないが、内容は、野蛮ではなかった。
技術と慣習、儀礼などの事で、どちらかと言うと民俗学に近いものであった。
「必要な場面で、こんな物があったと思い出せればいいのです。そうすればグリモアが勝手に計算するでしょう。
貴方は、出し抜かれぬようによく見て聞く習慣をつけるのです」
椅子に縛り付けられ、笑顔で言われる。
「敵がどう動くのかを貴方はよく見て動くでしょう。
言葉は偽れるから聞いても無駄と思いますか?
賭け事を思い浮かべてください。
状況と相手の力量、表情や気配。
例え偽りでも吐き出された言葉でさえ、情報なのです。
貴方は森羅万象に繋がるきっかけを持っている。それは疑問に対して問う権利です。
ただし、問い方によってグリモアは偽るのです。
それはこれが理という法則で動くからです。
悪霊の巣にして、これは人の為に動くものではない。
ただ、これは人間の世界でも変わりはしません。
正しさを問えば、答えは返りますか?
人間の社会で答えを求めて、それを正解とする。それは困難な事だと知っていますでしょう?正義であろうと法律では正しかろうと、それが答えにならない事ばかりです。
だからこそ、貴方の得た力は、理という法則をもって正しく使わなければならない。
正しくです。
そして理は、人間を起点にする考えではありません。理に人間が属しているのです。
そしてそれさえわかっていれば、使い方の方向は見えるでしょう。」
では、なぜ、正しく使わなかったのだ?
「知っているでしょう?」
それで俺が間違わないと思うか?
「私は、人間を起点に力を使わなかった。」
それが正しいのだろう?
「人間を思って使ってもよいのです。正しくはありませんが、間違いではない。
ですが、私は守護者という立場を起点にしたのです。
導く灯りとしてではなく。
子の親としてではなく。
どんなに長く生きようと、魂が育たねば駄目なのですね。」
縛り付けていた蔦が消え、窓がそっと開いていく。
「間違いは最初から。私は驕っていたのです。
神の子であると、裁量以上の干渉を続けた。そして」
開いた窓の先に、林檎の木が見える。
「すべて私の過ちが元、神に許しをえるまで宮にて奉仕を続けるでしょう。ずっと貴方を見ていますよ。力の事をしりたければ、いつでもここにいらっしゃい」
白い林檎の花。
背を向けて立つ姿。
白い花びらが舞い込んで..
***
何をしたのか、何もしていない。
偉そうな事を言いつつ、乗り込んで暴れただけだ。
皆を傷つけた。
言い訳は無い。
俺が原因だ。
目を見開いて、そこが永遠の夜では無いこと知る。
助けたはずだと焦る事しばし、そして囲む者達に馬鹿面をさらす。
実に間抜けな帰還であった。
小島に凝った建物ができていた。
瀟洒な館で、北の海の只中だというのに、ワサワサと果実の木が茂って囲んでいる。
何故か常春の陽気で、隠居二人がいそいそと住まいを整えていた。
とは言え、ここが開かれるのは7日に一度。
出入りは自由で、この爺二人は領地内なら遊びにも出られた。
もちろん、縛りはあり、飲み食いは本来必要とせず、ヨジョミルと同じエルベが影響を受けていた。
特別な嘆願、つまり俺を戻す願いが通り、二人がここの土地に縛られる事になった。
守護者への協力という形だったために、その暮らしは故郷に戻れぬだけの緩い縛りになっていた。
それでも恩だ。
爺二人に頭を下げた。
一人は鼻で笑い、一人は、こちらこそ孫への恩を受けましたと逆に頭をたれた。
そうして、自尊心やらなんやらを叩き潰されて生き返った。
大言壮語を吐いた割に、なんとも締まらない話である。
ただ、結果、彼女が無事に目覚めたと知り、もうどうでもいいと最後に思う。
死んだ兵士の名簿を見れば、己が罪は確かにあるのだ。
後は、この土地の隅々までの掃除だ。
生き残っている者を調べ、ロドミナのような新しい住人がいるなら人別をつくる。
リクス・ツアガの保護もしなければならない。
やるべき事柄の多さに、何処かで安堵した。
新しく、この北の地の全てを書き換える事にした。
目覚めて以来、突き動かすのは、自分の馬鹿さ加減に対する恥ずかしさだ。
自分一人で気負ってみたが、結局、格好がつかないほど、皆に助けられている。
いつもの仲間も、傷ついたが、今も同じく働いてくれている。
スヴェンとオービスはロドミナ達と協力をして東側を受け持つ。
生き残りを集め、新たな種族を集め、新たな領地を作る。
ミダスの他にも偽龍にならなかった者で、孤児を率いて村を立ち上げもした。
あの最初の村の子供も、そこに加わっている。
西は思うよりも酷い有様で、生き残りはいなかった。
代わりに、イオレアが移り住んだらしく、討伐隊を組むことになった。
それには治安を回復する目的で、エンリケとモルダレオが楽しげに武器を奮っている。
イオレアが最後に蛆虫のように押し寄せた記憶が忌々しいらしく、殲滅するぞと意気込んでいた。
領地全体を見て回り、復興入植するかどうかを記録をしながら考える。
産業産物、道の整備。
公王が送り込んでくる者達も増えて、徐々に人間の気配が増えた。
しかし、夜の侵食もあり、やはり、一般の民の入植はまだまだ先の話である。
それに大樹の周りは、ターク公爵が飛び地として差配する事にした。
偽龍の保護と、大樹、門の守りだ。
大樹は小島から、あの場所に移されたのは本当で、時々、夜になると不可視の神鳥が舞い降りる。
きっと大木の中には、あの異形の蟲もいることだろう。
そして小島は今では領主の館となっていた。
酒好きの爺二人が酒蔵を作り、領民には酒を作れば税を免除すると言い出している。
おかげで罪悪感は目減りした。だが、この恩はどうしたものかとずっと考えていた。ならば、彼らの家族に還元する他ないだろう。
いつか、戻る日が来たら。
そこまで考えて、何故か、戻るのが怖いと思った。
喜びと悲しみ。
喜びが大きすぎて、そして寂しさを含んでいて、自分の気持ちが怖かった。
だが、臆病になってはいけないと、あの化け物が姿を思い出す。現実を真摯に受け止めて、明日に踏み出さねばならない。
辛くとも苦しくとも、悲しくとも。
そして思うより、すべては簡単なことなのだ。
***
あの時、自分が封印された瞬間。
イオレアを含む、異形は細かな蛆虫に変わった。
そしてそれが渦を巻くように、封印され動かなくなった自分にも殺到したそうだ。
それを見て、イグナシオは飛び出した。
炎を纏った獣体で崩れた階段を飛び越えて。
ちょうど蛆の渦に飲まれて、自分が食われるように見えたそうだ。
そうして渦に体当たりをすると、視界が開ける。
何もない中空が裂け、赤い空まで破れた。
すると神殿も階段も消え失せて、あの館に突っ込み崩落に巻き込まれた。
それまでの何もかもが、一枚の絵のように破れて、北の暗い海へと沈んだ。
訳もわからず塩水を飲んで溺れた。
入り江の沖に小さな岩があるそうだ。
島とも言えぬ、その岩場に流れ着く。
誠に不本意ながら、そこでヤンと一緒になった。
ヤンはイグナシオの突進に巻き込まれ溺れた末だ。
二人とも北の海にて岩場にいたが、極夜があけて意識を失うという、更に死の危険に晒された。
だが、生きている。
凍死も溺死も免れて、海に出没し始めた怪異にも食われずだ。
ここでもヤンに寄生する謎の植物が活躍したそうだ。
意識のない彼らをどうやって運んだのかはわからない。
だが、海岸に二人は打ち上げられて回収された。
この花に関しては、ターク公とニルダヌスから、黄泉の花についての報告を受けている。
調べればわかるだろうが、調べてもきっと意味の無い結果になるような気がする。
ともかく、イグナシオもヤンも生き残り、自分は彼ら二人にも報いねばならない。
終わってみれば、認めるかどうかの話だ。
夜毎、神鳥が舞い降りるのが見えるように。
異界に繋がっている。
夜が違うように、自分は変わった。
もちろん、中身は間違いだらけの未熟なまま。
それまで見えなかった世界。
受け取った初めの頃は、感じられなかった。
今は、すべてが幻であり現実だ。
夜に空をかける白い姿。森から現れる幻の獣。
鮮やかな色彩と、恐ろしい姿。
海を見れば、大きくうねる何かが水平線を移動する。
星の輝きや並びも意味があり。
魅入られて、ずっと天を仰ぐ。
心細くも素晴らしく。
一瞬で消えていく命。
生きていく事が怖いと言ったあれは、やはり自分と同じ。
間違いを認めない姿は自分と同じ。
少し正直に。
初めから。
過去を隠すのではない。
自分を誇張する必要はない。
弱い人間だと自覚し。
良い人間にはなれないが。
後始末と人員の入れ替えが済んだ時。
帰るのが怖くなっていた。
そうした自分が可笑しくて、普通の人間だと感じた。
***
帰るとなれば、皆、早かった。
表には出さなかったが、やはり戻りたい気持ちは皆あった。
残る公爵とニルダヌス、彼らを思うと心苦しい。
だが、当の二人は楽しげで、それが虚勢とも思えない。
戻ったら酒を送れと言われ、家族に手紙をと渡されて。
船に乗って帰る中、彼らの行いが自分を本当に救ったのだと実感した。
人は、一人では駄目だと。
そして自分は一人ではないと、彼女の言葉が思い出される。
すると、胸の奥が苦しくなり、恐れよりも顔を見たいという気持ちが湧き上がる。
忘れているのは知っていた。
苦しい記憶が消え去って、幸せになるならそれが一番だ。
このまま手を放すべきかと。
だが、それに幼馴染は鼻で笑って罵倒する。
愛を囁やけとは言っていない。
人として向き合い、もう一度、やりなおす。
そんな機会が、誰にも訪れると思っているか?
こんな機会は、誰にも訪れない。
繋がりとは、血が繋がっていようと簡単に消えてしまうのだ。
繋がりを絶やさぬようにするには、努力がいる。
お互いに向き合い、辛いこともあるだろう。
だが、一緒に生きていこうと考えるなら。
同じ世界にいようと思うなら。
手を放してはいけない。
私は向き合わず、辛いことを避けた。おかげで私は失った。死んでは二度と会えはしない。
だが、どうだ。
お前はやり直す事ができるのだ。
急げと私は言い続ける。なぜなら、お前も彼女も人間だ。明日には死んでいるかもしれないのだ。
狭い船倉の大声に、船乗りは笑い、仲間も笑った。
いい歳をした男が女に尻込みをしていると。
自分も笑って幼馴染に礼を言う。
相手は酷く憤慨し、東の港につくまで口をきいてくれなかった。
東はコルテスがシェルバンを接収し、ボフダンと分割支配となった。
何よりもアッシュガルトの壊滅、広がる異形の被害に驚く。
第八が終わった事は、驚きよりも因果を感じ。
城塞の力の痕跡を見て、より夜の侵食を理解した。
早急にこの変化を知らしめ、人で作られた軍隊その物を作り変えていかねばと思う。
まぁやるべき事が見えてくる。
隠者か賢者のような守護者ではない。
力を振るう事もままならないのだ、人間としてできる事をする。
神に抉り取られた海岸線を見て思う。
草臥れた旅装一式を、現コルテス女公爵が新しい物に変えてくれた。
父親の顛末を伝え手紙を渡す。
彼女からは、父が自死を選ばずに済んで良かったと言葉をもらう。
娘から見ても、父親の心がニコル姫のみに向かっており、いつ死んでも不思議ではないと考えていた。
不幸を自慢する訳ではないが、自死を選ばず役割を求めたのなら、それは娘としては安堵するとの事だった。
服は直属隊の物で、立ち寄る事はわかっていたのか、軍から馬も送られていた。
久しぶりの人間らしい暮らしに、笑う。
いつか、髭はどうなるのかという質問を思い出した。
笑って答えたあの日。
こんな風になると誰が思ったろうか?
そして思う。
小さな花を見ながら誓った事。
彼女は忘れているだろう。
だが、自分は覚えている。
きっと死ぬまで覚えている。
そんな事を考えて笑う。
重い感情は見せないで、それでいて正直に振る舞うのは大変だろう。
そんな悩みを覚える幸せを。
そうして北から戻る。
果物類を買い込んで、ボフダンの名物もだ。
仲間も饒舌になり、くだらない会話も増える。それでいて、皆、自分を気遣い、あえて話題をふらない。
幼馴染だけは一々嫌味を言い続けるが、それがなかったら緊張が隠せなかったろう。
そう、生まれて初めて緊張をしていた。
争い事の緊張なんぞ、覚えた試しもないのにだ。
やがて見覚えのある景色になる。
あぁ帰ってきたぞ。
本当の故郷は南だが、それでも見覚えのある輝く巨大な白い壁と古代の技術を集めた構造物が遠目に見えると心が軽くなる。
輝いて見えるのは、建材に混ぜられた鉱石だ。
朝陽に輝き、天の雲をも照らすように見える。
土埃にまみれてたどりついた旅人は、その姿に感動するのだ。
ここが輝かしい中心の場所だと。
そして彼女を見つけた。
自分には、彼女こそが輝かしい場所だ。
そんな言葉が浮かんだ。
馬を降り、木陰に座る姿を見る。
生きている。
生きて動いて、不思議そうに見ている。
神よ。
ゆっくりと歩く。
そう、生きている。
気がついた。
恐怖の正体は、本当は救えなかったのではという疑念。
一度立ち止まる。
彼女は知らないのだ。
怖がらせてはいけない。
彼女は無事だった。
それで十分だ。
だから、いつかと同じ言葉をかける。
もう一度だ。
ここから、もう一度。
多少姑息だが、果物の土産で釣るか。
と、内心笑った。