流浪の女 裏-4
全てが夢なのではないか?
息苦しい夢の中でもがいている。
本当は、何もかもが夢で自分だと信じている存在はいないのではないか?
頭上で振り抜かれた剣を目で追う。
「主殿、立ってください」
時間は引き伸ばされて、すべてが緩慢に感じる。
極夜とは、最悪の一日を繰り返しているだけなのではと疑っている。
一日を引き伸ばし、無限に繰り返させている。
たぶん、そうだ。
反転して避けると異形の尾が腹を掠める。
燃え落ちたエレッケン城の近く、東の森にて争いの中にいた。
盛大な火柱は今も黒煙を空にあげていた。
そのかわりイオレアもこちらに流れ、イアドの異形よりも彼らに追われていた。
あの地底湖を見てから、イオレアへの嫌悪が増した。
己へ襲いかかる虚しさも増した、息苦しさが減ることはない。
「フィグ・ダウラが来ています」
公爵の腕をつかむと木々と岩の影を探す。
巨人はイオレアを食おうと追いかける。勝手に争うので逃げやすくなるのだ。
同族であるはずなのに、おかしな事だ。
すでに、共闘しているのではないのか?
それとも何かあるのか。
巨人が地響きをたて通りすぎる。影が通ると反対方向に走った。
振り返ると醜い異形が口を大きく開けて、イオレアに噛みついている。
「頭をあげないで」
しゃがんで姿勢を低くすると、空を何かが通りすぎた。
風圧で土が舞う。
澱んだ大気が震えた。
遠く人語を発するリクス・ツアガだろう誰かが、飛竜だと叫んでいる。
太古の生き物までおでましか。
偽物か本物か。
ニルダヌスが走りながら、笑っている。
楽しくて笑っているのではない。
いい加減、体より先に精神が壊れ始めている。
そのリクス・ツアガ達も、影竜騎士と名乗るだけあり、姿は爬虫類のようになっていた。
骨を纏った爬虫類だ。
奇っ怪な鎧姿で徒党を組み戦っていた。
彼らは人を見ても襲ってこないだけましだ。
イオレアは、もうダメだ。
今では人間らしい部分は皆無。
触手がうねる蛭の化け物だ。
そして味方であるヨジョミルも、言葉が届かなくなっている。
変化もあるが、彼女は一切、自分を守っていない。
この争いの後に残りたく無いのだろう。
そしてそれは、ニナンの岩窟から這い出てきた、新たなモノを見て決めたようだ。
自分と同じ、屍を使うモノが上に出てきた。
ニーカとリャドガ、フィグ・ダウラ、元の住人達、擬き。
それではない。
命を混ぜたそれらイオレアの残りではない。
呼び出された屍だ。
つまり、奥方の皮を被った最後のセネスが上がってきた。
すると変化はすぐに現れた。
フィグ・ダウラやニナンの住人らしき者を除いて、その多くが融合したのだ。
フィグ・ダウラは新たにわかず、ニーカとリャドガ達はツアガの者を見つけると融けた。
だからといって、彼らが元のイオレアにはならない。
奇妙な肉とうねる触手の化け物だ。
人の形は無い。
人の形をしているのは、岩窟から這い出す屍だけだ。
結局、ヨジョミルと獣人が小島を守り、ツアガの住人、イオレアはイオレアとして終わるのだ。
元の姿からはかけ離れていても、それの元はイオレアである。
多くのイオレアは島に向かうべくヨジョミルを避けてツアガの橋から向かう。
この動きに合わせて、ニナンから屍がわいたのだ。
ヨジョミルは大量の屍に立ち向かい。リクス・ツアガ達は結局、流されるように東から回り込もうとする同族イオレアと戦う事になった。
その戦いに飲まれた公爵とニルダヌスは、極夜の外周に流されている。
「そこの岩影に、そうです入ってください。」
ニルダヌスに言われ岩の窪みに押し込められる。
蓋をするようにニルダヌスも潜り込んできた。
「どうした?」
すでに声も枯れていた。
水が飲みたいと思ったが、錯覚だと思えば耐えられる。
「たぶん、最後の霊素がきます」
隙間から空を見る。
何かが見えた。
渦を巻く雲から何か黒い物が落ちてくる。
「あれは何だ?」
「わかりませんが、気持ちの悪い気配です。霊素があがる前触れだとまずいので。暫くは隠れていましょう」
「皆、どうしているかな」
「どうもしていませんよ、殺しても死なない奴等ばかりじゃないですか」
「傷は大丈夫か?」
「出血は止まっています。活性しないのはわざとです。霊素のせいで感覚がおかしいので」
「また、痛むのかな」
「まぁそうでしょうね」
「酒がほしいな」
「まったくです」
一瞬の間。
時間が飛んだ。
次に息もつけない風圧。
天から降った漆黒の柱が地面に突き立つ。
岩窟と砂浜の中間が抉れ。
その衝撃で辺りの異形は吹き飛ぶが、その後に動きはなかった。
目に見える動きはだが。
柱を中心に狂気の霊素が溢れた。
***
足場をなくし落ちていく。
夢だ。
気がつくと目と口を開いたまま岩肌にもたれていた。
視界にニルダヌスの姿が無い。
幸いにも異形の気配もだ。
ただ、視界が悪い。
赤黒い霧が明滅して岩場を覆っている。
声を出して相手を呼ぶのは憚られた。
唾液を吐き出し、耳をすます。猛烈に気持ちが悪い。
幸いだと思うことにした。
これが多幸感や爽快であったなら、人間ではいられない。
感覚のおかしい手をみれば、神の言葉は刻まれ、肌色は更に青く濁っていた。
頭部や顔を探る気はおきなかった。
見えなければ気にならない。そんなものだ。
ただ、イオレアやニナンの異形と間違われないか気になる。
四肢は見る限り人型だ。
岩場の隙間から体を押し出す。
自然の音だけがする。争いの絶え間ない音が、今は止んでいた。
すると風が吹いた。
南でも北でもない、東からだ。
ちょうど公爵の背後から風が吹き付けた。
赤い霧が流れていく。
燻る城の煙もだ。
たくさんの異形の死骸に、砂になりつつあるフィグ・ダウラ。すこし足場が高く傾斜をもっていたので、入り江が見えた。
皆、動きを止めていた。
あの突き立つ楔から波状に異形が倒れていた。
柱は鏡のように景色をうつしていた。
動きの無い柱だが、天から降ってきた異物だ。
その回りに倒れていた屍も骨も、更に禍々しく変化していくのが見える。
それと同じく、背後で唸る声がした。
振り返るとニルダヌスがふらついていた。
元の姿と大差ない事に安堵する。
多少の差異は自分の異相にくらべれば、見間違え程度だ。
「大丈夫か」
「主殿は」
「生きているな」
「腐土に似た物があります」
徐々に意識を取り戻し、争いが再び始まりを見せた。
「場所を変えましょう。もっと東の海側に、あの傾斜の部分なら見張らしもいい」
今のうちにと、東側の山脈につらなる岩肌へと動いた。
「腐土で環境が悪い場所には、必ず奇妙な彫刻の柱が生えるんです」
「彫刻が生える?」
「どう見ても自然物ではないのですが、ある日、それが出現すると空気も土も汚濁していくのです。毒でも吐き出してるのかと調べるのですが」
「わからないのか」
「わからないですね。目に見えない毒の可能性もあるでしょう。あれもその類いで、回りに影響を与える。内容は霊素という奴でしょうね」
「神は敵に塩をおくっているのか」
「我々にもでしょうか。極端に力が増強されています。まぁ反比例するように思考が平坦になっています。種族個体ごとに影響がありそうですね」
「なぜ、こんなことを」
「まぁあれでしょう」
ニルダヌスが指差したのは、あの小島の神殿だ。
極夜にて浮かび上がった神殿へと至る道。その長い階段には多数の獣人族と追い縋る異形の姿が見えた。
屍は山となり、血は川のように流れている。
「勝負がつく前に、すべてを吐き出させるためでしょうか」
「赦しなく刈り取る為にか」
「そしてあちらを」
霧の合間から立ち尽くす女の後ろ姿が見えた
足元には根がはり、まるで草木のように変化していた。
「あの様子、どういう意味かはかれませんが、戦いは終わりに近いと」
徐々に入り江は再び争いに飲まれていく。
ヨジョミルが倒れれば、全てが小島に向かう。
その小島、神殿を見る。
ほぼ、兵士は擬態をといて大山のような姿だ。
一番上にて剣を扱う男も、獣面になっていた。
男が剣を振る度に、風が吹いたように敵が千切れ飛んでいく。
彼は徐々に下に降りていく。
仲間を掻き分け、下へ下へと。
「何だ?」
「ヨジョミル殿が」
全面で支えていた彼女が振り返る。
ぐるりと辺りを見回して、近寄ってくる男に微笑んだ。
そして扇を畳むと天を仰ぎ。
その姿は白くなった。
足元から干からびるとそのまま動かなくなった。
すると彼女の呼び出していた死霊が、すっと地面へと消えた。
それまで塞き止められていた屍の軍勢が走り抜けていく。
まっすぐに小島へと走っていく。
埋め尽くす勢いで屍と異形が押し寄せる。
それは思うより早く浅瀬を通りすぎた。
だが、そこまでだった。
小島に手をかけて這い上がろうとした屍は、崩れた。
ならぶ死骸を押し潰して這い上がった屍は土に。
それでも押し寄せる屍は、男が前に出ると動かなくなった。
向かってくるのはイオレアと異形の生き物だけで、屍は力を失った。
「どういう事でしょう」
「契約が終わったのかもしれない」
「契約、ですか」
「ヨジョミル殿の契約は終わり、解放された。
条件はわからないが、負けた訳では無いと思う」
男は神殿の階段にじっと立っている。
押し寄せる屍は、男の前で動きを止めた。
あぁ壊れる。
まるでため息をつくように、ヨルガン・エルベが作り出した幻想がひとつ壊れた。
ふっと優しいため息をついて、彼女は砕けた。
そうして巫覡は砕け、古き約束の一つが終わった。
「もうイアドの罪人は、残り一人を除いて吐き出されたのかもしれない」
少なくとも、ヨジョミルにとっての死とは、許しだ。
彼女は許された。
そして彼らは、
「許されないという事ですか」
「そうだね、もう、許されない」
ヨジョミルが砕け、一時勢いを増していた亡者のわきが止まる。
代わりに、岩窟の一番大きな穴から、巨大な長蟲が飛び出した。百足のように多数の脚を生やし、巨大な子供の顔をした長蟲だ。それは口から糸を吐き出すと、足元で蠢く者共を巻き取り始めた。
イオレアであろうと何であろうと、見境なく繭玉にしていく。
争いの片隅で行われた事だが、徐々に暴れまわる異形の数を削り取っていく。
もちろん、その間も猿のような姿と融合した異形や、奇っ怪な者共と殺し合う。
背後の大長蟲。
神殿の足元で争う獣人たち。
頭が重く、それを見ながら公爵はぼんやりとした。
やはり夢の中にいるのだ。
恐ろしい夢だ。
だが、楽しい夢からの目覚めは、悲しみにで死にたくなる。
だから、こんな醜い夢ならきっと、安らかに目覚めるはずだ。
そっと剣の柄から手をはなす。
異形の固い表皮から抜けなくなったのだ。
「主殿、自分の呼吸に集中してください」
ニルダヌスが代わりに剣を引き抜いた。
「刃がもう駄目ですね」
「何を思って細剣にしたのか」
「まぁ使わないと思っていたんでしょうね」
「あれは何なんだ?」
大長蟲は繭玉を柱の回りへと積み上げている。
この大長蟲が這い出してきてから、ニナンの岩窟からわきが途絶えていた。
「あれは何だろうね」
「奴等の味方とも思えませんが、何をしているのかもわからないですね」
公爵は顎に人差し指を添えて、目を細めた。
悠長に考え込む場面ではないが、あの霊素の柱が気になった。
だが、考えたところでどうにもならない。
「とうとう睨みあいになりましたよ」
階段で獣人たちは壁になっていた。
イオレアの成れの果ては、屍の山になりながら攻めあぐねている。
ヨジョミルと結界が排除されたと押し寄せたのだろうが、守護者が正面にいる限り、あの場所にはたどり着けない。
死者と許されていないモノは排除される。
ここは神の遊戯盤だ。
守護者とは、頑健な騎士であり、万能の魔法使いだ。
ただし、盗られてはならない王の駒でもある。
当然の如く、敵は守護者を目指す。
そして執念深いツアガのイオレアは、守護者を迂回して何とか入り込もうとした。
昔、イオレアは入れたのだ。
結界が無い今、許されているはずのイオレアだけが到れるはずなのだ。
だが、もう彼らは
***
後から考えれば、極夜とは一夜の祭りであった。
長蟲は繭玉を積み上げ、生き残ろうとリクス・ツアガ達は動き回り、獣人達は血にまみれた。
これだけの話だ。
そして祭りの終わりなど、面白い事も無い。
何がおこったのか?
長蟲は繭玉を柱に捧げた。
どうなったのか?
柱は繭玉を飲み込み、樹になった。
白い繭玉が柱に吸い込まれる度に、黒い柱が変色して形を変えるのだ。
次にだ、異様な姿で戦い続けたイオレアの血を持つリクス・ツアガだ。
だが、柱が樹木に変化すると、彼らも変化した。
人に近しく獣族にも見える鱗の姿だ。
彼らは不思議そうに、柱の樹に寄り添った。
そうして、徐々に入り江は静かになった。
騒ぐのはイオレアと屍だけになった。
次に起きた事は、そう、女だ。
待ち人は、目にしてみれば小さな女だ。
その有様が異様で、ヨジョミルと同じく全身に入れ墨があろうともだ。
想像していたような巨悪でもなく、悍ましい怪異にも見えず。
古き時代の裝束をまとった小さな女だ。
まぁ女そのものが普通ではないのは認めるが、思っていたような怪物らしい姿ではなかったということだ。
だからこそ、薄ら寒いとも言えるが。
その女、中身が誰であるかはわからないが、女の姿をしたそれは穴から現れると遠くを見るように片手をかざした。
そしてニナンの岩窟から歩み出した。
散歩するかのように、頭上を飛ぶ生き物に手を振り、柱の樹に巻き付く長蟲の子供に微笑んだ。
彼女は久方ぶりに見る、鱗の子供達をながめると故郷の空気を吸った。
暴力の中を歩き、その右手には引きちぎれた残骸を持ち。
死体は長い髪をした男だ。
血塗れの男を手に、彼女は平伏すイオレア達を笑いながら踏みしめた。
行く手にある頭を潰し、胸を抉る。
何故か、あれほど暴れていたイオレアは、誰一人として抵抗できなかった。
小さな女は、支配する者であった。
そして支配者は、今生の守護者に相対すると、言った。
「お初におめにかかる。我は名も亡き者、此度が難儀、まことに申し訳なく思う。
今、我がここにある内に、儀式をば、おわらせたく思う」
「儀式とは」
「新しき形をつくる事である。
あれにある柱樹は、一時的な形ゆえ許されよ。
これは約定として先に、これを捧げさせてもらった故、地の底のお方もお許しになられた」
差し出された血塗れの男。
久しぶりに見る、人族の男に見えた。
今は頭部だけが、かろうじて人型を保っているが、首から下は無惨な有り様だ。
もちろん、極夜に曝された後に、それを見たところで誰も何も感じてはいない。
ただ、酷く場違いに見えた。
「誰だ?」
守護者の問いに、女は不愉快そうに首を掲げた。
「ニナンの代官といえばわかるか?
強欲な様は、あれにそっくりよ。虫酸がはしる。
まぁ、これで直系はすべて潰した。
もう終わりよ、めでたき事ぞ。」
女は果実を搾るように、遺骸の頭を握り潰した。
そうして遺体を捨てると念入りに踏む。
「解せぬ事ばかりであろうが、今暫し、聞くがよい。
今、我があるのは柱のおかげである。
これを呼び出すは、誠に危険。
だが、これほどでなければ我は黄泉より戻れず。それも一時の顕現。急がねばならぬ、無粋ではあるが、即始めるぞ」
そして幾度か、守護者と女の間で問答が繰り返された。
漏れ聞こえる言葉は、不思議と公爵と友人には、よく聞こえた。聞かされていたのかもしれない。
それを要約すれば、ひとつ、合意と神の許しが得られると、形が与えられるという。
犠牲を払い、神にこの世の決め事を作ってもらうということだ。
この世を作る法則。
天に陽が昇るように、雨が降り植物が育つ事。
炎は熱く、氷は冷たく。
人は愚かしく、命は尊く。
生きて死ぬ。
そうした普遍の約束だ。
イオレアという化け物。
リクス・ツアガという生き物。
要の樹。
そして異界の門。
形を決めてしまえば、それが当たり前の事になるのだ。
実に、簡単な話だ。
ここで願い出たる者は、守護者である獣人族だ。
助力を願ったのは、精霊種。
そして神へと助けを求めたのは、イオレアの長であるトスラト。
女はトスラトとしてここにいる。
贄は、イオレアの民と加担した者。
そして血を流すのは獣人族。
儀式とは、癒やす者の意味はと考える。
癒やす者はヨジョミルであり、門となったトスラトであり、ツアガがイオレアに飲まれる迄の時間。
イオレアという生き物。
リクス・ツアガという生き物は、新しい種族となる。
要の樹は、門を守る者になる。
それでどうなったのか?
「では今生の守護者殿よ、存分に楽しむがよい」
***
女だったモノは崩れた。
ヨジョミルと同じく白い姿となり、音をたてて崩れる。
だが、それは崩れた後に、再び姿を戻した。
男だ。
水の底から浮かんでくるように、徐々に形を露にしていく。
灰色の彫像のような姿は、目を閉じていた。
長い髪は風に揺れ、体を覆うは鎧武装。
相対する守護者と同等の大きな姿だ。
だが、それは全てを露にすると、再び姿を変えた。
それは朽ちて骨をさらし、今再び戻ろうとした。
だが、人に戻る事はできずに、干からびた骨に不定形の肉が巻き付いた怪異になった。
四つ足の獣にも見えず。
眼球の奥は見えず。
肥大した蛭に無数の骨が突き出たような、奇妙な姿になる。
それに今まで沈黙をしていたイオレアが目覚めたように吠えた。
彼らも再び人の頭部のようなモノが生え、ひび割れた顔に大きな口が覗いていた。
目も鼻も朽ちて干からびている。
だが、その体は無数の蛭が巻き付き、粘液を落としていた。
それらはすべて、守護者と神殿への、門への道を塞ぐ者へと襲いかかった。
この世の理により、彼らも又、再び門へと入る事ができる。
なぜなら、女と守護者の新たに定めたからだ。
これにより、許されずとも彼らは門へと向かう。
新たな約定で穢れを追い払わないのか?
当然、守護者と異形は刃と爪を交わし、獣人達は、押し寄せる化け物どもと喰いあい始めた。
それは無秩序で野蛮、見ることも厭わしい殺しあいだ。
当然の結果である。
だが、それを避けなかった理由はある。
新たな約定が作り出した答えは、あくまでもこの世の存続、理に馴染ませるためだ。
熊がでるから、神に熊という種族を無くせと頼むか?
鼬が作物を荒らすから、鼬から鋭い歯や爪を抜いてくれと頼むか?
失わせない事で、取り戻せる事もある。
許しではない。
彼らはイオレアを人ではないとした。
「さて、柱樹とやらに向かおう」
「死にますよ」
「彼らを見てから死のう」
その子孫である自分達は、とうの昔に、人間性を失っている。
同情するどころか、喜ばしくて笑いそうだ。
公爵は皮肉な気分に口を歪めた。
「あれが我らが祖であるモーデンか」
「主殿、主殿は東の種ではないですか」
「もちろん、東の種族で西からやってきた。だが、どこかで混じっているだろうさ。私も悍ましい姿であろう」
柱樹を長蟲に向かって歩きながら、公爵達はゆっくりと進んだ。
物陰に隠れ、死体を避け、動き回る者がすべて神殿へと注力しているうちにと回り込む。
ニルダヌスは、拾った大ぶりの斧を片手に、もう片方で公爵を掴んでいた。
公爵は剣を捨てて以来、新たな得物は持たなかった。
「悍ましくはありませんぞ、立派な巻角に顔もお変わりなく。我らが異相より何の違いもありません」
「角な、少し頭痛がするのはそれか」
「二日酔いでは?」
「確かに」
積み上がる繭玉と張り巡らされた糸。
それを避けるように進むと、リクス・ツアガ達が見えた。
「君達の仲間に近い姿だね」
「確かに、ですが人らしい思考があるでしょうか」
柱樹を囲む尾の長い鱗の生き物達。
人の姿の面影は見えず、賢い黒い瞳と鋭い爪の前足をした爬虫類に見える。
男女の区別と鎧は残っていた。
骨のように見える鎧だ。
時折、槍と剣を持つ者もいたが、それで彼らを見かけても攻撃する素振りはなかった。
「主殿、あれは城にいた翁ではないでしょうか?」
神殿の階段、中程で絶叫が上がる。
武器にて斬りつけられたモーデンが腹から体液を吹き上げていた。
「どれだ?」
醜い鳴き声に気をとられた公爵が尋ねると、ニルダヌスが指を指した。
柱樹の側に、蓬髪をたらす姿があり、その側ではおとなしい表情の小さな姿が佇んでいる。
姿はすでに人ではないが、どこか穏やかで安らいでいるように見えた。
あぁ許されたのだ。
と、公爵は思った。
種として人では無くなってしまったが、人の苦しみから開放されたのだ。
失った悲しみと苦痛から開放されたのだ。
羨ましい事だと、思う。
その彼らが集まる柱樹、赤い雲に突き立つ柱は、徐々に畝る大木の幹になっていた。
中程に穴を開けて陣取るのは、子供の顔面をした巨大な長蟲だ。線毛のような足が無数に突き出しており、それぞれに蠢く。
未だに糸を吐き出してはイオレアを繭玉に変えていた。
近寄れば、自分達も同じく巻き取られるかと思ったが、長蟲は濁った目を向けるだけだ。
「これは何なのだろう?」
柱樹から吹き付ける霊素に咽ながら、公爵が呟くと答えがあった。
かかさま
かかさまは やくそく やくそくした
ともだち
みんなやくそく したのに
ににさま しんだ
ととさま しんだ
ともだち いなくなった
かかさま かかさま
もどったもどった
しってる おまえ しってる
フィードウィンは おまえをたすけた
かわりに しんだ
かかさま
かかさまよぶのに
たくさんたくさんくろうてやった
フィードウィン しんだとき かかさま もどった
かかさま もどった
「どういう事だ?」
フィードウィンは やくそくをまもった
おまえのフィードウィンも やくそくをまもった
ととさま ころされた けど
かかさまがめざめた
おまえのフィードウィンも ころされた
けど かかさまは もどれた
だから おまえたち ゆるした
おまえたち うらぎらなかった
うらぎりもの しねしねしねしね
「お前はアレの子か?」
それに長蟲は笑った。
ぞっくりと揃った牙が光る。
あれはににさまのおや
われのえさ
「変化しそうです、こちらに」
激しい争いに小島の地形は崩れ、神殿への階段も倒壊していく。
ただ、頂点に位置する場所の次元が違うのか、下が崩れても落ちてくる様子はない。
かわりに、守護者へと挑んでいたモノの姿が更に醜く変化し始めていた。
辺りに散らばる屍を取り込んでは、肉の鎧にしているのだ。
四つに這い蠢いているが、どれが生き物としての機能をもっているのかつかめない。
腸らしきモノにも小さな口が見えた。
対する守護者も徐々に獣の姿になっている。
いずれにしても、公爵のような小さな存在は近寄れもしないだろう。
「体が馴染んできていますね、困った事です」
「戻れないだろうか」
「戻れたとして、これらの力が急に抜かれては、きっと死にかけるのではないでしょうか。飲まず食わずと神の力で押し留めているのでしょうが、ただ、戻れるとは思えない」
柱樹の裏に移動していく。
と、その樹木の根本に一人、男が横たわっていた。
「なんと」
思わず公爵は声に出していた。
それに頭上から言葉が落ちる。
かぞく
ともだち
あいする ひと
すべて ない
くるしい
おまえたちと
おなじ
あれとはちがう
だから くわない
だって
ゆるしはいらない だろ
ミダスを前に、公爵は情けない顔を隠せなかった。
倒れた男は酷い有様であった。
だが、生きている。
許されたくなくて生きている。
息を確かめるニルダヌスを見ながら、公爵は戦い続ける姿を見上げた。
無数に、蟻のように黒い姿が獣人達へと殺到し続けている。
殺されようと投げられようと、繰り返し繰り返しだ。
肉を断ち拳で殴り、牙で噛みちぎり。
その中心では血と肉を削り合い、噛みつき掴み合う守護者と異形の姿が絡まり合っていた。
「守護者が負けたらどうなる?」
長蟲は笑う。
「どうなるんだ?」
重ねて聞くと、機嫌良さげに長虫は目を回した。ぐりぐりと回しては、ひきつった笑いを口から吐いた。
かかさま やくそく
それに公爵は、先程、漏れ聞こえた約定を思い出した。
これは祭りだ。
神が望んだ新しい約束を祝う祭りにすぎない。
獣人が死んでも、守護者が死んでも、イオレアやモーデンが生き残ってもいいのだ。
結果は決まっているから。
イオレアはイオレアである。
そしてあの亡者は、亡者である。
カーンが守護者として死んでも、獣人の兵士達が死んでも。
もう、結果は変わらないのだ。
あの門に、イオレアが、そして最後のセネス、モーデンが到達しても、門は壊れない。
門は、不安定な異界への裂け目ではない。
理の一つだ。
再定義。
不安定で中途半端な要素を廃したのだ。
もう、何が起きようと、門は壊れない。
そして門を越え、先に進めばどうなるか?
再定義。
思い至り、神の慈悲と異界に落ちた女達が悲願に思い至る。
「どうしたのです?」
問いかけられて、ニルダヌスを見る。
「これは祭りだ」
首を傾げるニルダヌスに、公爵は目元を覆うと言った。
「門は壊れない。
あれは国境を隔てる柵だ。
渡ったところでどうという事もない。
この世は壊れもしないし、毒が吹き出すわけでもない」
「あの先は何処へ」
「何処でもいいのだ。取り残された子供が、産みの母親の元へと行き来できるようにと。つまり、かかさまがな門を守った」
当然、その子供を殺し食らった者共は、呪われたのだ。
「後は、卿が答えを返すまで生き残れるかだ。だから、これは祭りで、あの化け物は救われない」
暫し、ニルダヌスは血煙に目をあててから頭を振った。
「難儀な事ですが、つまり、この化け物どもは、これからもこの世界にあるという事でしょうか」
動揺が静まると、公爵は答えた。
「この長蟲殿でさえ、残るだろう。
極夜が終わった後、我らもどのような姿になって残されるのか、少し楽しみだ」
何であっても、生きる楽しみがあることは良いことだ。とニルダヌスは頷いた。