流浪の女 裏-2
ニナンの洞穴から風が吹き抜け、楽器のように大気を震わせた。
白い滝のような霧が洞穴に雪崩落ち、その風に吹き散る。
山城は明かりひとつ無く、エレッケン城の方角は、何も無い。
その空白は罠にも見えたが、ヨジョミルがツアガを見捨てただけである。
ヨジョミルは自分が立ち入れるようにしてもらった陣地にて腰を下ろすと笑った。
これで魂が砕けるまで、皆殺しにできる。
セネスの一族全てを、これでようやく滅ぼせるのだ。
守るべき約束を、先に反故にしたセネスの一族はこれで終わる。
当然の報いをやっと受けさせる事ができる。
まずは巨大なフィグ・ダウラの群れを押さえ込める重歩兵を召喚する。
肉のある形が良いし、耐久力の高い死体を選ぶ。
次に火を扱える特別な死体だ。
死体が火を扱う事は難しいが、元が魔導の者だと高位の死霊となり耐性があがる。
これを限界の数で置く。次は..
ヨジョミルは杖を掲げながら、楽しげに死霊の軍団を配置していく。
砂地を埋め尽くす勢いで兵士が並ぶ。
彼らは数と動きの素早さが長所だ。
子供が遊ぶように、召喚を続ける。
すると入れ換えの気配がした。
この領域が一段上の構成に変化していく。
大気は霊素に満たされ、秩序の書き換えと閉鎖が行われる。
霊素は赤く、領域の隔離と共に流れを止められた魔素が白く広がる。
その変換と共に、ヨジョミルの姿も変わる。
儀式装束の死人から、禍々しい呪詛を刻んだ妖魅にだ。
人間に近しい形をとるが、もとから前の生き物である。三つ目に曲がり角、肌を埋め尽くす入れ墨は、地獄の者を思わせた。
凝った作りの扇をもつと、己が軍勢を見回した。
ひっそりと立つ兵士の姿も、それに合わせて変化する。
それまでの木偶人形に仮初めの魂が宿ったのか、個性豊かな死霊が見えた。ひとつとして同じ姿は見えず、いずれも野蛮。それらも人のようで人ならず。かつてこの女と戦い破れた者共であろう。
今までならば、神に門に人にと祈った。
嘘をついて。
寛容であると。
殺しても殺しても繰り返すのは、神の罰。粛清したところで復活させているのも神。
そして慈悲だとこのような約束ごとを作り出した神の僕、逃げ出し振り出しに戻そうとする輩。
なぜ、我らも苦しまねばならぬのだ?
被害を受けた者を、なぜ、罪人と共に苦しめるのだ?
憎い、心底憎い。
ヨジョミルは、繰り返される時のなかで考えた。
自分が選べる復讐の手段を。
始めに、山向こうから送られる生け贄の娘を一人欲した。
そして従わせる為に、一つ願いを聞いた。
娘の望みは家族と暮らすことだ。
だから、たった一人の肉親である兄を呼び寄せる。
家族と暮らせるようにと施し、二人に力を与えた。
そして見返りに頼んだ。
種まきだ。
ヨジョミルが集めた種だ。
毒ではない。
死をもたらすものでもない。
誰かを直接、傷つける事は無い。
ただし、必ず植える場所は決めていた。
東西南北、守護者の側に。
種は不安と苦痛と恐怖を糧にする。
黄泉にて怨嗟を吸い上げる花だ。
岸辺に繋がる事を許されたヨジョミルの力だ。
花の種をまく。
痛みを伝える為に植えた。
だが、種を利用しようとする者がいた。
ここでもセネスだ。
モーデンが種に気がつき、その性質が株の代替えになるのではと考えた。
元に戻りたいと考えたのか。
許された故に学べなかったのだ。
馬鹿なことだ。
ヨジョミルは、種に自分の怨嗟を込めていた。
セネスに祝福など与えない。
故に、種を株として戻した男は死んだのだ。
種を元にした株は、その後も使われた。セネスを崇めるという愚かしい行為だ。
結果、守護者は死んだ。
後悔も悲しみもない。
憎かった。
だが、戻ったモーデンの亡骸が、彼らを滅ぼす事になった。
やれ、めでたき事だと歓喜する。
この夜で終わる。
自分達だけ地獄に取り残されるのではない。
蛆のごとくわく地下のモノも人間と勘違いしているツアガも道連れだ。
幸いだ。
あの優しさを履き違えた守護者が死んで幸いだ。
むろん、ヨルガン・エルベの支配を受ける身である。
地の底の神も知っている。
導いたのは邪神である。
結局、慈悲など無いのだ。
間違いを犯した時から、守護者共々、神は罰を与えたのだ。
救われたいと、モーデンも考えたと、憐れであると思うべきか?
冗談ではない。
一族郎党、種族ごと滅んだ。
その滅びを繰り返し与え、苦痛の場に留めた者をなぜ許すのだ?
許したおかげで、新たな命も犠牲になった。
憎しみの対象は、セネスだ。
新たな命も、犠牲になる生け贄も憐れと思う。
だから、この後、獣の男が守護者になっても格別何も思わない。
自分達を見捨てた輩でなければ呪いはしない。
深く息を吸い込む。
未熟な守護者を思い出す。
エイジャ・バルディスの娘を見てみたかった思う。
知っていた。
エルベも知っていた。
娘が神の生け贄になる様を見ていた。
死の淵を歩かせながら、娘を見ていた。
幸いにも守護者が死んだ後の事、ヨジョミルの憎む相手に入らなかった。
さてと、グリモアの欠片であり黄泉と繋がる女は扇を振った。
島を囲むようにして、大号令を発する。
ヨジョミルが滅びぬ限り、死者召喚の無限地獄の再現だ。
相対するニナンの岩窟からは、異形の頭部が見え始めていた。
宴の始まりに死霊の兵隊が武器を抜いた。
***
フィグ・ダウラ、氷の巨人。
青い皮膚に三つの顔、二つは人のようで残りは異形。
多肢多腕、少し長い正面の手を着くようにして歩行する。
「大きさは違いますが、南の巨大な猿に似ています。攻撃方法も原始的で、大きさと数以外は驚異でありませんね」
縮尺を間違えているような錯覚おぼえる景色だ。
巨大な異形が高速で走り寄ると、その半分もない死霊の兵隊とぶつかる。
砕け散る死霊の群れだが、一瞬で復元すると暴れまわる巨体をつかむ。蟻のように集り、肉を抉り千切る。
一見すると死霊の兵が不利だが、無限復活をする死霊である。
骨が砕けても血肉であろうと巨人に集り進行を阻む。
おかげで境界線は保たれているようで、どちらも後退も前進もしていない。
「初日でこれか」
ニルダヌスの解説に、ターク公は無駄な消耗戦を目で追う。
「フィグ・ダウラは、最初の重歩兵のようなモノで、このあと融合していない本体がわくそうです。
その後は潮の満ち引きのように、繰り返されるとか。
今回は長丁場ですので、霊素の関係上、別の攻め方があるやもしれません」
「飛ぶものはいるのかい?」
「わかりません。それも霊素と呼ばれる領域の濃度で変化するそうです」
眼下のヨジョミルを見れば、変化がありそうである。
階下の城の様子も、こんな突端の牢獄まで聞こえてくるのだ。ツアガも今、変化しているのかもしれない。
それともヤンが取り繕うのを等々やめて、大手を振って殺害し始めたのかもしれない。
「霊素ね、感じるかい?」
「感覚器の増大と肉体活性に奇妙な違和感を感じます」
「霊素が抜けた後、急激に消耗するとかあるのかな」
「それもわかりませんし、この仕組みがどう作用するかもですね」
ズシンと揺れが来る。
建物は壊れていないが、覗いていた窓から離れ南側の小窓にうつる。
城塞の外殻にフィグ・ダウラが到着したようだ。
「リクス・ツアガが出ていますな。影竜騎士は防備に回したようですね。どれどれ」
ニルダヌスは再び西側の窓を覗いた。
「橋を補強しています。消耗するのを待ってからツアガは島へ渡るかもしれませんな」
「だが、あの光りの幕があるんだろ」
「あぁあの結界も万能では無いといっていましたよ」
「どこでヤンは聞いてくるんだ?」
「翁からだと」
「脅したのか」
「そうでもなさそうで」
見守るも、決着のつかない戦いを繰り返してきただけはある。
波のように戦うのをやめると、両者は自陣の位置に退く。
三度繰り返されるうちに、ニルダヌスに促されて南側の窓に座る。
「あれが切っ掛けになるでしょう。橋の復元が終わりツアガが動き出してからが本番です。」
良いのだろうかと思いつつ、酒を飲む。
階下からは断末魔らしき声が多数続いていた。
「君も飲みたまえ」
「ありがとうございます、どれにするかな」
「彼らは何をする気だろうか」
「そもそも情報が少ないですね。バルドルバ卿はご存じでしょうが。まぁ単純に考えれば、あの島の陣地を守れば良いようですね。神からの仕事の内容は、わかりようもありません。
あの島、今は神殿ですか?それを守れというのが神の御意志?という感じだと考えています」
「それで赦しは得られるのか」
「さぁ?
水源管理のツアガは領地経営もできないのですから、そちらは外道が処理をし、卿の配下がここを焼くでしょう。信書も亡骸とはいえ、お渡しできましたし確認も終了。地元の反乱平定を今、行っている。充分でしょう、後は当初の目的のみ」
「まぁ表向きはな」
酒で舌のすべりが良くなったのか、補修作業をする者どもを見ながら続けた。
「表向きの仕事は終了ですが、卿が渡りをつけたいのは神であらせられる。邪魔な者どもを始末するなら、漏れのないようにせねばなりません」
「経験則か?」
「主殿ならお分かりでしょう。寛容と思われている支配者は、無能か嘘つきが相場です。徹底できぬ軟弱さは不要」
「確かに、耳が痛い」
「懸念があるとすれば、東から戻ってきた輩の動きとツアガの動きですな。酒瓶はとっておいてください。外の安い酒に詰め替えますんで」
「飲むのか?」
「いえ、嫌がらせに火炎瓶を投げてやろうかと」
「楽しそうだな、それ」
***
巨人が押し寄せる、ヨジョミルが迎え撃つ。
エレッケンの外殻が傷み、砂地に浅瀬ができては退く。
繰り返すうちに、巨人の出現がとまる。
すると唐突に変化が起きた。
ニナンの洞穴から黒い煙があがったのだ。
暗い世界だったが赤い光に、白い靄が漂うので、その黒い煙が良く見えた。
もちろん、たまたま、火炎瓶の作業をしていたニルダヌスが、東を向いていたからである。
そして、それを目にしたニルダヌスは、すぐさま窓の鎧戸を閉めた。全ての鎧戸を閉めると、驚いている公爵を毛織りの布で包み込んだ。
部屋の壁に張り付き、じっと閉じられた鎧戸をみる。
問いたださずに、ターク公は黙っていた。
ニルダヌスの形相が許さないのもあるが、不穏な叫び声がいつにもまして城中からあがったからだ。
遠くに聞こえていたものが、壁を通してより近くで断末魔となり聞こえた。
ニルダヌスの警戒具合も、見たこともないほどで。ほんの小指ほどの小さな蝋燭も瞬時に消しているところから、見られてはならない何かが来たのだろう。
息を殺し気配を探る。
嗜みもない公爵には、敵の気配などわかりようもない。
代わりに、ニルダヌスの耳がゆっくりと向きをかえていた。
フサフサとしてリアンが羨ましそうに見ていた彼の耳は、左側が千切れて欠けている。
それが東から南、西へと外を向いて動き、再び東へと向く。
人族の公爵には何も聞こえないが、ニルダヌスには何かが外を動き回っている事がわかっているようだった。
やがて外からも悲鳴が聞こえた。
位置からすれば、橋のあたりだ。
「大丈夫ですよ」
「下は」
「バルドルバ卿ならば平気でしょう。手前のヨジョミル殿の兵隊は元より生きてはおりませんからな」
それでもニルダヌスは公爵を壁におき、動かなかった。
「何なのだ?」
「細かな虫に見えました」
「虫だと?」
「南でも虫は即死する攻撃をしかける危険な生き物です。内側から食われる事も、卵を産み付けられる事もありますから。
食用に向く物も多くありますが、イアドから漏れ出す虫に害がないわけがない」
説明を聞くに、公爵は不快な死にかたを想像して身震いをした。
やがて外からボウボウと風が吹き抜けるような音がして、静かになった。
慎重に東の小窓を開けてみると、細かな虫は燃え殻となり辺りを漂っていた。
ヨジョミルが某かの手段で焼き払ったようで、大量の飛ぶ虫の後には追うようにして管虫のようなモノが溢れだしていた。
黒い穴から、あふれるように虫が流れてくる。
そこからは物量の押し合いとなった。
虫の流れと音が尖塔にも聞こえる。
それでも覗き込めば、橋を直していた者達が作業を再開していた。
人数は減っている。
ニルダヌスは消していた蝋燭に火を灯した。
そして襤褸布に火を移す。
そのまま瓶を投げ捨てた。
狙ってはいない。
「何をしているんだ?」
「餌の場所をわからせるのに投げています。しばらく、隠れていてください」
「見たい」
「人間は燃えていませんよ」
炎を目指す性質があるのか、光に反応しているのか。
虫の一部が橋に集まり始めている。
眺めているとエレッケンの外殻にて影竜騎士が銅鑼を鳴らしているの見えた。
音に合わせて火矢と投擲物をまいている。中々によく訓練されており、幾度も同じ戦いを繰り返してきたことがわかる。
あれが囮か。
と、ニルダヌスは思った。
たぶん、あのどこかで奮闘しているだろうミダスを思った。
ここまでは管理できている。
ただし、ここまでは想定内の戦いだ。
あちらにはトスラトの皮を纏った邪悪な男がいる。
自分を失っていた頃。
産み出されたモノ、支配。
ここの空気を知っていると思った。
普通の生活から落ちてしまった時に知った臭いだ。
「これがどのくらい続くのだろうな」
「全滅すれば直ぐにも、イアドの住人も殺し尽くせば」
「だが、本来なれば長くて二十日、それが三月か」
「夜は開けずとも、昼は止まると言われています。繰り返される戦いでお互いを削り合うのが作法とか」
「三月か、酒がもたぬな」
「ヴェスの年の極夜は特別だそうです、前は、あの木乃伊も生きて対応していたそうで」
鎧戸を再び閉めると蝋燭から角灯へと火を移す。
「今はまだ、この世界の魔素が濃く、我々は変化していない。
下の戦いも様子見にすぎないと。
私たちが気をつけなければならないのは、次の霊素の高まる時だそうです。
この霊素にて、館の守りが一時薄れるそうで。それまでにあの橋を治すつもりなのでしょう」
「それまでにヤンは粗方の氏族長を殺すのか」
「あの老爺の話を信じれば、正気の生き残りは彼ら二人だけだそうです」
「何故、生き残ったのだ?」
「あの老爺の血筋は四分の一だけツアガであり、残りが亜人と称しています。あの女の方は二分の一がツアガであり半分老爺と同じ種族であると」
「ツアガというが、それも東の混血のツアガであれば事実上、イオレアの血は薄いか。だが」
「亜人の相が強く出たからだと言っています。ヤンが嗅ぎとった限り、ツアガとは別の臭いがすると。まぁどれも胡散臭い話ですな」
「生粋のイオレアではなかったから、生き残ったか」
「まぁ生肉を喰う蛮族ではなかっただけでしょう。で、彼らが言うには、下の橋から島へと渡り占領するとの事」
「占領ねぇ、歩いて挨拶しながら上がり込むのか?」
「無理でしょうね。
ただし、ニナンがなにかを仕掛けてくるのも、次の霊素が高まる時です。
それまでにエレッケンの中身は空洞にし、ミダス達も数が減れば如何様にもなるでしょう。
それに元々、エレッケン城の人口は多くて三千もいません。あらかた死んでいますからね。
残っている人を称する輩を加えても、そんなものでしょう。氏族長で人語が解せる脳みそがありそうなのを、始末しながら探索。猶予は次の霊素が高まるまでです。
まぁ我々の滞在もそこまででしょう。」
「ここの中を見れるかな、できれば記録なども集めたいが」
「それは焼却前に彼らが行うでしょう。持ち出すことは無理ですね」
「伝令どころか交渉役にもならんようだな」
「仕方がありません」
「だが、本当に、あれがイトゥーリ・ツアガだったか」
「それはそれでどうでもいいのでは」
確かに、それは重要ではないのだ。
ここでコルテスが滞在し、ツアガの当主が死んでいると確認する形式が重要なのだ。
「まぁ希望だ。
腹が裂けて飛び出したセネス、否モーデンが、あの場所を目指していたならば面白かろう。」
「今も同じでは?」
やはり三日もすれば慣れる。
規則正しく繰り返される争いと変化。
その閉じられた輪の中で、公爵でさえ気がついた。
夜目がきく。
鎧戸を閉じれば漆黒の世界。なのに青白く明るく見えるのだ。光源の無い世界でも、余裕の行動ができる。
次に食欲もわかず、食べる回数が減った。
もちろん、寝る回数や必要とされる日常はいらなくなった。
「髭が生えないよ、嫌だなぁ」
「無駄がなくてよろしいのでは?」
「ヨジョミルの兵士は尽きぬか」
「まぁ泥仕合をお望みなのは神でしょうしね」
「最近、命中率も上がったかな」
「下の奴等も盾を背負うようになりましたね」
ヨジョミルも徐々に砂の足場に遮蔽物を作っている。
「気持ちの悪い海だな」
小島の背後にある海は灰色に濁って渦を巻いていた。赤い光が時折輝き、大波を作っていた。
そんな生活もいよいよ次の霊素があがる頃に、ヤンが戻ってきた。
井戸水を浴びてきたのか、全身濡れていたが相変わらず朗らかに元気だ。
それも尖塔の外壁を伝い窓を開けてだ。
徐々にこれも人外になっていくと思いつつ招きいれる。
勝手に家具を叩き壊すと暖炉にくべ火をおこした。暖をとる相変わらずの男に、ターク公は問いかけた。
「もしかしてお迎えでしょうか?」
それに鼻で笑って答えると、ヤンは懐から革の手帳を取り出した。
ニルダヌスに渡して、そのまま火にあたっている。
革の手帳に何も仕込まれていない事を確認すると、彼はそれを公爵に手渡した。
手帳は紐で閉じられていた。
紐を解き開く。
一頁目
アリアンへ
隠し通路を書いておく。
もしもの時は頼んだよ。
いろんな事が手におえないと感じるよ。
意識も時々もっていかれるんだ。
だから、きっと隠し通路をつかうと思うんだよ。
僕から漏れて彼に伝わっちゃいそうでね。
まぁ結界がなくなるのは、ほんの一瞬だし。
それが何日も続くのはヴェスが来た時だけだから、一応ね。
ミハエル
簡易な線で描かれた地図だ。
二頁目
アリアンへ
驚いたよ。
館に入れないんだ。
鍵がかかっている訳じゃない。
敷地にも入れない。
橋もダメだった。
僕のかわりに彼女の様子を見てくれるかな。
やっと歩いていったんだけどね、近づくと僕は痺れて動けないんだ。
僕は、ダメなんだ。
とうとう、僕は
館に色々運んであげてほしい。
誰も彼も、無駄だというけれど。
これが順番だよ。
忘れないでね、僕が忘れても、忘れないでね。
供える品物の名前と、祭壇の順番が書かれている。
三頁目
僕を使う事にしたよ。
お母様と彼女のお願いを叶えるには、これが一番だと思うんだ。
それに彼に伝わるのも、彼に利用もされたくないんだ。
お母さんと彼女を。
アリアンたちも助けなくちゃならないしね。
でも、本当の理由は、あの人と同じになりたくないんだ。
意識があちらに引っ張られるんだ。
僕は、お母さんの息子で、アリアンの弟分でいたいんだ。
アリアンへ
契約書の場所を書いておきます。
ベルウルガには内緒に
悪い人じゃないけれど、彼に知られると筒抜けだからね
四頁目
アリアンへ
船に乗る手順だよ
紹介状と鍵だ。
まぁ鍵といっても使えるものじゃないよ。
これは鍵の形をした僕だ。
僕が忘れてしまっても、ずっと側にいるってこと。
どれだけ内緒にできるかが重要なんだ。
とってもね。
そう、これでやっと終わるんだよ。
アリアン達が怖がらずに暮らせる。
それにもしかしたら、向こう側に帰れるかもしれない。
だから、大丈夫だよ。
紹介状には、従姉妹だと書いておくから、西の子達に混ざるといい。
またね、アリアン
君の弟分のミハエルより
その次の頁から、城の構造の詳細と様々な景色が描かれていた。素描は多岐にわたり、小物から人物、動植物まで描かれていた。
「これは?」
公爵の言葉に、乾かす手をとめてヤンが答えた。
「最後の方だ」
頁をめくる。
最後の数枚に詳細な家系図があった。
イオレアの一族。
山を越えたセネスの一族。
付き従う氏族たち。
領地の異種族の首長たち。
「たぶん、そこに名前がある。
覚える為に記して、アリアンって子に渡すはずだった。
本来のツアガの直系、正確には残されたツアガの子供ではないが、異種族の女が産んだ何かだ。
姿は同じだったってさ。
爺が言ってた。
自殺したことになっているが、正妻の儀式を補完するために供物になったそうだ。
トスラトを母親と慕っていたそうだ。産みの化け物よりもな。
立派だねぇ、生き残ってる塵どもなんぞ何の役にもたちゃしないのに、んでこれ」
ヤンは黒い鍵を取り出した。
「どうせ暇だし、見に行こうぜぇ」
「何故?」
「この子供は鍵を残した。
爺は俺にこれを寄越した。
たぶん、そこには何かある。
爺は、自分の一族を掃除しても動じちゃいねぇしな」
無言の公爵に、ヤンは笑った。
公爵は目を細めた。
ターク公が手帳の続きに目を通すのを認めると、ヤンはニルダヌスに口だけを動かした。
(公爵の逃げ道の確保だ、その手帳と鍵は脱出用のだ。向こうと合流できなくても使えってよ。ナシオの旦那の命令)
不審のニルダヌスの表情に、ヤンは焦る。
だが、彼の頭頂に居座る花が葉で丸を作っていた。
それを見て余計に眉間にシワを寄せたが、一応ニルダヌスは頷いた。