ACT297 流浪の女 ①
満ちていた潮がひき、エレッケン城まで砂地となった。
潮風は冷たく清浄で、朝を待つ藍色の空も美しい。
夜の支配が近いのか、弱々しい朝の気配を眺めながら、カーンは考えていた。
答えは示されている。
自分の命を差し出して乞う。
問題はそのやり方だ。
「あれがツアガと殿下が敷いている結界ですわ」
明け方の露台に、ヨジョミルと出ていた。
夜明けと黄昏に、滅びの館に張り巡らされた結界が見えると言われたからだ。
確かに奇妙な物が薄闇に浮かぶ。
館に橙色の糸のような物が巻き付いている。
それが息をつくように収縮を繰り返していた。
水中の海月のような、いや、もっと不安で奇怪なありさまであった。
「人間は通れるのか?」
「壁ではありませんのよ、アレは異物を捕らえる網ですの。」
ふわふわと浮かんで煙のように館にとりついているが、時おり棘のように突きだしたりと蠢いている。
「アレも極夜にはもっと動きが激しくなります。通るにはエレッケンの通路からになりますわね」
「エレッケンを通らずに進むには?」
「簡単です、引き潮の間に、主殿らはまっすぐ向かうだけですわ。」
「結界があろう」
「アレはニーカとリャドガを拒むだけですわ」
「それは広義の意味でか」
「そうですわね」
「エレッケン城からならば、誰でも入れるのか?」
それにヨジョミルは、底意地の悪い笑顔を浮かべた。
「わかっておいでの質問には答えませんわ。」
「お前はいつもどうしている?」
それに彼女は口を閉じた。
「ツアガもお前も、いつの間にか現状を受け入れているのだな」
徐々に明ける空に、結界が見えなくなっていく。
「いいえ、私はあの男とは違う。絶対に」
「では、お前から我らが行く事を伝えろ。セネスの血を持つ者がいることも含めてだ」
「疑いませんの?」
「お前も俺も皿の餌だ」
それにヨジョミルは、ため息をついた。
「そのお言葉が恐ろしいですわ。返書がくるまで暫しお待ちを」
ヨジョミルが何も無い空間に指を差し出すと、灰色の小鳥がとまる。
「お客の事を伝えておくれ、下女ではないよ、殿下にだ。見たままのお前の目を渡すんだ。返事をもらうのを忘れてはいけないよ」
そして飛ぶのではなく、さらりと小鳥は溶けた。
「さて朝の食事といたしましょうか。昨晩でお分かりでしょうが、ここの食材はいつも新鮮ですのよ。この地方全体が貧しくて飢えているというのに、怪しからん?まぁこれらは魔術でも呪術でも幻でもありませんのよ。
時間は閉じておりますでしょ。私たちは定めにより働きますが、その報酬を自分達では受け取れない。だから、たまのお客様にこうして振る舞うのが喜びですのよ。持ち出せないのが残念ですわ。そういうお約束だから仕方ない話ですけれど。でも、食べてしまえば力は働きませんから、ぜひにも沢山召し上がれ」
「それはありがたい」
「ふふふ」
ヨジョミルの姿を見送ると、護衛についていたエンリケとモルダレオが息を吐いた。
「大丈夫だ、今、嘘をつく事は危険だとあの女はわかっている」
「どうして危険なんです?」
「この土地全体が見られているからな」
「見られている?」
「罰を与えるために失言をまってるのさ」
顎をしゃくってみせる。飾られた鉢植えの低木に、二人はヨジョミルの執事を見つけた。
それは肯定しているのか、細かな触手を尖らせてみせた。
「さぞや愉快な見世物だろう」
露台から内廊の通路に戻り、左手、東側の通路に入ると複雑な階段に出る。
そこを東よりに進むと美しい装飾の通路に出た。通路には美術品や絵画が展示されており、その向かい側には商店のような物がある。
この山城は街を含む城塞というよりも城に街の機能がたされている作りだ。
小さな店には、真新しい工芸の品や細工物が並んでおり、ヨジョミルの言う通り、仮初めの時を生きていながら繰り返しでは無いことが伺われた。
エルベの力は、エイジャとは違った方向で強大であり干渉が強い。
力を使いこなせば、ここまでの事ができるのだという証明でもあった。
ここに囚われた者や指定された物品は繰り返し引き戻されるが、その労働により産み出された物や植物、自然なる物は今の時間にある。相反する時間の齟齬を、当たり前のようにしているのは、エルベが小領域を作り出す優れた力をもっている証明だ。
エイジャが補修し調和させる事に特化しているように、エルベは制限はあれど小さな箱庭を作り出せる、死を握る事により世界を作る創造する力だ。
神を越える事なき創造主、理を越えぬからできる奇跡ともいえる。
腐土、イアド、エルベの道、山城。
小領域を作りだし独自の生死と時間を創造している。
人は死ぬかもしれないが、もとよりエルベの領域は、すべて理を守るために作り出されていた。
(囚われた魂は、だからこそ当時の憎悪や悲嘆を忘れる事ができない)
沈黙していたグリモアが言葉を溢した。
ボルネフェルトではない、男の声。
久方ぶりの声だ。
東の空が徐々に朱に染まっていく。
通路の先にある大きな食堂へと向かうと人の気配が感じられた。
湯気のようであった城の住人が、徐々に厚みをましていた。
明るく暖かな気配と煮炊きの匂いが漂う。
(イオレアの民以外にも、あの時代には人と呼ばれる者たちはいた。
いま、この再現されている時は、当時のその人々だ。
よく見ておいてほしい。
彼らも生きていた。
身勝手なイオレアの支配者の下でだ。
この城の外、海の底となった場所には、複雑で高度な都があったのだ。
そしてそれは一瞬にして滅び、あの滅びの館、門だけが残ったのだ。
それまであった人の営みは消えてしまった。
愛も希望も、何もかもだ。
いまの形とは違うが、やはり、同じように我々は生きていた。
たった一人の選択で、すべてが壊れていく。
だが、そのたった一人を後押しする意思もあった。
それがイオレアというあの時代の支配者達であった。
忍ばせていた慈悲は、先に滅びていた。
貴様とアレの違いはひとつだ。
貴様は間に合った。
だが、あれらイオレアは先に滅ぼしていた。
わかるだろう、要素を同じくして繰り返すのだ。
この世界を保たせる人をつくる。
慈悲を忍ばせる。
牧夫を置く。
子供が積み木を積み上げるように、置いて確かめる。
前の者達は、すでに慈悲を滅ぼしていた)
大きな長い食卓がいくつも置かれており、煮炊きする厨房が西側にある。
食卓の一つにつくと、給仕がさっと配膳をしていく。手を洗う桶をもってくる下女も手際がよかった。
(私は納得ができなかった。
なぜ、イオレアのような不完全で醜悪な生き物を人の頂点に置いたのか。
私は幾度も試みた。無駄な神への問いかけをだ。)
そして牧夫へとお前は近づき、叡知を譲られ機会をまった。
死しても諦めきれず、イオレアの長命種の男を滅ぼすためにか?
執念深い事だ。
(私の妹は精霊種であった)
微笑んで給仕をしていく男。
この者は、イオレアではないのか?
(貴様達とも違うが、雛形は同じだ。短命種人族と亜人の中間だろうか。
見えぬだろうが、閉じた目が額にもうひとつ。手足の毛並みは少し長く、耳が良い。人族に近い暮らしをしていた。)
見つめるも、揺らぐ魂の姿に今の人との差異は見つけられなかった。
お前も、そう、なのか?
(私はイオレアの血を引いている)
ここでの混血は可能であったのか?
(不快な話ではあるが、イオレアは王種として統合した時の繁殖力は低く、混血は難しい。
その代わり、ニーカとリャドガは何者とも融合する事ができる。
寄り添い連れ添うのではないぞ、溶けて混じるのだ。
彼らの融合した者はニーカとリャドガであり、王種イオレアにはならない)
王種のイオレアはイオレアを産む、が混血はできなくもない。
ニーカはニーカ。
リャドガはリャドガ。
分離後の基軸となるイオレアは?
(繁殖力が無い。だから、ニーカとリャドガを戻してから繁殖する。ニーカとリャドガが失われれば、代わりのニーカとリャドガをつくる。
融合したなにかをもどして繁殖する)
モーデンは基軸のイオレアであったのか。
一人は故郷に、もう一人は封印されて融合している。
そう、融合だ。
それは元の人格や姿形ではなくてもいいのか?
(問題点が多すぎるだろう。どれほどおぞましい生き物であるかもだ。
そして例外は、ある。
貴様の知る、精霊種との混血だ。
私の親は精霊種の母と王種であった。
妹が精霊種なのはあたりまえであるが、私はイオレアの血を引いているはずなのに、イオレアの血から外れたのだ)
お前は何であった?
長命種のようにしか見えない。
(イオレアの元になった生き物だ。私は別に何者であろうとよかった。
イオレアのような醜悪な生き物ではないだけでも、救いであった。
私には、妹がいたからだ。
彼女は私の救いであった。
だが、トスラトが門に投げ込まれた時、巻き添えで消滅した。馬鹿な話だ)
環境が悪いといっていたな。
(大気の成分が変化した。この大地そのものが激しく変動した。神の代替わり、滅びの余波だ。)
遺跡にあった大気を濾過する装置がそれか。今、現在、それを雛形とした大気循環装置が南にはある。
汚濁や危険な粉塵、そして毒の大気を浄化している。
南領でも獣人のように体が強くなければ、生活できない場所は多い。
それ以上の汚染された大地だったのだろう。
そう都の地下の水も未だに飲め無い。
(その時の大気にあわせて誕生したのがイオレアである。
植物様をし、株と呼ばれる分離繁殖を可能にしたのも、選択肢を多くするためであった。
どうせなら、人の部分など削ってしまえばよかったのだ)
最初に出された料理は、新鮮な野菜を肉で巻き、香辛料で味付けをして火を通したものだ。このような最果ての化け物ばかりの土地でだされるにしては非常に良いものだ。城の主が言うように飢餓や貧困の気配を感じさせない豊かさだ。
(私が知る限り、あの滅びの館に入るには、エレッケン城の海の通路を通る以外にはなかった。
だが、その海の通路は、ああして愚か者どもの砂に埋もれてしまっている。)
きっとそれはエルベがどうにでもできる。
ニナンの者やイアドの住人、そしてエレッケンのイオレアは、すべてエルベが掌の上だ。
(握り込まなかったのは、貴様の持つグリモアを待っていたからだ)
イトゥーリ・ツアガは邪魔をするか?
(セネス・イオレアは邪魔をするだろう。)
どのモーデンも同じだと思うか?
(先程の女と同じく、わかりきった質問には答えぬ)
次に出されたのは、新鮮な魚の揚げ物であった。その回りの衣は最適な歯応えだ。かかるタレは、実に深みのある物だ。
出入りの商人は何処からくるのだ?
(商人は、何処に繋がっているかも知らずに扉を開けるのだ。すると、ちょうどその時は、こちらも人の姿をした者が支払いをする。
倉庫には遠い国の珍味が並ぶのだ。
どうした、柄にもなく、くだらない慈悲を考えるか?)
食事の後に、隊の状態を確認する。
公爵は既にエレッケンに向かっており、残る者を四つに分けた。
いずれにも女性兵と衛生兵を入れて再編する。
相手が幻惑を使って来た時の一応の保険だ。
モルダレオ、エンリケ、オービス、スヴェンを頭に四つである。
カーンとジェレマイアそれにシュナイは、ロードザムとモルドビアンをつけて一緒に行動する事にした。
山城で補給も許された。
これも固定された物ではなく、後の製作物ならば持ち出すことができた。
たぶん、エルベが縛りをゆるめている。
火薬や武器の補充、装備の修理。
城の者が薄くなる前にと忙しく動き回っている。
感傷を覚えたくないと思いつつも、その様を目にすれば憐れであった。
ナリスの言うように、このままにするも慈悲であるように勘違いしそうになる。だが、終わらせてやる事が一番なのだ。
自分は、死に抗おうとしている癖に、そんな言い訳しかできない。
だが、これもまた、カーン自身の罪ではないのだ。
***
滅びの館からの返答は、この海を囲む湾一帯に変化を及ぼした。
胸苦しい朱色の空を背景にして、更に水が退いていく。
すると砂と白い石の迷路じみた海の底が現れた。
海草や泥、堆積した物が風に吹かれている。
生き物の姿は見えず、海の恵みも無く、異様なながめであった。
下がった海には生き物はいるのだろうか。
黒い水面に白い波頭が遠い。
津波の引き潮と違うのか、押し寄せてくる波は見えない。
そして砂になったとヨジョミルはいったが、巨大な石像がそこかしこで転がっていた。
何れも苦悶の表情を浮かべた多腕の異形である。
四肢の部分が砕けてはいたが、それは元がわかる姿であった。
「極夜にて復活の祭りとなる。この祭りの意味を罪人はわからないのです。我々が繰り返しているのは、最後の一日。解かれる事の無い一日を迎えている。
ニーカとリャドガは気がついていない。そして愚かしいイオレアも、そこな城にて暮らす者もわかっていない。」
食事の後に、外へと続く階段を示されてる。
日が登るのにあわせて、ヨジョミルの入れ墨が消えていく。
青白い頬に、濁った瞳の女は、幽鬼のようだ。
城が活気に満ちていくごとに、女は暗く静かになっていく。
無くしてしまったモノを毎日毎日見せられるのだ。
狂う事もできない、牢獄だ。
「極夜にて新たな約束を我らが取り付けた後、どうなるのだ」
「どうなるとは?」
「新しき約束をとりつけたとて、そこで終わりではあるまい」
「それは主殿が何を選ぶかできまります」
「簡単なことだ。我らは明日を望んでいる」
「間違わぬ自信がおありか?」
「俺は、明日だけを望んでいる」
それにヨジョミルは笑った。
ほほほと笑い、しばらくすると顔を覆った。
「嘘は」
「先程も言った。魔の神は、俺には欺けぬし、お前はエルベのグリモアの記憶だ」
「殿方は嘘ばかりでございます」
「俺は嘘をつけるほど器用ではない。
俺は明日を望む、余計な物はいらぬ」
顔をあげると、再び骨が見え始めていた。
涙は見えず、ふてぶてしい微笑みがあった。
「では、これが最後の夜でございますね。
我らも祭りを堪能いたしましょう。
私が、このヨジョミルの兵隊が尽きるまで、新しき約束を見届けた後に続きましょう」
「お前の兵士か、さぞや恐ろしいのだろうな」
「玩具の兵隊ですわ」
階段の先は砂浜へと続いていた。
(あの女は、黄泉と繋がっている。
トスラトが異界の門となったように、ヨジョミルは黄泉の門)
エルベの力だろう?
(この巫覡はエルベの力を宿した怨霊であるが、下神でもある。
つまりエルベの支配下にあるが、その力は魔の神が力を与えている。だから魔の神は、ヨジョミルが欲しがれば、黄泉の魂を無限に渡すだろう)
情報の制限が解かれたのか、ナリスからヨジョミルの力の全容が流れ込む。
女は夜の間だけ、無尽蔵の死霊を呼び出す事ができる。
また、その不死の兵隊は、砕き焼いて砂にしなければ、夜の間は復活を繰り返す。
黄泉に繋がっているので、対価は必要がない。
人間以外の死霊も呼び出す事ができ、その支配を受けていても自律行動をする。
(星や月の光りがなければ、更に召喚する死霊は強力になり、極夜の間は死人が出ればそれも支配下に置くことができる。
陽の光りに影響を受ける制限が設けられているが、それは影や雨天は行動ができるという意味でもある。
そして、彼女に抵抗し殺せば殺すほど、彼女は力を増していくのだ)
ロドミナが案内するだけの相手である事が裏付けられた。
ニナンの者もツアガの者も躊躇する力だ。
新月や陽射しの無い日中も危険だな。
今一度城に戻る。
戻りながらニナンの方角を見る。
すべてが暗く淀み、灰色の景色が目に入る。
草木の生えぬ岩肌に無数の穴。
ニナンの地上の街は岩窟の向こう側にあるのだろうか。
家屋や人の暮らしがあるのだろうか。
それともあの真っ暗な穴の中に暖かな場所があるのだろうか。
(貴様が想像するとおり、あの穴の奥はイアドに続いているだけだ。地獄の入り口、蟲の巣穴だ)
振り返るにツアガの城の東南の方向は緑が続いていた。
あの方向に耕作地などがあるのだろうか?
するとナリスが笑う気配がした。
何だ?
(貴様は真っ当な領主だな)
皮肉はいらん。
(農民や漁師、民が飢えぬように。
商人が商え、家臣が食えるように。
行き場の無い者がこまらぬように。
と、領地の配置を見る。
だから、このツアガの土地のおかしさが目につくのだ。
これでどうして生きていけるのかとな)
下が食えねば、搾れぬだろう。
(だが、忘れてはいまいか?
ここに生きて産み育てる命の少なさを。
ここで真っ当に陽の明るさを求めている者は、あの妖魅の一族ぐらいだ。
生きて暮らそうとしていた民は、皆、殺されてしまった。
出入り口の潰された村に、シリスは死体ばかり。残りの小さな村はミダスとやらに言わせれば、跡形も無いとの事。
何と無能な領主であろうか。
戦う兵隊は、命を握られ使い捨てられる。すべてが自分の民であろうに。
そして貴様はそれを見て、決めた。)
どうした、気持ちが悪いくらい饒舌だ。何を企んでいる。
(私は間に合わなかった。
だから、還る事を選べなかった。
貴様を嫌うのも、己が無能を見せられるからだ。
死して無様さを改めて教えられるからだ。
何と己は滑稽だろうか。..グリモアの主よ)
呼ばれ、カーンは身構えた。
それに悪霊は含み笑ったまま、告げた。
(使者が一人ならざれば、我は一人を所望する)
***
天井まで美しい壁画が描かれた広間。
金箔の装飾の部屋に彫刻の施された座が据えられていた。
そこに座らされると、ヨジョミルが横に立つ。
カーンの訝しげな表情に、彼女は微笑みを扇で隠すと使用人に招き入れるように言った。
カーンは足を組むと、舞台を眺めるように頬杖をついた。
怨霊に悪霊と、どれも根性が曲がっている輩の思惑は、考えても無駄だ。
部屋の隅を這いまわる執事とやらも、大変楽しんでいる。
緊張を隠せない部下達に視線だけを向ける。
あの狂人も執事同様楽しんでいたはずだ。いや、常に楽しかろう。羨ましい限りだ。
そうして座にふんぞり返るが、内心は早く出立がしたいと思っていた。今日中に館の中身を確認したい。
それは別の部屋で待つジェレマイアも同じだ。
だから演技ではなく、使者の遅さを不快に思っていた。
公爵との接触は夜も明けやらぬ頃。湾の水が退いてから、昼に近くなろうという時間になっていた。
出方を見る為に公爵を送ったが、昼を迎えても反応がなければ館に向かうつもりであった。
自然の潮の満ち引きではないとわかっているが、館への道が晒されている刻限はわからない。ヨジョミルは大丈夫だというが、そのくらいの嫌がらせを楽しみそうな女である。
広間の扉が開けられると、使者が入ってくる。
使者は三人、同じ顔をした女であった。
傍らのヨジョミルを見ると、扇の影で笑っていた。
口上をのべる女を見る。
美しいのであろうが、虚ろであった。
それでいて、何をもっての過信か、勝手に喋る。
誰が口を開く事を許したか。
広間に並ぶ獣人を見て、三人は不愉快そうに顔をしかめる。
どうやら公爵もミダスも、神官の随行者が何者であるか。頭領が何者であるかは伝えなかったようだ。
その判断に、ニヤリとする。
ツアガの一族の者である。
そして城への来ることを許すというツアガ公の言葉。
媚びているのではなく蔑んだ口調。
それでいて自分達が来てやったのだ。有り難がれと言う話らしい。
それも主座にいるものを敬って、控えの者に伝えるでなく、城主に向かってだ。
使者とも言えぬ、この者共の振る舞い。まさかこれがいつもの事かと、傍らの怨霊を見る。
それに彼女は満足そうに頷いた。
時間の浪費とヨジョミルの底意地の悪さに呆れるだけだ。
狂人の戯言が思い出される。
酷い臭いだ。
腐った水槽のような臭いが、魂からする。
なるほど、と、カーンは頷いた。
そうして頷いてから、すっと座から立ち上がると一歩で近寄り、二歩目で二人の首をはね、三歩目で口上を述べていた女の首を握って持ち上げた。
「ナリス」
力が抜けた体は、形を変えていく。
凶行に、広間の者は誰も反応しなかった。
狂気の沙汰だが、カーンは笑った。
なぜならば、首だけをのこし、身は燃えカスになるのは何だ?
これがご立派なエイジャの選んだ優しさの結末である。
ならば自分は、やらねばならない。
答えが勝手にやって来るとは。
ナリスが、絞めるその手を叩く。
放すと、顔色の悪い男は、ズレた首の骨を戻しながら言った。
「許すとは、死人の癖にずうずうしいか?」
カーンは、今度は声を出して笑った。
「では行くか」
「承知」
と、ナリスは答えた。