表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冬の狼  作者: CANDY
薄明の章
311/355

ACT276 存在証明 ⑤

 ACT276


 闇の幕を通り過ぎると、そこは奇妙な明るさに支配されていた。

 行き止まりだ。

 剥がれた漆喰の壁、地下というのに生える草。

 草は黒い葉に尖った茎を持ち、黄色い小花が咲いていた。

 そこに異形の姿は無く、見た限り何も不思議は無い。

 もちろん、ここがイアドという地下で、汚らしい異形が這い回る場所であるのだから、この景色も不自然ではあった。


 ふと、むず痒くなる。


 背中が痒いような、なんとも座りの悪い感覚だ。

 それに気づいたのか、モルダレオは手斧の握りを確かめると、俺を見た。


「カーン、どうした?」


 問いに、俺は首を傾げる。

 この感覚は慣れない。

 多分、グリモアの示唆だ。


「ジェレマイア」


 名前だけの返答に、彼はすぐさま反応した。

 闇から抜け出た場所を、慌てたように見回す。


「あぁ、あぁそうか」


 そして、壁へと近づき手を置いた。

 軽く、押し当てると片手を自らの胸に置き、彼は少し顎を引く。

 何をしたという訳ではない。

 だが、現実がメリメリと、その置いた手の間から剥がれ落ちていく。

 メリメリとめくれあがり、壁が薄い紙のように剥がれると、そこには闇があった。

 闇としか表現のできない濁った壁がむき出しになる。

 草花と足下の砂が残り、壁が消え去ると距離感がつかめなくなる。

 ただ、自分たちが闇という井戸の底に立っているように思えた。

 ジェレマイアという神官が祓い、汚れは落ちた。

 汚れとは偽りである。

 だから払えずに、闇は残った。


「どちらに向かえばいいのか」


 闇から手を戻したジェレマイアの呟きに、モルダレオが答えた。


「あちらに、何かがいますね」


 自分たちが進んできた方向より左に、何か白い物が見えた。

 目を凝らす、と、それが白い顔であるのが見て取れる。


「自分が先導します」


 そのまま気負いもなく、モルダレオは闇に踏み出した。

 ザムと相方に、ジェレマイアを守るようにつかせると、その背を追う。

 闇は踏み出した場所だけ、浸食を受ける前の姿を見せるようだ。

 足下は、砂地、砂利も混じっていた。

 この間に、グリモアは分析と推論を囁き続ける。

 が、俺は、とうてい理解できずに放り投げていた。

 多分、その態度に不満が募ったのだろう、一瞬、主導権を奪われて、視界がグリモアに乗っ取られる。


(おいっ、クソッ)


 どっと広がる感覚に、踏み出していた一歩のまま動く事ができなくなった。

 闇にしか見えない場所は、白と灰色の文字がうねり流れ、渦を巻いていた。

 海原であるかのような、圧力が押し寄せる。

 渦潮の中で翻弄される遭難者とでも言うのだろうか。

 息苦しさに喘ぎそうになるも、奥歯を噛みしめて押しのける。

 何と、これは、酷い。

 と、感じた。

 ここは狂っている。

 調和とはほど遠い場所だという事が、こんな俺にもわかった。

 狂った場所であるからこそ、調律せねばならぬのが、使命。

 使命、か。

 この使命だけは、グリモアの主が何者であろうと違えてはならない。

 もちろん、違えられぬようになっている。

 違えれば、末路は言わずもがな。

 正しき有様に身を置けば、この不快感と怒りは、宮の主と共有されている。

 筒抜けだが、致し方なし。

 ここは美しくない。

 等という、感想がわくとしても。

 この考えに逆らうのは無駄だし、俺の残された部分も否定できない。


 そう、グリモアの主の使命だ。

 地上は、偽りに支配されていた。

 だが、これほどの力の流れはなかった。

 故に、何か汚れたモノがあるだろうと思っていた。

 しかし、イアドは小細工によってこのような乱れを生んでいるとは、思えなかった。

 狂っているのが、当たり前の場所。

 封印地。

 忌み地。


 この間違いを正すには、大きな力と犠牲が必要だろう。


 しかし、イアドはあるのだから、主としての正答は、正しくする事ではなく、調律である。

 つまり不具合を調整し、正しくは無くとも存在できる範囲にしなければならない。

 これが、エイジャ・バルディスの回答という訳だ。

 そしてイアドはあり、今までは、滅びを呼び込む程ではなかった。


 つまり?


 全てが曖昧で弱腰に見えるが、調和とは緻密な技量が必要である。と、今ではわかる。

 故に、バルディスは、死を受け入れたのだ。

 その妻もだ。

 彼らは消え、そして、再び、イアドの狂いは広がってきている。


 つまり、こう聞きたいのだろう。

 お前にもできるのか?

 不完全なグリモアの主、力も読み解け無い無能の主が?


 それには、やはり口汚く罵るだけである。

 やがて唸りをあげていた全てが断ち切られるように消えた。

 グリモアは繋がりを断ち、愚か者へと安らぎを与える。

 ひっそりと静まりかえった闇に、再び歩を踏み出す。

 理解できるか?

 と、言う問いに、自分では否と答えるしかない。

 調律できるか?

 と、問われれば、無理だとも。

 これが彼女や彼女の父母であれば、イアドの流れをそのままに整える事はできたかもしれない。

 いや、彼女の父親はできていたのだ。

 だが、それを覆す事がおきた。

 彼女の父親が死んだからか?

 違う、それは一つの要因だ。

 グリモアの主が不在というだけでは、狂い以上に、このような異形が跋扈する惨状にはならない。

 では、なぜだ?

 答えは簡単だ。

 施された物を上回る愚行を行った者がいる。

 そして、それは今も続いているのだ。

 それは人が考える以上の罪であり、宮の主が所望する客なのだろう。


 モルダレオが歩みを止めた。

 ジェレマイアの前にザムが立ち、相方が殿を振り見、気配を探る。

 闇に、白い顔が浮かぶ。

 手を伸ばせば、それが黒い壁に塗り込められた人である事がわかった。

 壁から白い顔と、手首二つがでている。

 生きているのかいないのか、モルダレオが顔に手を伸ばすと、それは瞼をあげた。


 黒々とした瞳がこちらを見つめる。


 それに白目は無く、黒い目が光りをためてこちらを見つめ返す。

 煮豆みたいだ。

 子供のような感想が浮かんだ。

 少し、力が抜けて、地に転がる年寄り達の角灯を手に取った。

 明かりは消えている。

 油は残っていた。

 消して、先に進んだのか。

 先ほどの醜い子鬼に変じたか。


「オマエ、ダレ、オマエ」


 埋め込まれた顔が、早口で囁く。

 亜人ともいえないが、化け物というには、特に目立った特徴はない。

 ただ、男女の判別はできず、老いているのか若いのかも、見るだけではなんともわかりづらい。

 ただ、黒子も皺も見あたらず、息をする口元からは健康そうな歯が見える。

 年は壮年よりも若く、子供でもない。

 他は闇に埋もれているので、詳細は不明だ。


「言葉がわかるのか?」


「ナヲ、ナヲ」


 特に動きもなく、向ける視線に感情は見受けられない。

 モルダレオの問いに、それの瞬膜だけが動いた。

 知り得る亜人の中で、瞬膜を保つ種はいない。

 殆どの獣人種に、この瞬膜を保つ種が存在しているが、かといって、これが獣種であるようには思えなかった。


 これは何だ?


 それに対して、グリモアはスルリと答えを吐いた。


(扉だね。

 主よ、たんなる玄関の呼び鈴だ。

 意味なんぞ無いのさ。

 木を切り出して家を造るが、装飾に意味はあるかい?

 生き物を切り出して巣を作るのに、意味は無いのさ)


 グリモアの返答にジェレマイアがたじろぎ、モルダレオは不思議そうに首を傾げた。


「先に誰ぞ通ったか?」


 それに扉は答えた。


「トオラナイ」


 モルダレオは、少し笑った。

 そして斧を振り上げると、扉の顔に振り下ろした。

 ザクザクと振り下ろすと、肉と骨が飛び散り石榴のように割れ散っていく。

 血は赤く、肉は白に桃色。

 人の肉に見えたが、切り刻んでも脳漿も見えず、本体らしきモノも見えなかった。

 残忍な振る舞いだったが、それが自然の生き物では無いことを証明した。

 やがて顔のあった場所は挽き肉の固まりに。

 そして地には汚物が滴り、飛び出した手首はだらりと垂れた。


「いくらなんでも、これで解決はしないだろう」


 ジェレマイアの呟きに、モルダレオは笑顔で返した。


「嘘をつきましたので」


「お前なぁ」


 するとボロリと壁から顔と手が落ちた。

 そして闇から再び、顔と手首が突き出される。

 再び、斧を振り上げようとするモルダレオに、ジェレマイアが止めに入った。


「迷いたる我らを招きいれよ」


 そうして扉に呼びかける。


「ナヲ」


 それにジェレマイアはため息をついた。


「合い言葉が必要なようだ。たたき壊しても闇はそのままだろうな」


 そうして俺を見て、彼は頭を振った。


「住人ならいざ知らず、罪は通り抜けた。

 我らに名を問う意味は何か?」


 それに壁の顔は答えた。


「ケイヤクニヨリ、トジヌ。ナヲ」


「つまり、合い言葉だカーン。何か思い浮かぶか?」


 それには、俺もモルダレオと同じ程度だ。


「グリモアは?」


 それには沈黙が答えた。

 なるほど、と首を回す。


 グリモアの求める遊技をせねばならない。

 肉体ではなく、思考、言葉の遊びだ。

 面倒な、という考えと一緒に、悪霊の咳払いを受け取る。

 全ては、くだらない妄想を、あたかも道理の如く繋げねばならない。

 つまり、大まじめに屁理屈をこね回す。

 否、常識が愚かと認め、異常を飲み込み、意味を保たせる。

 正しく狂気の行いだ。


 さて、少しは、くだらない考えの下地ができたところで、グリモアという力を意識する。

 それは彼女が見せてくれた形を再現するところからだ。

 彼女は、不安定な音階の歌と共に、力を本という認識で再現していた。


 魔導の書物だ。


 実は、形というものを与えていたのは、彼女の認識であり、彼女は、ボルネフェルトが使用していた形を見て、そういう物であると思っていた。

 まぁ簡単に言えば、本、だと思っていたから、力を手にしてそれを具現化すると、そういう形を見せた。

 ここで、俺が別の形を与えるという事も、元々、物質としての形を保たない物であるのだから、できない事もない。

 しかし、それを創造する事に力を割く事は無意味である。

 バルディスが、本として創造した事で定着した概念、共通認識を取り払うぐらいなら、そのまま手にしていた方が、楽に使う事ができるだろう。

 何しろ、書物としてできあがっているのは、理が認めているからだ。

 この世界の概念、思考の認識に刷り込まれている。

 本文や装丁まで、本当にできあがっており、所有者が変わっても構築された部分が壊れないほどの、強度なのである。

 貧しい俺の想像力でできあがる、本の形をした何かではない。


 そう、本だ。


 手を、あたかも何か持っているかのように差し出す。

 すると、そこには革の装丁の薄い本がある。

 重さは感じられない。

 これは、ここにあるという認識で出現した幻である。

 故に、どこまで馬鹿にすることなく、大まじめに信じるかが重要だ。


 が、まぁ俺に読み解けという方が無理である。

 故に開かず手の乗せる。


「いつか、通った男の言葉を教えてくれ。

 いつか、大切な者達の為にと、通った男が語る言葉を。

 人が、手を取り合い、生きていけるようにと願った。

 愚か者の言葉だ」


 つい、皮肉を言ってしまう。

 愚かなのは自分も同じだと言うのに。

 すると書物は開き、軽い音を立ててめくれる。

 ぱらぱらとめくり、それはある場所で開かれた。


 我は耕し、慈雨を与える

 受け取りし約束を柱とし

 光りを巡らせ、時を留める


 と、文字を浮かび上がらせた。

 ジェレマイアに見せると、彼は言葉を繰り返した。


「ハシラハイズレコワレ、アヤマチハクリカエサレル」


 その返答にグリモアは再び文字を描く。


 ならば、我、再びの慈雨を与え。

 自らが柱となろう。


 それを繰り返そうとしたジェレマイアを留めて、自分が言う。

 不吉な言葉を彼に言わせる訳にはいかない。

 すると、壁の顔が闇に沈み静寂が広がる。

 暫し待つと、遠く微かに何かが動く音がした。

 グリモアを消し去り身構えると、唐突に視界が広がった。

 闇の代わりに見えたのは、坑道とは思えぬ通路であった。


 美しく雅な陶磁の薄板が張り付けられている壁。

 そうした装飾に彩られた通路の壁は、薄く青白く輝いていた。

 少し高めの天井は4、5パッスぐらいだろうか。

 満天の星空のように壁がうっすらと光っている。

 劣化は見られず、何処かの城の内部だと言われても違和感が無い。

 その通路は緩やかに曲線を描き右に曲がっている。

 徐々に下がっていくその先は闇があり、それは壁からもたらされる光りを拒絶していた。


「爺達は通ったと思うか?」


「人として残していたのは、その為でしょう。

 もしくは、この奥に大元の害虫が潜んでいるのでは?」


 モルダレオの言葉に、ジェレマイアが頭を振った。


「何をしたいのか、わからない。

 意図も何もかも、馬鹿げている。

 このままでは、我々は終わりだ。」


「我々とは誰をいっているんだ?

 そもそも手段は別として、それほど珍しい事でもなかろう?

 人間同士が殺しあうとは、馬鹿馬鹿しくも非生産的だ。

 毒を撒き人を燃やし、全てを灰にして自分自身の首を絞め。

 何もせずとも、何れ人など死ぬというのに。

 まるで永遠に生きるかのように、自分の我を通そうとする。」


 その言葉に応えるかのように、奥の闇が蠢いた。


「何か来ます。

 気配は複数です。

 風の流れは、こちらが風上ですが..おやおや」


 モルダレオは懐から油薬を取り出した。


「カーン、比喩ではなく蟲がきます。ロードザム、祭祀長殿をお包みしろ」


 本人が反応する前に、ザムがジェレマイアに頭巾を被せ息が詰ま

 らない程度に頭部を布で包む。

 そしてやっと本人がジタバタし始めたところで手足も皮膚が見えないように無造作に紐等で袖を縛り上げた。

 全体は余分な腰布を広げて巻き上げる。

 拉致誘拐を日頃からしているかの手際の良さだ。

 そうして、ほんの一時の間に、荷物が一つできあがると相方の男の背中に縛り付ける。

 うーうー呻いているから、息はできるだろう。


「口と目をとじていろ。ともかく、終わるまではおとなしくな」


 油薬を正面に撒く。

 青白い炎の円の向こう、それらは押し寄せる波のように広がる。

 見た限り、蚣に蜘蛛に芋虫、様々な蟲が団子のようにもみあっていた。

 所々に赤い光点が見える。

 黒い波の中の赤い光りは、どうやら子供の頭ほどの蜘蛛のようだ。


「あれを焼け」


 今のところ、火を避けているが、その炎が弱まった所からなだれ込んでくると厄介だ。

 それに普通の蟲にしては大型で、まるで南領の密林から運び込まれたかのように生きが良い。

 流石にサーレルの様に、毒物を持ち込んではいない。

 もちろん、撒いて殺すには大きな麻袋一杯どころの話ではないだろう。 蜘蛛を狙って火を放つ。

 すると雲霞の如く黒い壁が持ち上がり、炎を越える勢いで頭上へと立ち上がった。

 蟲の対処はできる。

 慣れたものだ。

 もちろん、蟲が蟲ならば。


「蟲の中に、何かいます」


 ザムの言葉と共に、蟲に紛れた酒瓶ほどの蛭のような物が見えた。

 蛭との違いは斑模様の皮膚一面に目がある事か。

 それが蟲の中に紛れている。

 フザケた事に、目の前の蟲どもは、その蛭を芯にして複数の山になった。

 そしてこちらに狙い定めると降りかかる。

 こちらも油を被り火を放つ。

 死なぬ細かな蟲を、一閃。

 それでもゾワゾワと這い回る感触を振り払う。

 痛く痒く、不快。

 それでも、たいした攻撃ではない。

 が、表皮に喰いつくのを感じた瞬間に、どっと異常な感覚に呑まれた。

 敵は内側にこそ控えているか。

 再びのグリモアの干渉に、苛立ちが募る。

 しかし、それはグリモア自身の苛立ちでもあったようだ。

 つまり、この程度の雑魚どもに身を蝕まれるなど以ての外。

 俺自身への罰は後にして、このような下等な輩に身を喰われるなど慮外。

 足止めされるとは、傀儡にも劣る。

 もちろんグリモアの干渉を受けた時に、ここまで考えた訳ではない。

 己をグリモアに奪われる。

 抵抗をしようとする前に行動は終わっていた。

 ふるう得物とは別に懐に忍ばせていた柄を引き抜き振った時点で気がつく。


 ォォォォオオオオオオオオオオオゥ


 答えは、亡者の呻きのような吠え声であった。

 それは蟲を弾き飛ばし、油薬の炎へとたたき込む。

 一振りでソレは、身の回りの蟲を退けた。

 だが、燃える炎の円は揺らいでいない。

 同じく蟲にたかられている仲間に、柄を振る。


 フォォオオオゥゥウウウウウウウウウウ


 鳴き声はモルダレオ達の蟲を吹き飛ばした。

 その時、やっと何が起きたか見て取れた。

 そしてグリモアの笑い声と一緒に感覚を取り戻す。

 神殿から持ち出した剣の柄。

 重量だけは一人前の刃の無い..。


「カーン」


 口の中に入った蟲を吐き出しながら、モルダレオが促す。

 質問はないらしい。

 躊躇うと再び干渉する気配を覚えて、それより

 も先に手首を返す。

 在るが如く振る。

 すると、今度は身の内から何かが根こそぎ奪われるのがわかった。

 力を吸い取られ、不覚にも身が揺れる。

 見えない刃から吹き出したモノが、白い大犬の影に変じ。

 鳴き叫び食らいつき、闇へと走り去る。

 それはフッと暗闇に消え、もう一太刀、と、思った。

 思うが、視界の揺れが激しくなり..。

 目前の、モルダレオが油薬を撒く腕の振りがやけにゆっくりとして見えた。

 そして振り返り、俺を見てからの、その表情。

 滅多に見ない驚きを顔に浮かべるのがわかった。


「カーン!」


 不覚。


(僕は忠告をしたよ。

 君は、その声を雑音として聞き流していたね。

 今回の忠告は、けっこう重要だったんだよ。

 君、馬鹿だよね。

 力は、自分を消耗させる方向で使用してはならない。

 今、身をもって理解しただろ、手遅れだけどね。

 あぁ、馬鹿だよなぁ。

 森羅万象を捉え、理から力を回してこなければならない。

 己を火種とし、この世界から力を引き出さねば、命が絶える。

 これは悪手だ。

 例外は、理の傾きを修正する場合。

 もしくは、理の傾きの原因を作りたくない場合だ。

 彼女が命を削ったのは、この世が壊れるほどの力を引き出すことを恐れたからだ。

 この世が悪い方向へ向かう事を案じた。

 彼女の父親もね。

 この世が壊れるか、自分を失うか。

 使う度に、こんな命を削るやりとりをする必要は、本来は無い。

 火種として使うだけでいいのさ。

 つまり、普通はしてはならない事。

 僕は、グリモアの使い方を学べと言ったね。

 それは何も彼女や父親のような完全な調律を行えと言っているのではないんだよ。

 調律できないからこそ、使い方を知らねば危険だからだ。

 自業自得だよ。


 けれど、今回は謝るよ。


 ごめん、ごめん。

 君は思ったよりも、弱虫だったんだね。

 君は、お姫様より弱虫だ。

 だから、あやまるよ。

 君は、野蛮で愚かで道理を通す男だ。

 と、思っていたけれど。

 君は、ずっとずっと弱虫だったんだなぁ。

 ごめんごめん。

 でも、それは良い事だ。

 僕は、良いことだと思うよ。

 僕は、僕たちはね。

 英雄が嫌いだ。

 そういう馬鹿者が一番嫌いでね。

 英雄なんてもてはやされていたり、自分でもそう勘違いしている輩はね、本当は野蛮で愚かで、強欲なのさ。

 道理を通すといいながら、自分勝手な無理を通す。

 結局、英雄なんていないのさ。

 グリモアを手にして、有頂天になって使おうとするなんて奴は、腐ればいいんだよ。

 でも君は、あきれるほど、この力を嫌っているね。

 良かったよ。

 君は、使えないけど使える。

 教えてあげよう。

 この吠える者こそ、君を救うだろう。

 故に、この力を、きちんと理解して使うんだ。

 ただし、自分の精気を使ってはいけない。

 これは吠えるが、喰らう者でもあるからね。

 さて、主よ。

 より良い選択ができる事を祈っているよ。

 そして、望む明日の景色を見る事を。

 弱虫の君の、望む明日を)


 瞬きをすると、自分が地に横たわっているのがわかった。

 意識を失っていたのか、単に、転倒したのか。

 その瞬間の記憶がなかった。

 傍らにはジェレマイアが膝をつき、眉を寄せて何かをしている。

 何か、と、見れば、俺の右手を開こうと苦心していた。

 あの柄を握りしめたまま、右手は固まっている。

 指を一本づつ引き剥がそうとしているのか、彼はまじめに取り組んでいた。

 なるほど俺は弱いのか。

 と、何故か納得していた。

 俺の右手は、手としての役割を示す言葉の配列が崩れてしまっている。だから、俺の意志を正しく流す事ができない。

 そう見えた。

 肘から先の腕がある場所は、薄い影が形を作っている。

 それに水滴のような銀の紋様と、仄暗い赤の文字、そして蒼い蔦が波打っている。

 本来は輝きを見せる筈の命の言葉が、酷く醜く歪んでいた。

 半透明の薄い影の中にある星空のような世界が、無秩序に蠢いて醜い。

 それは俺が弱いからだ。

 腕力武力の話ではない。

 形を保てない程、俺は人として弱い。

 欲は人一倍深い。

 だが、それも俺という形を保つ程の強さをもたらしはしない。

 では、何がたりない?

 実に矮小な命の一つである己の自我は、もろい。


「無茶するな、呪物は強力な力だが、取り込まれると喰われちまう。俺たちは死ねないんだ。こんなところで死んじまったら」


 ジェレマイアの言葉に目を閉じる。

 いつか、陽射しの中で約束した事を。

 いつか、その場所に、俺がいなくとも。

 いつか。

 俺の、俺たちの、望む明日。


 弱さは己の愚かさだ。

 愛は救いではない。

 逃げ場所ではない。

 与えられるものではない。

 貫くには力だ。

 意志を貫き、居場所を作る。

 救い、与えるには、戦うのみ。


 俺が主だ。


 目を開き見る。

 己が体を取り戻せ。

 誰が主か示すのだ。

 怒りをかき集めろ。


 起き上がり自由を失った手を持ち上げる。


「死人の癖にずうずうしい、死人は墓の下に戻れ。犬は犬らしく地に伏せろ。」


 腹に力がこめ血の流れを感じる。

 すると全身に流れる血を感じ、頭の後ろで何かが収まる。

 すっと霧が晴れるように、視界と思考が冴えた。

 それと共に感情の波は静まるが、怒りの炎は大きくなっていく。

 それも体の中を吹き抜けながら、形を整えていく。

 俺の形。

 俺の怒り。

 薄ぼんやりとした影が失せ、剣の柄を握りしめる手が戻る。


「カーン、大丈夫か?気分は」


 手の中で柄は蠢き、ふざけた仕草で手を噛もうとする。

 黒犬を握りしめると、きゅぅと鳴く。

 今更の恭順に、ギチギチと握りしめた。


「俺が飼い主だ。死人に従ったら砕くぞ」


 犬はキュウキュウと鳴き、暫くすると柄に戻った。

 それを懐にしまい、胡座をかいたままジェレマイアに言った。


「悪かった」


 それにボサボサになった髪をかきながら、ジェレマイアは息を吐いた。


「それは俺もだ。

 俺も楽観しすぎていた。

 ここまで化け物が跳梁するような場所になっているとは思ってもみなかった。

 精々、神罰を受けた人間どもが殺し合っているだけかとな。

 まだまだ猶予があると思っていたんだ。

 だが、来てみれば、初っぱなから化け物が村を滅ぼし、代官の町はこの通り魔界だ。

 城は、どうなっているか。

 彼らが死ぬまでに、我々はたどり着けるのか?

 それも、たどり着けたとして、我々で対処できるのか?」


 通路には蟲の焼け焦げた灰が降り、今は静かだ。


「そろそろ、話してもいいんじゃないか?」


 俺の言葉に、ジェレマイアは笑った。


「全て聞いた話に過ぎず、語った者にも確証がない」


「休憩にはちょうどいい」


 それに彼は、久しぶりに普通の笑いを浮かべると言った。


「んじゃぁ、休憩すっか。少し、俺も疲れた」



 前の人間が滅んだ理由って何だと思う?

 罪深い人喰いだったから?

 人殺しだったから?

 でも、そういう種族だったんだよ。

 神がそういうふうに作ったんだ。

 そしてそうした邪悪な種も、在る程度の秩序をもって暮らしていたのさ。

 罪深さを補うほどの、文化や技術をもっていたんだ。

 神の箱庭の中で、理を回す役割を担えるほどのね。

 多くの人を喰い、殺し合い。

 それでも町を国をつくり、文化を興してね。

 種としては、酷く恐ろしいけれど。

 一応の理の枠組みの中には収まっていた。

 モーデンも在る程度許容していた。

 だって、そういう生き物だからね。

 しかし、彼らは滅んだし、モーデンは逃げ出した。

 単なる権力闘争や生存競争の末ではない。

 神が滅ぼすべし、という決断をしたからだ。

 つまり、人喰いや人殺し以上の罪だ。


「この世界は三つで表される。

 この世とあの世、そして魔の世だ。

 人と死者と魔物の世界だ。

 今までは、人の世界が全てだった。

 そして死者の世界とは精神世界。

 魔の世界は幻想だった。

 まぁ、今では、この三つの世界は在るとわかっている。

 そして重要なのは、この三つが理を回しているって事。

 魂の熱量にて、世界を構築しているのだ。

 ところが、ここには、もう一つ四つ目の世界があるんだ。

 滅びを呼び込む、第四の世である虚無だ。

 だが、虚無という我々神聖教徒の言葉で表現すると勘違いするが、これは何も無いという意味ではない。

 わかりやすく言えば、別の理の世界だ。

 そして、この別の世界は、まったくの毒だ。

 理とは大きな円だ。

 そこに別の円がぶつかれば流れは断ち切られ、

 我々が滅びるか相手が滅びる。

 けっして交わる事ができない世界。

 この世界そのものが消えてしまう。

 小さな人間の争い云々ではない。

 領域が弾け、消えてしまう。

 故に、この第四の領域から力を得ようとする魔導師は、危険な存在なのだ。

 だが、魔導師は今の所、理を消し去る程の力を得ていないし、得ることは無い。

 人は、何の代償もなく力を得る事はできないからだ。

 つまりこの世界の理に属する限りは、神が鉄槌をおろし裁可する事は無いわけだ。死後の裁きはべつにしてな。


「モーデンが逃げ出したのは、この第四の世界との接触が原因だ」


 モーデンに近しい誰かが、穴をあけたのさ。

 塞ぐことのできない、滅びの穴だ。

 それは固定され、どうしても塞ぐ事ができない。

 そして、邪悪な行いを好む種族がそれをどう考えたか。

 喜び勇んで、何かをした。

 そして神は賽子を振った。

 よし、この罪はいかがすればよいか?

 次の世代の課題にしよう。

 モーデンという因子と、調停する者、新しい人、さてさて、おもしろい遊技の始まりだ。


「イアドか」


 奈落の底とは本当にふさわしい。

 だが、それが繋がっているかは不明だ。

 神の約束は、ツアガ公が受け継いでいる。

 秘密を抱えて守っている。

 全ては城にあるはずだ。


「我々には時間がない。

 魔神は言う、果たさずとも良いと。

 彼らには我々の生き死によ

 りも重要な事があるからだ。

 この世界が明日も続く保証は無い。

 だからこそ、証明せねばならないんだ。

 神に対して、新しく約定を、我々が生きていくために結ばねばならない。

 すくなくとも、そう証明できれば、我々は箱庭の中で生き残る事ができるだろう。

 だが、これは少なくとも、このツアガ公領に生きているならばわかっている事だったはずだ。

 内乱をするにしても、このように魔が跋扈する状態は、非常にまずいし考えられない。

 この地の神官達とて本当の事は知らずとも、このような争いを見過ごす事など、あり得ない。」


 だが、あり得ない事がおきている。


「一つ懸念がある。

 第四の領域である虚無から来るモノは、あきらかに異質だ。

 だが、一見、我らと同じに見えるモノもいる。」


「どういう事だ?」


「モーデンは殺された」


 我々は、誰と争っているのか?


「公王は疑っている。

 同じ過ちが繰り返されているのではないかってな。

 禁忌を犯している者が再びいるのではないか?

 モーデンが命をもって償った罪を、再び犯した者がいるから神はお怒りなのではないか?

 もし我々が、前の人と同じ愚行をなぞっているのならば、我々は同じく滅びるしかない」


「モーデンの罪とは何だ?」


 ジェレマイアは、喋りすぎたと言いつつ片膝を抱えると顔を伏せた。


「モーデンは、妻を殺した」


 意外な言葉に、モルダレオ達も辺りを警戒しつつも耳を立てた。


「モーデンは、異界より来た妻を殺した。

 モーデンは第四の領域から来た、女の形をした生き物を妻にし、捕らえていた。

 だが、女が産む子供は全て化け物だった。

 滅びの原因も、多くが同じ事。

 つまり彼らの世の男は、異形の女をみつけると犯したのさ。

 そして力ある子供を手に入れようとして、神の怒りにふれた。

 当たり前だ。

 血が混じるわけがない。

 子供は皆、第四の領域の生き物だ。

 自分の種どころか、何も生まれないのだ。

 命は戻らず、滅びに向かう。

 子の殻である肉は、こちら側であろうと中身は、すべて向こう側のモノだ。

 おぞましいにも程がある。

 畜生の方がまだ真っ当だ。

 何が尊いだ。

 野獣以下の生き物だ。

 家畜と子供をつくれるか?

 鳥と交わり子供をつくれるか?

 形が如何に女の器をしていようと、中身は、人ではない

 のだ。

 意志疎通さえできないモノを犯すだと?

 それも捕らえてだ。

 罪を償う?

 モーデンは女を殺した。

 理由は、更に愚劣だ。

 新しい世界の女を妻にしたかったからさ。

 そして結果は、異形の女と相打ちだ。

 死を願ったのは、腐ったからさ。

 腐る芽を植え付けられたそうだ。

 異形の女は、樹木に似ていたそうだ。

 美しい樹木の精霊だとさ。

 馬鹿馬鹿しい、言葉を飾っているだけだ。」


 すすり泣くような息をつき、ジェレマイアは言った。


「それでも、モーデンは願った。

 死に際に願った。

 愚劣で欲深く卑怯にも逃げた癖に、願った。

 皆、幸せになってほしいと。

 卑怯も極まってるぜ。

 ツアガ公は、こっちの女の方の子孫だ。」


 思わず天を仰ぐ。


 我々は、誰と争っているのか?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ