ACT272 挿話 雷鳴 下②
昔々、あるところに、優しい女の人がいました。
彼女の家には、捨て猫や捨て犬、はては捨て子まで一緒に暮らしていました。
優しい彼女は、ひとりぼっちは寂しいでしょ?
だから自分勝手に拾ってきてしまうのだ。と、言います。
そうして拾ってきた生き物や人と、森の中で暮らしていました。
薬草を育てて、町で売ったり。
病気の人を看病したり。
そんな風にして暮らしていました。
彼女の暮らす森の近くには、大きな町がありました。
ある日の事、その大きな町に疫病が広がりました。
お医者さんも逃げ出すような病気です。
役人も貴族も逃げ出します。
そこで町を治める、その地の領主が言いました。
病気を広げないように、町ごと囲ってしまえと。
領主は町へ通じる道を兵士でふさぐと、住民達に命じました。
病を得るとは不届き千万。
町ごと燃やされたくなければ、自ら囲いを作り、外へ出ぬなら罪を許そうと。
働きもせず寝て暮らすのならば、税のかわりに塀を作れと言いました。
そうすれば、食べ物と薬を与えようとも言いました。
街は囲いに覆われて、誰も外へは出れません。
領主様に皆慈悲を乞いました。
お助け下さい、見捨てないで下さい。
しかし、病は猛威をふるい、それに恐れをなしたのか、外から与えられる筈の食べ物も薬も届きません。
生きて元気な人々も、やせ衰えて弱っていきます。
これは見捨てられたかと、皆、理解しました。
領主も外の者達も、中の人が全て死んでしまうのを待っていたのです。
そんな時、大きな山羊に荷を引かせた姿が、町へとやってきました。
兵士を押し退け、小山のような山羊が進みます。
その背には、ちょこんと乗った女が、楽しそうに揺れていました。
森で暮らしていた彼女は、沢山の薬草を荷車に乗せて、町へとやってきたのです。
囲む兵士が言いました。
帰り道は無いぞ、町に入れば出られないぞ。
病にかかって死んでしまうぞ。
無駄に貴重な薬草を使うな、それなら領主に献上しろ。
と、脅しつけました。
が、まぁ、女のかわりに山羊が兵士を突き飛ばし、立派な角と蹄で口を封じました。
手当を尽くして看取る事ぐらいしてあげなければ、寂しいじゃない。
ならば、自分の勝手で中に入ろう。
戻り道など必要ない。
と、彼女は軽く笑って進みました。
沢山の人が亡くなって、沢山の人が飢え死にしました。
でも、彼女は病人を慰め、死体を焼き、そして、町から疫病がなくなるまで尽くしました。
そして最後の病人が癒えた時、町の人々は彼女にとても感謝しました。
でもでも、昔話なら、ここでめでたく終わるのですが、人はとても身勝手です。
領主と役人と、逃げてしまった医者達は言いました。
無断で町に入り込み、勝手に暮らすとは不届きな。
まして病が消えるなぞ、本当はお前が病をまき散らしたのだろう。
税も払わぬ浮浪の者め、怪しい魔女め。
町の者を誑かすとは、火炙りにしてくれる。
彼らが何を考えて、こう言ったのかは、想像できるでしょう。
人はとても浅ましく愚かです。
当然、感謝をしていた町の生き残りは抵抗しました。
しかし、彼女はそんな町の人たちを止めました。
もともと見捨ててしまおうとした人たちです。
反抗すれば殺されてしまいます。
なら、自分一人、さっさと死んでしまうのも勝手。
とばかりに、火炙りになる事を選んでしまいます。
ならば魔女の家族も殺してしまおうと、領主達は考えました。
彼女が森に住まわせていた、動物や捨て子達です。
もともと、いらない者として捨てられた者達です。
彼らは一つ檻に入れられて、焼き殺される事になりました。
彼女は言いました。
彼らは私が勝手につれてきたものです。
焼き殺すなら、私だけにして下さい。
でも、領主達は言いました。
お前を知っている者は、皆、処刑してくれる。
本当なら、町の者も殺すところだが、卵を産む鵞鳥は生かしてむしり取るまでよ。
まったく、どちらが悪者か、子供に聞いてもわかる事。
そして薪が積み上げられて檻と彼女に火がつけられました。
すると、一匹の獣が狂ったように檻の中で暴れました。
すごい勢いで暴れ回り、薪を崩して火を消しました。
忌々しいと、一端檻を開け、その獣だけ別の小さな檻にいれました。
それから再び薪の山に火を入れると、その小さな檻だけを先に放り込みました。
どうだ魔女め、自分の家族が焼かれる姿を目にし、恐れるがいい。
彼女は泣きながら言いました。
私の勝手に巻き込んで、お前の命を奪うことになるとは、本当にすまない。
今度、生まれ変わったら、もっともっと身勝手になって強くなり、お前と家族を捜し
出そう。
彼女は一緒にまた暮らそうと言いました。
それに溶けだした檻の中で、獣が嬉しそうに返しました。
ならば、私も勝手に振る舞おう。
貴女が存分に思うとおりに、身勝手に、生きて死ねるように。
この、私が、強く強くなりましょう。
すると炎の中から黒く大きな姿が現れました。
溶けた檻を纏う、禍々しい姿です。
それは炎を囲む役人と貴族の兵士を蹴り潰しました。
次にその後ろにいた医者達を角で叩き殺しました。
そして残った領主に、獣は言いました。
さて、慈悲深い者を魔女と罵るお前達。
ならば、魔女の力を恐れる筈だ。
薪を積み上げるだけで、神の使いを呼びもせず、ここにいるのはただ人ばかり。
つまり、魔女など言葉だけ。
お前達は恐れなど欠片もない。
ただの慈悲深い女を生け贄にするだけなのだから。
捨て子に捨て犬、不都合な命を処分するだけ。
だから、魔女に仕え呪いをもたらす者なぞいないと考えた。
彼女は、魔女ではない。
そう、それが先ほどまでは、正しかった。
お前達は、見捨てた者に恨まれる事を恐れた。
そして見捨てる事しかできない者という評判を恐れた。
故にお前達は言った、彼女が魔女であると。
禍々しい獣は言いました。
炎は消え、恐れて腰を抜かした領主にいいました。
ならば、その通りになるように、お前達の都合にあわせてやろう。
領主は殺されませんでした。
でも、魔女も殺されませんでした。
町の側にある森には優しい人が住んでいます。
誰も森には入りませんが、捨て猫や捨て犬、捨て子達は、彼女を頼って森に入ります。
その森にはとても強い雄山羊がいて、身勝手に魔女と暮らしているからです。身勝手に、弱い者を拾い集めては一緒に仲良く暮らしているのです。
「昔の獣人領の処刑方法に、檻ごと焼くのがあるんすよ~」
「檻ごと?」
「鳥籠ってあるじゃないっすか、あれを大きくして人の形にするんですよ。そこに押し込めて獣化できないようにするんすよぅ~獣化すると金属で体のお肉がぁ~きゃぁ~っで、それを火にポイッと」
「なんと野蛮な」
「そうですかぁ?
昔の事ですしぃ~今だってぇ~王様、毎朝、ボンボン燃やしてるしぃ。そっちのほうがぁ野蛮っすよぉ~」
夜の帳が下り、コンスタンツェは出入り口の定位置に落ち着いた。
娘達は部屋に入り、窓を戸を閉めてこもる。
エウロラも今夜はオリヴィアの部屋に寝具を持ち込んでいた。
なにやら今夜は良くない感じがすると言うコンスタンツェの言葉に従ってのことだ。
「家の初代が、一応、その雄山羊って事になってるんすよぉ。
雄山羊印の商会っていうと、檻ごとやかれたのに、生き返っちゃった男って事で」
「寓話のどのあたりまでが本当の話だ?」
「殆ど嘘っす」
「おい」
「確か領主の女に手を出して、燃やされたらしいんすが。
溶けた檻ごと獣化して、まぁ血塗れの半生焼けで大暴れ、で、寝取られた領主の親父さんに気に入られて恩赦。
まぁ、強いが正義っすからねぇ~。
シマシマ焦げ焦げ模様になったらしくて、それが威圧感抜群に。
女癖悪いわ、暴力大好きだわの、まぁろくでなしの見本みたいな男だったんすが。
領主の親父さんに重宝されたらしくて~まぁ想像つくでしょ。
その領主って、どこの一族か。
で、その頃から商会の武具は、この金属帯みたいな格好なんすよ。
悪趣味は当時の、その領主の親父さんと初代の感性がぶっ飛んでたらしくて。
でもまぁ、これ、人型よりも獣化した時にいい具合に変形するんすよぉ~初代の冗談が極まった感じに」
「女癖の悪さだろう」
「おぉいい突っ込み」
オロフは装備を確認しつつ、面貌から突き出た馬銜のような物を噛んだ。
そして噛んでから兜の金具と首回りの垂へと繋げていく。
「口に噛ませて大丈夫なのか」
「喋りにくいっす。でもまぁ、獣化した時の顔面部分の保護場所を維持するんすよぉ~噛みつき攻撃の時は、バラして吐き出しますけど。それに、これ人型の時は踏ん張りがきいていいんすよぉ。歯の保護もかねてますからぁ~」
「ほぉ」
「これも初代の冗談装備の一つっす。
浮気がばれて奥さんにはり倒された時に思いついたとかぁ~」
「そんな先祖は嫌だな..」
「まぁ商会の男は、家のババァのお陰で、ヒンコウホウセイっすから」
「..品行方正という言葉の意味がわかっているのか?」
見える範囲の明かりは、守る男達の間に置かれた篝火と、ボフダンの女達が囲む焚き火。
思うより視界は良く、陰に落ちた街並みと外郭壁の陰を空と分けていた。
空は不穏な雲が流れ、青白い稲光が横に走っている。
空気には金臭い臭いはするが、湿気も雨の匂いも無かった。
「コンスタンツェ様の嫌な予感ってのはぁ~お告げですか?
それとも事実をつなぎ合わせた経験則の方っすか?」
オロフの問いに、コンスタンツェは長椅子の肘掛けから身を起こした。
「両方だ」
「ふーん」
虫の声が聞こえる。
館の周りの水場が、虫と小動物を生かしているのか、この周りだけは平和だ。
見回さずとも影や家具のそこここに猫が潜み、犬までもが最近は睡蓮の水辺で眠っている。
鳥は言わずもがな。
その割に糞尿の臭いや被害が無いのは、糞尿をする場所が決められており、鳥でさえその場所にするという、不思議現象のお陰らしい。
誰が躾た訳でもないのに、広場の隅にある砂山の囲いの中がいつの間にか、糞尿置き場になり、定期的に掃除がされて炭や灰がまかれる。
そしてその掃除を誰がやっているかといえば。
「もちろん、厳つい分派長だったりするんすよぉ」
「何の話だ?」
「いやぁ広場のお掃除っすよ、分派長が塵取りとか小さな穴掘り道具もって猫砂掃除してるんすよねん」
「衛生を保つのは疾病予防の基本だ」
「いやいや、それ広場のお掃除するお仕事の人がいるのに、よくやるなぁ~って」
「次席の僕と懇意のようだ」
「懇意って、何それコワイ」
それに猫にまみれている主は顔を広場に向けた。
どうやら、猫の呪いが過激派にも広がりつつあるようだ。
「その寓話にも多少の真実があるのだろうか。
女は何故、町で暮らしていなかったのか。
そして孤児を集めて養育していたのは何故だ。
領主は彼女を処刑しようとした。
大方、政治的な争いに、お前の先祖が介入したのかもしれない。」
「ただのスケベ根性かもですよぅ」
「まぁそうだな」
「一応、年寄りの昔話って奴だと、その始まりの女ってのはぁ、獣人の女とは伝わってないんすよぅ」
「殆ど作り事なのだろう?」
「作り事ですよぉ~住民が獣人だけなら、滅多に死病なんざはやりませんしね。
お話が成立しませんもの。
ですがこじつければ、何とか説明はつくんすよ。
南領西の方は砂漠が海まで続いてるんすが。ご存じの通り昔は遺跡を利用した小国が結構あったりしたんで、変化に富んでたんすよ。
だから、弱ヨワの人族も場所によっちゃぁいたわけで、女っつー表現にしてあるのは、どうやら、そこんとこも色々あったようで。
女の奪い合いと領土の奪い合いの末、かすめ取ったご利益で、商売を興したってのがぁ真相っぽいんす。」
剣の位置をなおしながら、オロフは含み笑った。
「でもでもですよぅ。
今になって、この話の意味を考えると、俺、ちょっとコワイっす。」
「何がだ」
「何がって森の女ですよ、コンスタンツェ様。
今更ですけど、何か、俺、ぞくっときちまいましたよ。
装備ひっぱり出しながら、こんな俺でも、背筋が寒くなっちまいますよ。」
「ほぅ」
「これっていわゆる偶然なんすかね」
「こじつけというものだ。人間は因果というものに安心するのだ。まぁ、気のせいとしておくことだ。忘れてはならぬがな」
森の人が関わるというのなら、嘘っぱちのゴート商会創立話も、真実としなければならない。
神、の意向に沿う嘘ならば、それは真実なのだ。
「ですよねぇ~」
指を動かし、金属手袋の具合を確かめながら、オロフは言葉を飲み込んだ。
寓話が一片の真実を含んでいたとしたら、それは喜ばしい事ではないだろうか。
眠る娘の一族は、様々な場所で某かの力に庇護されて隠されているかもしれない。
例え、どのような不遇の目にあっていようとも、絶滅までには未だ至っていないのではないか?
問題は、それに付随する諸処のもめ事であり。
オロフ自身にとっては、利益もあるが被害もあるわけで。
この猫にまみれた男が、もし、獣人領にも娘の一族の痕跡があるとなれば、どのような暴走を始めるか想像にし易い。
それはつまり、この家業を続ける限り高確率で、オロフが貧乏籤を引くことになるわけだ。
まして、仕事を辞めたとしても、この男と縁は切れそうもない。
腐れ縁とは正にこの事である。
さても難儀な事である。
首都にて隠居を目論んでいたオロフとしては、こうなると南領に居を移す事になりそうである。
夜の街を見ながら、鎧の中で薄ら笑う。
南領は出身地であるが、子供の頃から首都暮らしである。
訓練と仕事以外では南領に戻った事は無いのだ。
もちろん南領南部の泥水は飲み尽くしていたが、それもコンスタンツェについてからは、きれいな水ばかり飲んでいた。
「金を為替に変えとくか、南の貨幣価値って今どうだったかなぁ」
独り言を呟くと、オロフは立ち上がった。
お茶を自分で淹れている主を横に、戸口へと移る。
「どうした」
「分派長が来たっす。今夜はオッサンも夜番のようで、おぉ~見物っすねぇ~皆殺しって感じっすよぅ」
男の装備は鉄鎖に棘付き鉄玉がついた両刃の戦斧であった。
戦斧の握りの下部分から鉄鎖が伸びており、それが幾重にも肩に巻かれている。
そしてその背には、人の頭ほどの玉が揺れていた。
「ありゃぁ親衛隊の重鎧っすよ。
大戦場の装備ですよ、コンスタンツェ様。
ナニと戦う気なんでしょうねぇ~」
「棘か?」
手足を覆う金属から無数の尖った物が飛び出している。
「あれ、獣化するとまんまトゲトゲ装備になっていい具合に邪魔な何かを串刺しにするんすよぉ~歩き回っただけで、何かがグッサリと」
「野蛮だな、グッサリか?」
「まぁ刺さるのは柔い人族か、亜人ぐらいですけどぉ」
「野蛮だな、そうか、刺さるのか...」
「言ってる割に、見てみたそうですね」
「うむ」
「お願いしてみます?」
「止めておこう。シャルルレッソの説教は長い」
「確かにぃ~リアンちゃんがいないとぉ一晩中、人としての心構えを説教されちゃいますもんねぇ。珍しくコンスタンツェ様、黙って聞くんですもん」
「正論だけに、止めにくいのだ。」
「あぁゲルハルト侯爵様にぃ似てますもんねぇ」
「外見は似ても似つかぬがな」
陽に焼けた頭部は、髪のかわりにびっしりと入れ墨が彫り込まれている。
それは鼻梁にまで延びており、野蛮人を極めていた。
どこをどう見ても、女子供が逃げ出す風貌である。
黄金の両眼に逆さ牙。
食人鬼と呼ばれてもいいご面相である。
お陰で、魔神の巫女は、このオッサンのお気に入りだ。
悪鬼の容貌に巨漢、更には過激派の親衛隊とくれば、大凡の人族は腰が引けてしまう。
当然、誰もイノシシのオジサン(もちろん普通は怒られる呼称だ)などと、気軽に呼びかける強者はいないし、当人が、そんな馬鹿げた呼びかけを容認するはずもない。
今までは。
配置についた信徒の男達に声をかける姿を見ながら、オロフの視線が生ぬるくなる。
それ故に、可愛らしい少女が、はにかんで呼びかけたなら、オッサンは転げ回って喜んだはずだ。
事実証拠に、(転げ回って喜んではいないが)休みも館に通って娘たちの世話を何くれと無くやいている。
真面目な顔を取り繕って、あまり近くに寄らないようにしているが、猫の世話もその一環だろう。
そして、コンスタンツェの懸念を伝えれば、こうして得意の得物をかついで、オロフと同じく重装備でやってくるのだ。
「獣人の男って言うとぉ~女に甘いって評判ありますよねぇ」
「何だ、急に」
「俺は~甘くなっいっすよ」
「それがどうした」
「いえ、オッサンを見てたら、ちょっと断りをいれたくなりましてぇ~」
オロフ的に、獣人という種族の対外印象が心配だ。
粗暴野卑野蛮、それでいて女にチョロいと言われる獣人の男であるが、それほど人族他と違うわけではない。
女を雑に扱う男もいれば、神経質な男もいるし、粗暴な振る舞いが嫌いな男もいる。
まれにだが。
女が嫌いな男もいるかもしれない。
見たこと無いが。
「雨、降らないんですかねぇ~」
雷鳴が徐々に間を狭めて鳴り響く。
「ここで雨具を使った記憶があるか?」
「ありませんねぇ~秋に、ちらっとお湿りがあるぐらいですから」
「雷も久しぶりではないか?」
「確かに~」
長椅子から身を起こすと、コンスタンツェも戸口から顔を出した。
二人して夜を迎えた空を見上げる。
「おかしな気配がする」
「雷にですか?」
「声だ」
「うげぇ、勘弁」
「場所は定かではないが、誰かの囁きが流れている。
広場の敷石の囁きでは無いな」
「敷石の囁きって」
「この広場の敷石には神官どもとジェレマイアが祈りを刻んでいる。
ここに入るだけで、邪悪の徒は弱るのだ」
「マジっすか」
「夜毎、現れる者どもも、力をそがれている。漸う近づいても、足は鈍り動きも縛られよう。」
「んじゃぁ何で、猫のオカアサマは放し飼いなんすか」
「そこが不思議よ。
邪悪と言うには魔に宿る力が違うか、又は、物質としての比重がこちら側に無いからなのか。まぁ僕の親ならば当たり前か」
「当たり前じゃねぇっすよぅ。なるほどねぇ~神殿の作りと同じなんすね」
「よく知っているな。神殿の建材は祈りの言葉が刻まれている。
生中な、汚れは入り込めぬはずなのだ。
が、まぁ邪悪が内側にて育まれれば意味は無いが」
「なるほど、箱は綺麗でも中身が腐ったらダメなんすね」
「囁きは、まだ弱い。やはり、夜更けに来そうだ」
「何が来るんです?」
それにコンスタンツェは、唇を引き上げた。
「多分、相対する者にとって、一番、恐ろしい姿で来るだろう」
風は西から吹き、都をゆるゆると撫でていく。
青白い光りを見上げながら、オロフは首を傾げた。
「恐ろしい姿ねぇ」
何が気になったのか、閉じていた目をオロフは開いた。
夜も更けて、外の男達が交代をして直ぐ。
頭上には相変わらず雷が居座り、音をたてている。
閉じていた目を見開くと、オロフは戸口から身を起こした。
コンスタンツェは長椅子で眠っている。
それを確認してから、閉じていた扉を開いた。
可愛らしい鈴が鳴る。
戸口に下げられた鈴だ。
可愛らしい木彫りの妖精が鈴を下げている。
それがチリンと音をたてた。
戸口に一番近い篝火の側で、シャルルレッソが振り返らずに言った。
「奇妙な物が沸いている。
動きは無いが、少しづつ増えているようだ。
もし、近づくようならば殿下に視てもらいたい。」
それにコンスタンツェが顔を上げた。
目覚めたようだ。
「何処だ?」
「あれに」
示された場所は館の正面、南に位置する広場の端。
青白く浮かび上がる敷石の上に、何かが黒く盛り上がっている。
大きさは犬ぐらいだろうか。
もぞもぞと蠢き、形を揺らめかせている。
東側に寝床を構えたボフダンの女も数人立ち上がり、ソレを見ている。
昼間あれほど浮かれ騒いでいた様子は今はない。
ただただ、闇の中に立つ灰色の影となり、異様な気配をしていた。
「アレはいいんすか?」
「望んでいるのだ、気にする必要はない」
シャルルレッソの言葉に、オロフは密かに笑った。
すべての女に甘い訳ではない。
確かに、獣人の男は女が好きだ。
だがそれは男の理屈で、ヤサシイだけだ。
「あの黒くてブヨってるのってなんでしょうねぇ~」
隅に湧いた何かは、うねり形を変えているが、その場に留まっている。
コンスタンツェは、懐の猫を降ろすと、戸口に立った。
「邪悪な気配ではない。だが、連なる何かが不穏だ」
意味が分からず、オロフとシャルルレッソは顔を見合わせた。
「釣り竿の餌に意志は無いが、竿を握る者が邪悪だと言っている。
あれは、某かの先駆けであろう。燃やせ」
それに分派長は頷くと、火矢を射るように命じた。
篝火から火を移すと、警備する者の一人が射る。
ヒュンっと音をたてて、それは見事に的にあたった。
燃える音、そして一瞬にして火が回る。
青白い炎が闇を押しのけてあたりを照らす。
「透明の粒々っすね」
オロフの感想に、誰も答えない。
黒い半透明の寒天状の物に、無数の眼球があった。
炎を纏い端から湯気をたてて溶け崩れるが、何処から湧くのか目玉が一つ溶ければ、また一つという具合に膨らんでくる。
血生臭いに臭いだけが広場に流れ始めるが、炎も消えず、異形もなくならず、汚水の泡のように途切れる事がなかった。
それを見て、火薬がたされた油薬がまかれる。
囂々と音をたてて青白い火柱が広場に立った。
そして眩しい光りが消えると、そこには黒い燃えかすが残った。
「近寄るな」
コンスタンツェの言葉に、確認に行こうとした兵の足が止まる。
そして彼の言葉どうりに、燃え残りが蠢いた。
「しぶとい」
ヌルリとした黒い蔦が燃え殻の中から延びた。
粘ついた水音をたてると、黒いモノが蔦の中から這いだして来る。
シャルルレッソの号令が飛ぶ。
火で燃やし、消し炭にし、そして再び何か黒いモノがあふれる。
そうしたやりとりがしばらく続いた。
「夜明けまでもつか?」
コンスタンツェの問いに、シャルルレッソは身振りで返した。
黒いモノの湧きの間隔が短くなっているのだ。
「一カ所なれば持つか」
「アレ、大きくなってますよね」
不定形の黒いモノは、今では牛程の大きさになっていた。
そしてぶよぶよと蠢いているが、大凡の形がわかるようになっていた。
人型だ。
腕の数や足の数は定かではないが、黒い何かは人型をしていた。
ぶよぶよとした固まりから、時に足が、腕がつきだし、そして中に引っ込む。
沢山の眼球が疣のようにボコボコと湧き、燃やされては蔦を絡ませてわき出してくる。
そして炎にやかれると潰れ弾けて、臭う。
人を焼いている臭いだ。
「汚れをまき散らしている。
多分、大業を使う前の儀式だ」
「どういう事っすか?」
「神殿へ使いを出せ。
どこぞで、呪詛をかける者がいる。
どうやら今宵の相手は、人だ」
不愉快そうなコンスタンツェの言葉に、控えていた兵の一人が走り出した。
広場の囲いの西に向かう。
と、その兵士の足が地面に沈んだ。
「トーレス!」
誰の名前か、分派長の声に、館を囲む男達が数人準備宜しく縄を取り出す。
「浸食が早いな。下を、見える者は位置を他の
者に教えろ。汚れが淀み、そろそろ具現化し始めている」
コンスタンツェの言葉に男達が足下を見る。
微かに黒い波が見えた。
堅い石畳に幻の波が打ち寄せている。
「早く引き上げろ」
分派長のこめかみに怒りの為か筋が盛り上がる。
それに男達は力業で伝令をつり上げた。
「無事か?」
それに異臭がする以外、体調に変化は無いとの答えが返る。
幻の水は、腐った卵のような臭いがした。
「ほぅ、その程度の浸食か。
城へ合図をする程でもなかろう。
シャルルレッソよ、隙ができれば渡らせる。
汚れは強いが術者は大した者ではない。
呼び出す者の命が尽きれば、簡単に終わろう。
問題は、力に見合わぬ汚れがまかれている事だ。」
「忌々しい愚か者が、自滅を待つのも業腹」
「姫をお守りするのが先だ。それも朝まで保たせればどうにでもなる。」
「朝まででっすか?臭いの嫌だなぁ~館の中まで臭っちゃったら、掃除しなきゃですねぇ~」
緊張感の欠片もないオロフの言葉に、コンスタンツェが頷く。
「まったく、けしからん。
しかし夜が来るとは、つまり、陽の光りの恩恵もあるという事。
夜に力を得る者は、昼間の光りに弱体化をする。
何をするにも、恐れるは夜だ。
それに如何に力を得ようと、卑小な人ごときが理に逆らうのだ。
一晩保てば十分よ」
ドンっと一際大きな火柱があがる。
黒いモノは燃え殻になり、飛び散った。
「問題は~力の無い奴が、無理矢理、何かをしようとしているって事ですか~」
異形がわき出す場所、その石畳に円が見えた。
時が経つごとに、青白い敷石に黒い波が漂い、その波紋の中心には黒い帯の円が回転を続けている。
呪陣は言葉を刻み、奇妙なざわめきと囁きを纏って動き続けていた。
そしてその円の中心からは、半透明の影と目とヌルリとした蔦がわき出し続ける。
徐々に大きく、そして異臭をまとい、汚れが広がっていく。
「時に人は愚かに過ぎて、思わぬ事をしでかす」
黒い固まりから手足が突き出ては溶ける。
それが幾度か繰り返されたとき、一つの固まりが分離した。
糸を引き、それは呪陣の外へと転がり出、そして小さく震えた。
そして凄まじい速度で体表を大きく膨らませた。
「呪、とは、面白いものだな」
「面白いっすか?」
「そうだろう?全てはここから生まれるのだ」
コンスタンツェは己の頭を指さして笑った。
「笑えねぇっす」
むくむくと膨れ上がった姿は、神話の怪物に似ていた。
尖った角に、隆とした筋肉、そして下半身は獣。
薄灰色の異形は、見上げるほどの大きな体をしていた。
半獣の男の姿に、分派長の頭部にまで怒りの筋がわき上がる。
それはまるで獣人の男を貶めるかのような姿であった。
腰布一つに大きな斧を手にした異形は、涎を垂らして獣頭を巡らせた。
蹄を一歩踏み出すと、敷石が音をたてて割れる。
現世への干渉が強くなっていた。
「不浄の物め、恐れおおくも神の庭に足を踏み出すとは、不届き千万!
神の先兵たる我が相手をしてくれる」
むくむくとシャルルレッソの体が膨れ上がる。
「皆の者、不浄を滅せよ」
館を守る男達は、油薬を取り出し武器を抜いた。
そして、
「不浄を滅せよ!」
と、繰り返す。
そして歯を剥き出しにして足を踏みならす。
大声援だ。
ため息がオロフの口から漏れる。
「楽しそうっすね」
野蛮な夜が始まった。