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冬の狼  作者: CANDY
薄明の章
286/355

ACT251 夜にいたる扉 ①

 ACT251


 グリモアを得てから、変化したことの一つ。

 それは匂いと視界だ。


 元々、獣人の感覚器は、人族よりも刺激を受け取る幅が広い。

 それが更に繊細なり強化された。

 香りの変化は微細な物も感じ取れるし、光りも直視できる程になった。

 己の弱い網膜が焼け、失明する心配は無くなった訳だ。

 これも彼女の優しさで、重なるようにグリモアの呪いでもある。

 だから彼女の言うとおり、見たくない物まで見えるようになった。

 嗅ぎたくない臭いにも敏感になり、見えすぎる視界に脳が揺れるような感覚も増えてもいる。

 一度に、世界が鮮明になったというのだろうか。

 実は、木々の風に揺れる姿でさえ、驚くほど心をうたれている。

 美しいのだ。

 まるで、彼女の視界を得たような感覚だ。

 たとえば落ち葉が一片落ち、くるくるとゆっくりと回転する様が見える。

 別に本当にゆっくりと動いている訳ではない。

 自分の感覚が、すべての動きを解体して見せるのだ。

 雨の一粒、鳥の羽ばたき、誰かのたてる音。

 すべてが詳細に感じられていながら、調和をもって己に届く。


 たぶん、もっと賢い者が力を得ていたならば、全ての命の言葉が読みとれているのだろう。

 自分には、それが感覚としてだけ理解できる。

 なんという事だ、と、驚きながら。

 命の輝きに、打ちのめされながら。


 だが、美しいと感じても、そこから先には進めない。

 力を得たのは、所詮、野蛮人なのだから。






 全ての準備を終える。

 死に支度は整い、同じ志と思える者をまとめる。

 少なくとも、そう思える者を集めた。

 そして夜に集う。

 以前よりも深く暗い夜に集まると、我々は王城へと向かった。

 緩衝地帯から外郭通路を進む。

 深夜の外郭通路を左回りに進むと一端地下道へと下る。

 軍の通路である。

 誰の視界にも残らないという建前である。

 たぶん、追い回そうという輩は、我々が外へと向かう筈と考えているだろう。

 だが、我々は王城へと至る軍の地下通路を進む。

 非常用の軍の物だ。

 それでも蠅はいるようで、サーレルは上機嫌だ。

 報告での犬の数はわかっているが、都を出るまでの数ではない。

 犬は獲物を捕らえて王に渡す。

 今回の獲物は軍ではなく、王の為の獲物だ。

 公王は、我々が出立すると宴を催す。

 さぞや盛大に火が燃やされるだろう。

 少しは、夜も明るくなる。


 やがて地下通路が終わり、軍の管理する内門に到着した。

 そこで手続きをせずに通過する。

 統括長が先頭である。

 手続きなど無用だ。

 我々は統括長の付録なのだ。

 記録は残らず、我々は水源へと旅立つ。

 まぁ、間違いではない。

 内門から先は、王府の北東側小庭園である。

 簡素な庭園は、夜の闇に白い陰を浮かび上がらせていた。

 武装した我々の姿も闇に朧だ。

 そして、そのまま王城の北側に回り込む。

 外郭壁にそった堀の渡しを歩み、更に壁と壁との隙間を進む。

 城の裏側の壁との隙間である。

 本来は雨水が滑り落ちる隙間にすぎない。

 ぎりぎり馬が一頭、それも普通の荷駄の馬が通れるギリギリの幅だ。

 スヴェンの肩当てがガリガリと音を立てている。

 もちろん、壁の方が削れているだろう。

 そうして装備を擦り、ゴソゴソと進む。

 頭上は高い壁と壁に挟まれ夜空さえも小さく、見えるか見えないか。

 人が入り込めないように、本来は、ここに鉄線が置かれている。それも、今夜のために取り払われていた。

 本来ここは、絡まれ棘に刺し貫かれた骨が残り、ちょっとした笑いを誘う場所だ。

 柔らかい鉄線であっても山となり棘を纏えば恐ろしい罠になると示す。

 その藻掻いた末の無惨な遺骸は、我々が通過すると元に戻されていく。

 その誰か、とは城付き、否、公王の専属拷問士だろう闇の輩が、いそいそと動き回るのだ。

 悪趣味というなかれ、王独特の冗談の一つだ。


 やがてその隙間を抜けると王城北側の儀式場へとでる。

 普通は城の通路を抜けて辿りつく場所だが、非公式故に賊のように無理矢理入り込んだのである。

 儀式場も闇に沈んでいた。

 建物は、円形の劇場型をしている。

 公式行事、式典に利用されるので貴族にはお馴染みの場所だ。

 そこに荷駄共々土足で入り込む。

 暗闇の中、静かにそっと通路を進んだ。


 凝った装飾に緋色の絨毯。

 天鵞絨の幕が室内を闇に包む。

 置かれた長椅子には人気は無く、壇上には二人の人影が見えた。


 公王と神殿長だ。


 犬どもはいるが、近衛は不在のようである。

 公王の人形は見えない。

 一段低い位置に立つ神殿長は、ジェレマイアを見ていた。

 その瞳が憂鬱なのは気のせいでは無いだろう。

 疲れ、悲しみ、彼の行く末を案じている。

 だが、人生は選択の連続だ。

 例え、間違いであろうとも己が選んだ末の事に、他者は口出ししてはならない。

 もちろん、忠言と情による言葉は、敬意をもって耳を傾けるべきだが。

 統括長は王に頭を垂れ、我々から離れた。

 ここからは、別の道を行く。


「これより公王家の秘儀を授ける。

 行き先は、そこな祭司長が伝えるであろう。

 それぞれに推測できるであろうが、今暫くは沈黙を守る事を願う。

 そして言葉として残し、約束しよう。

 これより遠き地にて果てようとも、御主等の献身に対して報いる事を。

 オルタスの王として誓う。

 御主等の血を敬い、最後まで敵対者を狩る事を。

 この世は、我ら人間の場所であると。」


 公王の言葉の後、神殿長が前に進み出た。

 その手には小さな錫杖と小ぶりの石版があった。


「言祝ぎの意味は気にせずにお進みください。」


 神殿長は、婚姻の言祝ぎと思われる言葉を語る。

 本来の秘儀が、婚姻にまつわる事のようだ。

 祝福に、古い言葉の呪言を混ぜている。

 呪われた視界に、その言葉がモゾリモゾリ蠢くのがわかる。

 つまり、神聖教の儀式は同じなのだ。

 呪術とは奇妙なのものだ。

 首を傾げて見守ると、呪言の虫どもは床に取り付き敷石を引き剥がした。

 自分にはそう見えたが、他の者には、たぶん、床の一部が消えたように思えたろう。

 囂々と床の穴から冷たい風が吹き付ける。

 重い闇に、白い石の階段が見えた。


 不意に、力が漲る。


 身の内の悪霊と、自分の愚かな魂が笑う。

 敵を潰しに行こう。

 試練を受け、魔神の求める者を隠れ場所から引きずり出そう。

 そして、取り戻すのだ。

 闇に踏み出しながら、己は笑っていた。

 見送る者には、さぞ、おぞましかろう。


 悲しむ事はしない。

 失ってはいないのだから。






 通路には水の匂いがした。

 水ではなく、水の気配だけがした。

 壁の苔は干からびていたし、踏みしめる石床は埃が舞う。

 なのに、水の匂いがした。


 隊列は、どこか、興奮した雰囲気に包まれていた。

 自分は殿にいる。

 先頭は、古参の連中、中間にグリューフィウス、ジェレマイアがいた。

 彼らを守る位置で兵隊が囲む。

 仲間は適度に散っていた。

 スヴェンとオービスは、ターク公の近くにさり気なくおり、ニルダヌスは分かっているだろうが、公の後ろを守る。

 そして、自分の両脇に、何故かイグナシオとヤンがいた。


 狂人に目をやる。

 すると、光りを称えていながら焦点が定まらない目がチラチラと見返してくる。

 笑顔だ。

 底抜けに、気分の良さそうな笑顔である。

 無意識に悪霊が笑う。

 ボルネフェルトの人格が、彼を見て手を叩いて笑った。

 優男の周囲に、どす黒い渦が見える。


(僕たちと同じだね。

 生きているのに、魂は完全に祟りを宿している!

 祟りを宿しているから、彼は自由だね)


「勘弁してくれ」


 思わずうんざりとして、こぼす。

 己の周りには、悪霊と狂人が集まる定めなのか?


(殺生を繰り返しているのに、怨嗟が彼に残らない)


「どういう意味だ?」


(彼の魂が怖いんだよ。相手は呪い祟る事ができないんだ、すごいすごい!)


「悪霊は悪霊を祟れないとでも?」


(生きながらにして、祟り神だね!)


 顔の良い長命種。

 ひょろりとした体躯に、少し前屈みに歩く。

 歩き方からして、確かに戦いに慣れた雰囲気はある。

 にこやかな男。

 もちろん、それは表層だけである。

 焦げた死臭は隠せず。グリモアの目からすれば、男の周りにはその渦がドロドロと淀む。

 その中心で、目だけがギョロリと見返してくるのだ。

 狂人ヤンとは、言い得て妙。

 笑いかけてくる様は、死に神が歯を鳴らしているように見えた。


「刺された傷はどうだ?」


 試しに狂人に話しかける。

 すると、嬉しそうにヤンは飛び跳ねた。


「あぁ、ありがたいことにぃ傷跡も無いねぇ、カーンの旦那よぅ。

 誰とさっきから、話してるんだぃ?

 見えそうでぇ、見えないんだ。

 イライラするねぇ、ヒヒッ」


「気にするな、ヤン。ついでに、この隊の長命種は殺すなよ。

 殺そうとしたら、お前の首をねじ切るからな」


「大丈夫ぅだよん。

 コルテスの旦那はぁ、一応、殺さない。

 あそこの兄ちゃんもぉ、公王陛下から殺すんじゃないと言われてる。

 大丈夫、他のちらほら感じる気配も、一応、殺さない、殺さないよぅ。

 だってよぅ、俺の娘を助けてくれたお人を、助ける人間はぁ、殺さない。たぶんね、ヒヒッ」


 つまり、殺せる自信があるのだ。


「待てのできない駄犬は始末する。

 よく覚えておけ。

 お前の娘は、彼女を助けようとした。

 だから、お前の同行は許そう。

 だがお前は野犬で、飼い犬ではない。

 この隊の人間を傷つけると感じたら、即、始末する。

 傍迷惑なお前の行いで、孝行な娘の行く末が決まる事を忘れるな。」


 ヤンはニヤニヤと笑う。


「旦那は、俺を殺せるね。

 よかったよ、殺せる奴がいれば、俺も待てができるよ。

 俺は良い犬だからね。」


 不安だ。

 狂人に理屈は通じない。


「大丈夫だカーン、俺が常に見張ろう」


 イグナシオの断言で、余計にイヤな予感が増した

 。

 理性という部分では、彼ら二人の程度は高が知れている。


「敵以外は壊さず、燃やさずだ。いいな?」


 多分、モルダレオがこの二人を俺の所によこしたんだろう。


「じゃぁ敵なら、殺してもいいんだよな?」


 ヤンの問いに、イグナシオが答えた。


「もちろんだ、ヤンよ。神に逆らう者共は、燃やすのが本道だ。」


「そうだよな!」


「そうだ!」


「サーレル、否、モルダレオ、こいつらを何で一緒にしやがるんだ!」


 隊列の前方、既に闇に消え始めている方向から、エンリケが答えた。


「人手がありません。カーン、貴方の護衛です」


「いらん!それに本当は、お前等面倒になっただけだろう!」


「分岐点です。お静かに」


 サーレルの声を最後に、隊は動きを止めた。

 と、モルダレオが前から引き返してくる。


「カーン、本来は無い枝道があるようです。

 人手を少しさいて、奥を確かめてみたいと思いますが。」


「かまわない、ついでにコイツ等二人を」


「駄目です。貴方自身が力を得ていたとしても、必ず人をつけてください。指揮官の勤めですよ」


 真っ当な事を真面目に返されると何も言えない。

 ただし、人選が酷い。


「俺も行きてぇ」


「自分も奥へ」


「駄目だ。外に出るまで殺しも、焼きも無しだ。いいな?」


 護衛にならん。


 枝道は人一人が通れるかという手彫りらしき隧道だった。

 奥を確かめた者がいうには、突き当たりには骨と化した死骸が膝を抱えて座っている。

 向きとしては主通路の方を向いているようだ。

 膝を抱えて死骸が座り込んでいるとは、墓穴ではないか。

 骨は男のようである。

 さても何の種族であるのか?

 長命種の最後が一握りの砂というなら、骨は長命種では無い。

 と、普通は考えるだろう。

 しかし、骨になる場合もある。

 自然死は砂。

 殺傷されて放置されても砂。

 例外は、過去に別種族の血が混じっていた場合と..。


「使徒の何れかの家系の者だろう。骨格に長命種の特徴がある。衣服の状態から、四五十年は経っているが、死因は不明。

 骨に損傷は無いが、殺害された可能性も否定できない。」


 と、ジェレマイアは少し笑って付け加えた。


「残存する何かは見受けられなかった。少なくとも亡者ではない」


 四五十年前、厭な符号だ。

 逃げようとして、通路に迷い込んだのだろうか?

 それとも。


 闇の通路は緩やかに下に向かって続いている。

 枝道は時折あらわれたが、最初の死骸以来、何も見つからない。何れも先は細くなり行き止まりになっていた。

 どうやら、枝葉の道は渡された地図から省略されている。

 先が行き止まりなら必要ないとでも?

 だが、何処かで己が否定する。


 地図を描いた頃とは、何かが違うのだ。

 そして、何かが違うからこそ、向かう先にも何かがあるのだ。

 何か、とても醜い事が待ちかまえている。

 そんな予感がした。


 灯りはつけていない。

 我々は闇に馴染んでいた。

 ターク公など獣人以外も困る様子がない。

 見えぬようなら手を引く所だが、皆、闇を見通すだけの眼を備えていた。

 もちろん、視力ではない。

 獣人は暗視に優れているが、彼らは視力以外の力が現れていた。

 闇は恐れるものではない。

 闇はとても馴染み深い世界になったのだ。

 その闇が満たされた通路は、古びていた。

 古びて水の気配だけがあり、風が吹いていた。

 侘びしく微かな音をたてて、冷たい風がそよりと吹き抜けていく。

 何処に抜けるのかと思えば、頭上に排気の小さな穴がある。

 それが笛のように鳴っていた。

 王家の通路の一つであるが、元々、都の地下は遺跡だ。

 遺跡の上に水路があり、水路の上に街がある。

 元よりあった何かを通路として外に繋げてあるのか、それも定かではない。

 無いが、この道は訳あって時折開いてきたそうだ。

 訳あって。


 今夜も、その訳の一つになるのか。


 装飾も無い石の通路、時折、手彫りとおぼしき隧道。

 代わり映えのしない景色が続く。

 風と人の動く音。

 確実に下に下がっているのは分かるが、方向は失っていた。

 道は下に下がるごとに曲線を微かに描いてる。

 はじめは右に、次に左、ただ、感覚的には、もっと極端に方向が変化しているような気がする。

 自分の感覚を信じれば、今は逆向きの南を見ていると思う。

 ただし、距離からすると城からは既に遠く、もしかしたら、位置は更に北上してるかもしれない。


「旦那ぁ、ニオイがするぜ」


 ヤンが不意に言った。


「感じとれん」


 イグナシオが言うように、自分にも気配は掴めない。

 それにヤンがニヤニヤと笑った。


「あぁ化け物じゃねぇよぅ、弱いニオイがするのさぁ。

 この近くだ。

 生きてるかも知れねぇぜ、ヒヒッ!

 獲物のニオイがするんだよぅ。

 一応、俺は良い犬だからね、知らせただけだよ。

 旦那の犬どもは、化け物と強い奴しか反応しないからねぇ」


 ミアに合図をし、先に見える複数の隧道に人をやる。

 暫し、隊の歩みを止めた。


「何でわかる?」


「そりゃぁ、アンタ等は殺気や悪いモンにばっかり気をやるからねぇ。俺は博愛主義者だから」


「ゲスが」


「ナシオの旦那だってそうだろう?

 邪教の輩や冒涜者のニオイは、すぐぅにピンとくる。

 得意なモンは人それぞれよ」


「確かに」


「納得するな、イグナシオ」


 やがて隧道の一つから、兵士が何かを抱えだした。


「何だ、つまらねぇ」


「どうしてだ、ヤン」


「子供は、まだ、獲物じゃねぇし女は鬼門だ」


「何でそこまでわかる?」


 襤褸布に包まれた小さな物体を見て、イグナシオが厭そうに言った。

 笑う狂人を余所に、鬼の形相を浮かべるミアを見て悟る。


「どうやら、お前は良い鼻をした犬のようだ」


「役にたつだろう?」


 襤褸布から、力の抜けた白い小さな手が滑り落ちた。






 意識の無い女児。

 栄養状態が悪い。

 水分をとらせて保温する。

 子供をどうするか頭を悩ませる。

 問題は、何故、この秘密の通路にいるか?

 という事だ。

 女児の服装は農民の物。

 やせ衰えている。

 だが、身につけている服は悪くない。

 貧しい故に痩せたのではない。とすれば、この場所に入り込んで飢えたのだ。


「一見人族だが、人獣混血だ。

 そのおかげで、飢餓状態に耐えられたのだろう。

 爪が割れている。

 痣も複数、殴打されたか。

 何かあったと見て良い。

 保護者の必要な年齢だ。

 この地下通路は距離的に大人の足で一日半の長さの筈だ。

 一本道の筈で、枝道は本来は無い。

 今までどうり、この先にある枝道が全て行

 き止まりなら、この子が入り込んだのは出口だ。」


 隊列は小休止し、それぞれに体を休めている。

 ジェレマイアとターク公は、子供を見守りながら渋い顔だ。


「出入り口を守る集落があります。

 その村の子供というのが正解ではないでしょうか?」


 ターク公の答えに、厭な予感が確信に変わった。


「出入り口はどうなっているのだ?」


「村には神官がいる」


 ジェレマイアの顔も暗い。

 多分、何かあって、神官が子供を逃した。

 そう考えるのが筋だ。

 そうして、閉じた。

 向こうにいるよりは、助かる可能性があると踏んだのだ。


「気にくわないね」


 ミアが呟いた。

 衛生兵の胸ぐらを掴み、何とかしろと無理を言う。


「意識は戻りそうか?

 手当をして喋る事ができるなら、このまま先に出てから行き先を決める。

 更に手当が必要なら、サーレルの配下と一緒に戻すか」


「駄目だ」


 意外にも反対したのはジェレマイアだった。


「子供に何か仕掛けられていたら、王城に拡散する。

 最悪、公王が倒れるような事があれば、面倒だ。

 この通路は出る為の物で、入り込む為の物ではない。」


 確かに。

 何も呪いは見えないが、力は万能ではない。


「暖めて水分をとらせて様子を見ましょう。

 これ以上何もできません。

 って、殴らないでくださいよ!

 水分、安静、保温、意識が戻ったら栄養をとらせる。

 殴打の痕も骨には異常がありません。頭部に外傷無し、様子を見る以外に、あだっ」


 衛生兵の言葉にミアが切れた。

 だがまぁ、いつもの事なので、そのまま子供は衛生兵が背負う。

 そうして、子供を連れて先に進むことにした。











 眠りについた冬の田畑。

 地平線はかすみ、朝焼けの雲が風に流れていく。

 井戸から水を汲み上げながら、彼女は白い息を大きく吐いた。

 白い息はふわりと顔の前で消えて、くしゃみが出た。

 寒がりの老犬は馬小屋から出てこない。

 若い方の二頭は、父と一緒に罠を見に行っている。

 臨月の母は、母屋で煮炊きをしているので、彼女が家畜の世話と水汲みをする。

 もうすぐ家族が増えるのだから、もう、赤ちゃんのようにしていては駄目なのだ。

 もちろん、ちょっと寂しいが、嬉しい気持ちもある。

 村の友達は兄弟姉妹がたくさんいる。

 一人っ子は、彼女だけだった。

 だから、妹や弟ができるのが嬉しい。

 できれば、妹が良いなどと考えていた。

 後、二往復で水瓶がいっぱいになる。

 桶を手に母屋への小道をゆっくりと進む。

 急ぐとこぼしてしまうからだ。

 サクサクと霜柱を踏んで、冷たい大気を吸い込む。

 だが、真冬の寒さは過ぎた。

 もうすぐ春だ。

 春がきて、花が咲き、家族が増える。

 蓮華の花、菜の花、花冠を作ろう。

 そんな他愛もない事を考えて、彼女は母屋の扉へと向かう。


 と、彼女は立ち止まる。

 そうしてゆっくりと振り返った。

 かすむ地平、薄暗い視界、父親の向かった森へと続く林。

 農地よりも東の森は、後ろに青い山の影が見える。

 彼女は柵の向こう、暗い森へと続く道を見た。

 犬の声が聞こえたような気がしたのだ。

 吠え声ではない。

 もっと怖い声だ。

 まるで、蹴られたか殴られたような、犬の鳴き声だ。

 耳を澄ます。

 彼女の家は森の際にある。

 狼だろうか。

 狼は滅多に来ないが、飢えれば家畜を襲う。

 彼女は桶を下に置くと、柵の出入り口が閉まっているかを確かめに走った。

 柵は父親が出て行くときに、重石で止めをしてあった。

 出入り口も荒縄で閉じている。

 去年から棘付きの鉄線もつけていた。

 大丈夫だと、彼女は次に鶏小屋と馬小屋の出入り口を見る。

 馬小屋の扉が開いていた。

 あわてて閉めに走る。

 小さな彼女は、母親似にて力持ちだ。

 だから、小屋の閂もおろすことができた。

 老犬が彼女の側に来た。

 よろつきながらも、犬は森を見て、彼女の側に寄り添った。

 森からは、何も音がしない。

 でも、彼女は怖かった。

 母屋に老犬と一緒に走り込んだ。













 グリモアを得て、変化したこと。

 匂いと視界、そして...。

 夢を見るようになった事。

 悪夢が勝手に忍び込んでくるのだ。

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