Act28 蟲
ACT28
「行く必要はない」
カーンに異変を告げようとした私を領主が留めた。
「彼は粛正者です」
「かまわない、ここを閉じればすむ。」
「後から、沢山の人間が来ます」
「ワシが行くよ」
ふらつく爺では、向かい風の中を歩けない。
押しとどめると、私はカーンに手を振る。
気が付かない。
踞る男の一人の胸ぐらを掴んでいる。
来るぞ
目を閉じろ
半歩、私は円の中にいた。
私は目を閉じる代わりに、振り返った。
なぜか、皆が驚いている。
片足が足場を失い、私は後ろに倒れる。
急の事なのに、何故か、ゆっくりと視界が回る。
爺達が手を伸ばす。
領主が腰を浮かす。
天井が見える。
落下。
どんどん光が小さくなる。
私は落ちていく。
手だ。
カーンの斬った手が闇と一緒に私を囲む。
落ちる。
否、もとより闇の中にいたのだ。
ずっと、一人で
私は目を閉じた。
寒い。
目を見開くと、薄闇が広がっていた。
石畳の上に倒れており、体が冷えていた。
一人だ。
上を向くと天井があり、落ちてきた様子はない。
見える範囲は、町並みのようだ。
薄暗く、古びた建物が並んでいる。
街灯に灯りはなく、人影は無い。
どれも石の作りだが、埃は思ったよりもない。むしろ、不自然なくらい往時の様子を保っている。
立ち上がり、側の家の窓を見る。
そう、この窓には布が下がっている。
古びているが、姿を保っている。
扉は木だ。
触ると朽ちた様子はない。
家々を見て回る。
様式は見慣れないが、普通の民家に見えた。最初に見た古代語の文様が所々にある。装飾なのだろうか。
その割に水場や食料を置いてあるような場所がない。
不自然な町並みだ。
人間が暮らすには足りない。
井戸のようなものは見あたらない。
町では無いのか?
道が二股に分かれている。正面には商店のような作りの家がある。
窓には薄い硝子がはめ込まれている。
硝子は貴重だ。
このように、薄く透明なものは見たことが無い。表面にふれると、店の奥に何かが動いたように見えた。
私は小刀を抜くと、扉を開けた。
小さな鈴の音がした。
しかし、扉に鈴は付いていない。
静かな店内に半身を入れて中を見る。
誰もいない。
扉を大きく開けると、足音を立てないように静かに中に入った。
店内の陳列棚には、紙が積まれていた。
一枚とると、びっしりと文字が書かれている。
紙も貴重な品だ。
ここまで薄く斑のない品物は知らない。
裕福な領主でも紙を簡単には手にできない。公文書に使うのがせいぜいだが、それにしてもこのような薄く美しい物は無い。
読めないのが惜しい。
紙を戻すと、店内を見回す。
会計をする机が奥にある。
様々な小物が並んでいた。
硬貨に何かの器、筆記具は真鍮のように見える。
帳簿のような物が開いたままで、まるで、ついさっきまで誰かがいたように見えた。
無論、墨は乾き、硬貨は何年もここにあったようでうっすらと埃がかかっていた。
それでも、放置したようには見えない。
紙など、一番保存が難しい。
机の後ろは、布が天井から下がっている。
奥は住居だろうか。
私は、そっと布をめくった。
深い緑の天鵞絨だ。
その奥は、奇妙なことに室内ではなく。建物に囲まれた空き地であった。
小さな四角い空き地は、中央に女性の石像があり、緑の木々の代わりに、奇妙な物体が置かれていた。
細い金属で草花を形作っている。太陽の無い世界では無理だからだろうか。
空き地は建物に囲まれて天井だけが開いていた。どれも建物の裏手に当たるのか、入り口は店の所だけで、他の三方は壁だけだ。息が詰まるような場所である。
こんな所に、人がいたのだろうか?
多分、人はいなかった。
物を食べ、水を飲み、日の光を求める人間には暮らせない。どうみても、天災によって地下に閉じられた町では無い。元々、この薄い闇の中を抉り作った石の町なのだ。
空気の流れはあるようだが、こんな場所で普通の人間が健康を保つ事は無理だろう。
噴水も水場もない。
必要としないモノがここで暮らしていた。
棚の位置や扉の大きさは、普通のものだ。だから、人間の町だと思った。
だが、この小さな空き地の石像が、実際の住人を模したものだとしたら、どうだろう。
見上げる石像は美しい体をしていた。
女性の豊かな胸、ほっそりとしてなよやかな足。薄物を纏う神殿の女神像のような立位である。
しかし、その首から上は悪夢のようだった。
蟲である。
うねる髪が風になびき、その顔は昆虫の造形であった。
顔半分を複眼が占めている。
これに似た物と言えば、蜻蛉だろうか。
両手、否、前足は水掻きのついた蛙にも見えた。
美と醜が混じり合い、その違和感が不気味だ。
想像した物だったとしても、悪夢の産物である。
そして、これが標準的な姿なら、あの男の言う地獄の住人その物だ。
その時、音がした。
やはり、鈴のようだ。
私は店に戻り、そのまま通りに出た。
静かだ。
私のたてる音以外、町からは何も聞こえない。
だが、どこからか、チリンと微かな鈴の音がする。
店を挟むように分かれる道の右手に私は歩き出した。
本当は、駆けだしたくなった。
もう、こんな場所は嫌だった。
ただ、家に戻って扉を閉めても、ずっと悪夢のままのような気もした。
森の奥の穴には化け物の国があるのだ。
まるで、墓石でできているような、石の町があるのだ。
だが、都にも人の首を狩る男や、刺されて消える者もいる。
私の知っている世界は死んでしまっていた。
どこに、息をつく場所があるのだ。
少し上り坂になり、見晴らしの良い場所に出た。
公園だろうか。
石の像が散在し、金属の花が置かれている。
その石像は様々な男や女を模していたが、いずれも空き地の物と同じ姿をしていた。
所々に石碑がある。
文字が刻まれていたが、もしかすると、墓なのだろうか。
一際、大きな石がある。
そこから聞こえるようだ。
静かな町。
誰かいるのか、あの場所から落とされた他の人間がいるのだろうか。
白い沢山の石碑が並ぶ間を抜ける。
確かにいた。
私は困惑し立ち止まった。
そこにいたのは五人の男女だ。
そして、困惑したのは、私は彼らを知っているからだ。