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冬の狼  作者: CANDY
薄明の章
274/355

ACT240 白き陽射しに闇を見る 下③

 ACT240


「俺、今度休暇がとれたらぁ~」


 そろそろ無駄口にも慣れてきた。


「ババァの知り合いでもいいから、女の子紹介してもらうんだっ!」


「...」


 と、思っていたが、どうやら間違いのようだ。

 ハーディンは、煤けて見えない通路標識の板を拭いていたが、思わず首を傾げて動きを止めた。

 何を思っての発言か理解不能。

 単に意味のない軽口なのだと聞き流すには、発言した本人は非常に真剣な様子だ。


「何言ってんのお前?」


「頭領の紹介って自殺行為だぞ」


「...」


 二人の後ろに続く護衛達から、透かさず容赦の無い突っ込みが入る。


「え?こういう場面のお約束でしょぅ~ほら、生きて帰るんだ、俺!とかぁ~」


「お前、いつも思うんだが、その思考回路はどういう作りなんだ?」


 コンスタンツェにまで言われたオロフは、いつものヘラヘラとした表情に戻ると答えた。


「緊迫の場面で呟くとぉ、こう芝居物だと次にぃ盛り上がる場面が、ドカーァンとぉ」


「ドカンと、ならんでいいです。」


 珍しくハーディンが言葉を挟む。


「..ならんでいいです。」


「すんません、したっ!」


 二回繰り返されて、オロフと護衛達は思わず頭を下げる。

 それにハーディンは表情を緩め、苦笑した。

 こんな場所でいつも通りに振る舞える。

 あきれつつも、そんなオロフ達に感心しているのも確かだ。

 こんな場所。

 汚れた水路を突き進むと、点々と汚物のような固まりに出くわした。

 ハーディンは空気の流れを確かめ焼く。

 それは奥へ行くほどに堆肥の山かと思うほどに通路を塞ぐ。

 手持ちの油薬の残量に問題は無い。

 火の扱いは慣れている。

 窒息も焼死もする事は無い。

 無いが加減が難しい、自分を押さえる事が。

 すべてを炎にかえしたい。

 本心は徹底的に焼き払い、神に捧げたい。

 オロフが言う終末を予感し、心が塞ぐ。

 不快だった。

 恐れ、憎しみ、怒り、悲しみ。

 未だに囚われているのだ。

 不快な記憶が蘇り、今夜、悪鬼が見せた審判を思いだす。

 非業の死を遂げた弟は、今頃、どうしているだろうかと。

 死して安らかな場所へとたどり着けたのだろうかと。

 そして、そんなハーディンの気鬱を感じ取るかのように、傍らの護衛達は相変わらずの調子だ。

 それが正しい。

 場に飲まれては油断になる。

 ハーディンはオロフ達と共に、目の前の扉を見上げた。

 汚物の先。

 その汚物共は、扉にとり縋り息絶えていた。


「まぁ確かに」


 コンスタンツェは斑の猫を抱え、楽しそうに笑った。


「芝居物なら扉の先は地獄だろう」


 薄暗い視界に青白く扉が浮かぶ。

 黒々とした人型の何かが、その取っ手の無い扉に手を伸ばしていた。

 表面には古い文字が書き込まれているが煤けて読めない。

 扉の上部は半円を描き、扉の上、壁には何かが張り付いていた。


「何すかコレ?」


 汚物を厭そうに蹴り飛ばすと、オロフは顔を近づける。

 何かの彫刻のようだ。

 手のひら程の大きさの、何か円と四角、そして棒のような形を組み合わせた物だった。


「聖印だ」


「何すかソレ」


 コンスタンツェは、やれやれと肩をすくめた。


「神域の印と同じだ。」


 意味がわかるまで首を傾げていたオロフは、ぽんっと手を叩いた。


「アレっすか!立ち小便禁止のところに描かれてる神様の印。罰が当たるから、ここですんなよぅ~ていう」


「下品だな、が、まぁ間違いではない。

 神域を示し、神が宿り通り過ぎる場所を表す印の古い物だ。

 この辺りから浄水場でも遺跡を利用した場所になるのだろう。

 水を清め、人々に与える場所だ。

 こうした印は昔ほど置かれていた。

 あるいは、水神の彫像などもな。

 迷信だとて、神の姿や神の居場所を記す物を置けば、人は敬い、塵や汚れを持ち込まぬだろう。という古代信仰から来る慣習の一つだな。」


「詳しいっすね、コンスタンツェ様」


「信仰など馬鹿にしていたが、これでも大人になるまで神殿で育った。ジェレマイアは言葉を話す前からどっぷりと学ぶ環境であったが、私も同じようなものだ。」


「んで、極端に拒否反応をおこして今に至ると?」


 笑うコンスタンツェに、オロフも笑い返した。

 人生選択の強要に拒否反応を起こした。と、いう過去は同じのようだ。

 家業を継ぎたくなかったオロフに、親族に利用される事を忌み嫌ったコンスタンツェ。

 なかなか終わらない反抗期は、大人になって拗れまくって今に至る。


「どうやって開くのでしょうか?」


 ごく普通の金属扉には、取っ手がない。

 化け物共も、最後のあがきに助けを求めるように押し寄せたようだ。それを見れば、いつもここは通れていたと考えられる。


「ふむ、お前達、よく見てみるといい。わかるようなら、お前達も深く染まってきている証拠だ。」


 促す男から視線を外すと、四人は扉に眼をあてた。


 薄暗い中に、青白く扉が浮かぶ。

 古く腐食したような継ぎ目。

 特に何かあるわけでもない。

 扉の周りの壁は闇に消えているが、滑らかな石である。

 このたどり着いた場所は水路や水槽の奥にある。

 手前には分厚い鉄板で覆われた発動機らしき物が連なっている。

 水が失われたと同時にそれらも動きを止めていた。

 空気の流れもよくわからず、ただただ闇が深く降り積もっている。


 しかし、オロフはその闇を見ているうちに、何だかむず痒いような気持ちを覚えた。

 細かな虫にたかられたように苛つく。

 何が苛つくのか?

 視線を左右に動かす。

 すると、明るい光源を直接見た後に、暗闇へ放り込まれた時と同じように視界が変だ。

 視界の中に残像のような、目の眩んだ後の瞼の裏に見える反転した景色のような物が見えた。

 ウゾウゾと不愉快な、少し光りを含んだような細かい何かが、目前の闇の中を蠢いている。

 眼を擦り、もう一度、視線を動かす。

 すると壁や扉の上を、幾万の蠅が蠢くように何かが動いていた。

 蠅と言ったが、一番似ているのは文字だ。

 帳面に記された文字が、勝手に紙からこぼれ出て、蠢き広がっていくように見える。

 それは蝗が畑を食い尽くすように、見える限りに広がっている。

 これにはオロフも鳥肌がたった。

 むず痒いどころではない。

 己の身体には集っていないだろうに、背筋がぞわぞわとする。


「虫っすか?」


「他の者はどう見える?」


「焦げたように黒いですね」


「俺も」


 護衛二人は、眼を凝らすうちに、視界が塞がっていくような感じを覚えた。


「何かが動いています。黒い流れがみえるような気がします」


「うむ、では、もう少し見つめるといい。そして耳を澄ますのだ。」


 虫は踊り、手を繋いで動いている。

 オロフには、そう見えた。

 ただし、音は聞こえない。

 楽しそうにわいわいと踊る黒い虫。


「黒い虫が踊ってるっす。意味わかんねぇ~」


「黒こげが壁と扉を這い回っているように見えます。」


「虫ですかね、でも、何にも聞こえませんが」


「ハーディン、どうだ?」


 ハーディンは顎髭を擦ると、眼を閉じた。


「確かな何かは見えません。ですが、囁きが聞こえます。

 言葉を、ずっと繰り返しています。」


「何と言っている?」


 暫し言い倦ねて、ハーディンは息を吸い込み吐き出した。


「馬鹿になどせぬ。聞こえたまま答えよ。今宵は、その馬鹿馬鹿しい事が真実となったのだからな」


 異形の目が闇に浮かぶ。

 宝石のように輝く眼球は、その一つ一つの粒全てに景色を映し込んでいる。

 魔神の眼は、ハーディンを面白そうに見ていた。

 正直さが肝要である。

 賢さよりも愚直であれ。と、ハーディンの神も望んでいる。

 ならば、と、彼は答えた。


「..薔薇の苗を荒らし盗む者は、呪われるがいい。

 忌まわしき者として呪われろ。

 子猫を池へと投げ入れる、愚かな者は死ぬがいい。

 苦しみ朽ちて蔓薔薇の、苗の糧となるがいい。」


「何かの歌っすかねん」


「子供の声です。幼い子供の声が、大勢で歌っているように聞こえます。ただ、小声の囁きが重なるように聞こえるので、集中しなければ言葉とは気がつかないかと」


「何ソレ、怖い話っぽいっす!つーか真面目な旦那の真面目な返しは、ボケじゃないんですよね!」


 ハーディンは耳穴に指を入れて掻いている。気持ちが悪いのだろう。

 それにコンスタンツェは満足そうに頷いた。


「お前達は、姫の御加護を頂いたのだ。

 夜を生き延びる杖と灯りを手に入れたのだ。」


 コンスタンツェは前に出ようとした。


「近寄っちゃダメっすよ」


「私は僕である。

 姫は力を手放されたが、僕としての使命は残された。

 それはグリモアの継承者が姫以外におらぬからだ。

 ウルリヒ・カーンは与えられたが、それは守護の為、そして供物としての役割を受け継いだからだ。

 故に、グリモアの毒は、私には効かぬのだ。」


 止める護衛を側に置いたまま、コンスタンツェは扉に近づいた。案じる周りの者を見回すと、コンスタンツェと斑猫は、バカにした表情を浮かべた。


「この這い回る呪いを見よ。

 あの思い上がった男の愚かしさの証明ぞ。

 己だけが特別で、選ばれた人間だと、本気で信じていたのだろう。

 だが、残った物は汚らわしい呪詛だけだ。

 賢く尊い魂ほど、グリモアが人間には不要の力と理解するだろう。

 確かに特別な存在だけがグリモアの主となる。

 だがグリモアを手にし義務を果たし、そして我が君、オリヴィア姫のように己が犠牲を払える者がいようか?

 そして姫でさえも、血筋と魔神が与えた役割により、手にしていたのだ。

 人が望んで手にできる物ではない。

 望んではならないのだ。


 なぜならば主になるとは、即ち不幸。


 グリモアなぞ、本来、人が幸福になるための道具ではない。

 人間の本性をむき出しにし愚かにさせるのが、グリモアなのだ。

 欲望の無い人間など、この世にいるか?

 それを弁えていてさえ、万能なる物を手にすれば正気でいられる訳がない。

 ましてグリモアとは、欲望と言う魔物、なのだ。

 魔物の主に求められるのは、己が欲望を堪えるだけの強い魂の輝き。

 力を手に入れて、我欲を満たす事を一番とすれば、主の資格は失われ呪われる。

 魔導が虚無から力を得るように、グリモアは人の業を好むのだ。

 業が過ぎれば魂の位階は落ち、荒廃が虚無を呼ぶ。

 グリモアは理を正す道具でありながら、その理を破壊する性質も備えているのだ。

 毒を征するには、毒を知らねばならぬように、グリモアは、その両極を主の裁量で行き来する。

 故にその糧とするは人の血肉であり、力を支えるは魂の泉だ。

 魂の泉とは、魔神が居を構える宮の底にある。

 宮の底では魔神が眠り、非業の死を遂げた者や不遇の魂を集め沈める。

 それが魂の泉であり、魔の神の寝所なのだ。」


 聞く者を見回すと、コンスタンツェは猫に頬をすり付けると笑った。

 猫は、合いの手を入れるように鳴き、オロフ達に牙を見せた。


「眼を与えられた私が訪うと、魔神はいつも微睡んでいた。

 恨み辛み恐怖や絶望を溶かし込んだ泉を魔神は住処とし、その岸辺にて少しずつその痛みを取り除いている。

 痛みを取り除き、魂の輝きを取り戻す救済を行いながら、その恐怖と絶望を吸い上げてグリモアに喰わせているのだ。

 現世に罪科を戻し支払わせる事。

 それがグリモアを動かし、理を自在に操る力となるのだ。

 故に呪いその物ともいえよう。

 だから魔神が名を捕らえ、グリモアを与えるからこそ主になれるのだ。

 グリモアの主から力を盗んでも、どんな風に騙して手に入れても、呪いからは逃れられない。

 グリモア(魔物)は、力であり呪いなのだから。


 矮小なる人の分際でグリモアを求める?

 騙し殺し奪い取る?

 己は特別な命?


 笑わせてくれる。

 特別な血筋など無い。

 私の種は、皆とは異なる。

 だが、特別でも上等でもない。

 私は裕福であった。

 だが、上等な人間かと聞かれたならば、答える事さえ馬鹿らしい。

 金があろうが誰から生まれようが、高等な教育うけようが見目麗しかろうが、魂の質には関係が無いからだ。

 私は、特別ではない。

 お前達も私も、特別ではない。

 違いは魂のあり方だけだ。

 故に他者を蔑む理由は無い。

 寧ろ、私は弱く愚かだ。

 人とは、そういう生き物だ。

 人は、一人では生きていけぬ。

 私も幾人もの人々に生かされている。

 身分により丁寧にも扱われよう。

 だが、それが当然ではない。

 昔の愚かな私は、気にもしなかったが。」


「コンスタンツェ様はぁ、貴族の坊ちゃんにしては、アホでもなければ、嫌な野郎ではぁないっすよぅ~ちょっとアレですけどぉ」


「..アレとは何だオロフよ」


「誉めてるんですよぅ~、実際、コンスタンツェ様は、使用人の女性に無体を働くようなゲスがいたら脳味噌粉砕するしぃ、偽善者をヒィヒィ言わせたりはしますけどぉ、女子供を虐める屑貴族のガキじゃぁないっすもん。

 脳味噌解剖とか、お嬢ちゃんの追っかけとかしてるけどぉ、それはアレで何とか犯罪者まではいってないですしぃ~」


「誉めてないだろう、寧ろお前は私を何だと思っているんだ。

 まぁよい。

 兎も角、私は恥いるばかりだ。

 己が不幸ばかりに目を向けて、大罪を知らずに生きてきた。

 過去の私は愚かであった。

 それ故に僕になることができたとしてもだ。

 姫の苦悩や得られるべき庇護を失わせた原因が、この血と同じ者が与えたと知った今。

 私も、魔神へと願おうではないか。

 姫は誰も責めはしないだろう。

 だから、私が代わりに願う。

 そこな呪いと同じく、呪ってやる!

 永遠に苦しむがいい、ネストル・フレド・エル・オルタス!」


 最後は、この場にいない男に言うかのように、コンスタンツェは声を大きくしていた。そうして彼は片手を扉にのばすと、人差し指をはしらせた。


「何をしてるんです?」


「ここに溢れているのは、あの男に返された呪いだ」


「ノロイ?」


「呪い、だ。

 男のグリモアは魔神に戻された。

 残っているのは二つ。

 ウルリヒ・カーンとヨルガン・エルベなる者が手にしている。

 何れも、魔神より与えられている故、呪われてはいない。

 今、目の前に蠢いているコレは、魔神が取り戻した分の呪いだ。

 本体の男はもういないが、呪いだけは残ってしまった。

 悪臭の元を消したが、臭いが残ったというところだ。

 だが何れ消えて..」


 コンスタンツェは指を動かし、蠢く物をかき分けた。


「ジェレマイアに言っておくか..」


「何をです?」


「面白い事になりそうだとな」


「手がかりっすか?」


 かき分け黒い濁りがよけられると、扉には赤い紅玉をはめ込んだ、獅子の彫像が見えた。

 開いた獅子の口に左手を入れる。


「おっ、いつもの鍵っすね」


「呪詛は触れれば祟るというが、我らは姫のしもべであるから、この程度の呪いなど、恐れる必要もない。」


「俺も僕に数えられちゃうんですかねぇ、まぁ、可愛い女の子の僕なら、喜んじゃいますけどぉ」


「僕としての本分を弁えぬようなら、私が直々に始末してくれよう。

 むしろ嫌だというのなら構わぬ。お前が御加護をいらぬと言うのなら、私は別にどうでもよい」


「因みに、御加護がないと?」


 扉が音をたてて開いていく。

 指を引き抜き、痛みに顔をしかめながらコンスタンツェは答えた。


「そこら辺にいっぱい転がっているだろう」


「マジっすか!」


 オロフとハーディン、それに二人の護衛は汚物と化した何かを見やった。

 ゾッとする末路である事は確かだ。


「元より、腐り果てたる姿だ。それが一時的にあの愚か者により人型を与えられていたのだろう。

 その力が反転し呪われた。

 元よりの腐った姿が、死を賜ったのだ。

 地獄の苦しみを与えられようと、死の門をくぐる事ができたのだ。

 慈悲であろう?

 あの魔神の眷属どもも、慈悲であると繰り返していただろう。

 もちろん、与えられるのは安らぎではないが。

 ただ、こうした呪詛を喰らい死を与えられた者だけならばよかろうが。なにやら、今も蠢いている。

 これはやはりジェレマイアに伝えねばならんだろう。

 呪詛が残り蠢くとは、蠢く糧となる元があるかもしれぬ。むしろ、滅ぼすべき何かが未だあると考えねばならん。」


「難しい事はわからんですけど、しもべになります、ならせてください、お願いします!流石に糞みたいな最後は嫌っす!」


「申告せずともよい..現世の柵とは別に、敬い御仕えすればいいのだ」


「それ、コンスタンツェ様もよろしく。現世の常識の範囲内で行動してくださいよぅ~」


「何を言う、私はいつも常識的に行動しているぞ?」


 安全確認をするために、コンスタンツェを後ろに下げてから、オロフとハーディンは開かれた扉の前に立つ。


「常識って、案外、許容量馬鹿デカイんすねぇ~」


 相変わらず静かである。

 が、変化はあった。空気の流れはここに来て、水路とは別の感触を纏う。

 冷たく、少しだけ湿気っている。

 オロフは目を細めた。

 見える範囲に動きは無い。

 だが、急に人気ひとけを感じる。

 一人二人ではない気配だ。

 死人や汚物の気配とは違い、何かが息をし、生物としての活動をしている。


「おっかしい~なぁ」


 オロフの感覚はいつになく冴えていた。気配を読み間違えるはずがない。


「旦那ぁ、何か匂いますかねぇ?」


 暫し空気を嗅ぐように、ハーディンは顎をあげた。


「刺激臭と酢のような匂いがする」


「おっ流石っすね」


「金属、水、溶剤、それから、油の臭いだけは薄いが、微かに腐食性の高い薬液の臭いがする。鍛冶、否、工場、繊細な作業場とも言えない。

 動力炉にしては、少し、臭いが違うだろうか」


「距離はわかりますか?」


「目測は?」


「俺的には、反響を考えると二十パッス前後ですかねぇ。大きな空間って感じはしません。それにこんだけ騒いでいるのに、動きは無しっす」


「同じぐらいだ。個体の数は感じられるのか?」


「無理っすねぇ、どうも中間に遮蔽物があるんで。でぇ、ハーディンの旦那、肝心の人間の臭い、します?それとも、汚物っすか?」


 振り向いた男の目は、闇に光りを放ちギラギラとしている。


「あっ、やべっ。確認前に焼くの無しで」


「..人間の肉の臭いはする」


「一応、コンスタンツェ様が色々見てから、焼きでお願いしますよ先輩!」


「...」


「いやだー、ここにもいるぅ~。一号より二号のほうが話が通じるとか思った俺が甘かったっす」


「一号?」


「気にしないでください..どうせ無限増殖するんですよね。きっと地元だともっといるんですよね。一人見かけたら、十人以上いるんですよね」


「よくわからんが、私が先行しよう。

 発光筒はオロフ殿が持ち、後ろから指示をお願いする。」


「うぅ、嫌なよーかーんーがー、はぁ。

 コンスタンツェ様、また兄さん達と待機でお願いします。

 退路がこの通路のみの場合、ちょっち危険なんで、俺達が戻るまではここにいてください。はぁ」


「早く行くのだオロフ、姫の為だ、ため息をつくなど罰当たりめが!」


「通常運転っすよねん、うらやましぃっす。んじゃ、行きますよぅ」








 この部屋だけは湿り気があった。

 壁には無数の配管が並んでいる。

 鈍色の配管は、発光筒の灯りに滲んで見えた。

 黒々とした視界に、光りが踊る。

 天井は高く、獣人の視力をもってしても先は見えない。

 この空間は本来、浄水場の機関部だったのではないだろうか?

 天を見上げれば闇がある。

 しかし、オロフも先を行くハーディンにも、白い光りが降るのが見えた。

 闇から青白い光りが降ってくる。

 それは大きな羽のようにも見えた。

 たくさんの白い羽が降ってくる。

 ただ、手をさしのべると、その羽は見る間に消える。

 雪だ。

 鳥の羽ではない。

 白い大きな牡丹雪だ。

 幻の白い雪が螺旋を描いて降ってくる。

 闇の中を、静かに静かに降ってくる。


 それはとても美しく、もの悲しく感じられた。


 感傷とは縁遠い男達でも、美しく、そして儚く尊いと感じた。

 神に捧げられた少女の命の光りなのだ。


 彼女の命が降ってくる。


 そして降ってくる先には、醜く残酷なモノがあった。


 だから、癒着していたのだ。


 と、オロフとハーディンは理解した。

 理解し、柄にもなく、オロフは言葉を無くして仰ぎ見る。

 音もなく幻の雪が降るのを見上げる。


「コロス..関わりにあった者共は、全てコロス..。

 魔神の手に渡す前に、この世に生まれてきた事を後悔するまで拷問してやる」


 神への祈りの仕草とともに、鬼のような形相を浮かべてハーディンが呟いた。


「兎も角今は..どれだけ、生きているか確認してからっす」


 ハーディンは喉奥で唸った。

 憤怒に体を震わせている。


「五体満足の、娘、が、どれほど残っているというのだっ!」


 若い娘という区別はついた。

 若い娘の、部位が、水槽に沈んでいる。

 無数の手足が、胴体が、そして、頭が、生かされていた。

 管をつけた肉が、濁った水に浮いている。


 生きて、生かされているだけに醜悪だった。


「だから確認するんです、落ち着いてください。

 お嬢ちゃんは、否、お姫さんは、水をここから取り上げなかった。

 たぶん、都の水の中でも病人やら幼子のところはお目こぼししたんじゃぁないっすかね。

 だから、ここは水っけが残ってる。

 水槽から水抜きしたら、死んじまいますからね。

 それに上でお姫さんが守ってるのは、哀れな人間達だ。

 お慈悲をここまで伸ばしたのは、ここにもまだ、救える命があるってことっすよ」


 見捨てる事ができなかった。

 神に捧げられた生け贄は希有なのだ。

 特別な人間などいない。

 だが、神に選ばれる生け贄は、確かに希有なのだ。


「綺麗だよねぇ本当に。俺、あんまり雪って見たことがないっすよう」


 ハーディンは、一度仰ぎ見てから眼を閉じた。


「..もう少し確認しましょう。何か潜んでいるかもしれませんから」


「了解っす」


 ここは慈悲の光りが届き、命の雪が降るのだ。

 化け物はいないだろう。

 わかっていたが、二人は水槽に近寄った。


「俺も協力するっすよぅ」


「何をですか?」


「軍隊式じゃぁないっすけど、ゴート商会の拷問は種類豊富でお客の要求に何でも答えますんでぇ」


「そうですか」


「特に自白強要が必要ない場合の専用器具は充実してるっす。クソにならずに逃げ延びているような奴らには、超おすすめっすよぅ」


「..」


「因みに、商品目録は無料っす」


 水槽は奥に行けば行くほど大きな物になっていた。

 そして男二人が絶句するような景色が広がる。


「..では、目録を注文しよう」


「まいど」


 くだらない会話をしながら、男達は牙をむき出しにした。

 怒りを押さえるには、努力が必要だった。

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