ACT235 堕落の末路 結
ACT235
視界は湯気で揺らいでいる。
檻の中は暖かく、囂々と風が吹き荒んでいた。
生臭い大気は、獣の息なのか、この場所の臭いなのか。
揺らぐ視界に化け物と、書き割りのような世界が見える。
壊れかけた街は紫と黒に、人の姿は白い影に見えた。
化け物を見る。
奇妙だ。
野生の獣のような動きも気配もない。
これもまた、大道芸の人形劇を見ているような気がした。
関節の動きが滑らかではないのだ。
猪、蠍、蛇、狒々、知る限りの生き物を当てはめるが、これが何であるかはわからない。
青銅色の皮膚に鱗、毛の生えた部分は焦げたように黒い。
猪のような頭部にある眼球が、果たして見えているのかいないのか。
頭部に見えるが、それが本来の機能をもっているか怪しいと見た。
急所も動物とは違うだろう。
大きさは3、4パッスの本体と周りに漂う何かが2パッス前後。
公園に現れた巨人や、異形の門から顔を出した何かよりも小型だ。
悍ましい気配に嫌悪を覚えるが、巨大な異形に覚えた戸惑いは無い。
化け物の側面か死角に入ろうと左に進む。
だが、化け物も距離を置いたまま猪面が後を追う。
小手調べに斬撃を入れようと構えて。
おっと、吐いた。
化け物の口からビシャリと何かが吐き出される。
召喚陣に傷は付かないが、濛々と白い煙が上がった。
焦げた臭気。
酸か?
前足をかわす。
かわした筈が、籠手にヒビが入った。
近寄ろうとすると、前足と生え伸びた尾が阻む。
尾は、肉の縄のように見えるが口腔らしき物がある。
その噛みつきを避けると、化け物の口から赤黒い霧が吹き出した。
酸ではない。
霧がかかると毛並みの表面が縮れて溶けた。
毒か?
回り込むように動き、本体に近づく。
噛みつき、ひっかき、毒に酸。
それでも救いは動きが遅い事か。
前足を掻い潜り、わき腹に剣を寝かせるようにして削ぐ。
厭な音だ。
金属が擦れるような音と一緒に化け物のわき腹が開く。
臓物が落ち、再び白煙があがった。
斬れば斬ったで、コレの中身は物を腐らせるのか。
実に厄介だ。
だが、討伐できないほどではない。と、踏む。
前足の爪を籠手で弾き、関節に剣をあてる。
圧力はかけない。
自然な振り抜きで前足を切り飛ばす。
いけるか?...残念。
放物線を描く前足を目の隅でとらえていた。
狒々の前足のように見えるソレは、切り飛ばされると溶けた。
ザラリと溶け、消える。
消えたが変わりに湧いた。
赤黒い足下の陣から、無数に黒い物が顔を出す。
あっという間に化け物の傷に群がると、肉になり骨になり身になった。
そして、吼え声をあげると、一瞬で目前に迫る。
無意識に防御した左腕が痺れた。が、もちこたえる。代わりに上腕の小盾が砕け散った。
衝撃をこらえて踏みとどまるが、肉に化け物の歯が当たるのがわかった。
毒に焼かれる前に、右手だけで剣を振り抜く。
そうして化け物が怯んだ隙に、喰らいつかれた左腕と足を、力付くで振り払った。
痛みは来ない。
極端な刺激に痛感が無い。傷が深いのだろう。
装備ごと肉が千切れ血が吹きこぼれた。
己の血飛沫がゆっくりと目に映る。
人対獣の闘技は、餌になるのが大方だ。
見せ物の闘技で獣を出す場合は、獣を弱らせてから引き出すか、餌にする人間を選んで出すかである。
興行主の意向にもよるだろう。
餌になるはずの人間が、予想外に生き残ったとしても、それはそれで観客は楽しむし、興行主は次の催しに生き残った者を使い回すだけだ。
そんな意味のない事を考えながら、引きちぎれた体を立て直し、動ける部分で剣を斬り上げる。
距離を稼いで、傷口を活性化し余計な出血を止めた。
再び回り込むように動く。
「ナリス」
刃に魅了する言葉が浮かぶ。
浮かんだ地呪文は、業火と読めた。
(この場所は宮と同じ。
霊獣は再生し続けるが、貴様は吸収も再生も、グリモアを通してはできない。)
「クイスギル、バケモノニ、ナラナイ」
(馬鹿が、グリモアの主としては出来損ないの上に、未だ力を掌握していないのだ。
今の状況での死は、裏切りに他ならない。
グリモアを得た貴様の命は、供物の役目を果たす事で長らえているのだ。
主の期待を裏切り、娘の願いと復活を果たせ無いとは、まさに無駄死に、死では償いにならぬ。)
「ナラ、タオスダケダ」
化け物が跳躍する。
追う視線から、不規則な軌道を描いて化け物が中空で動きを変えるのがわかる。
姿勢を崩し半身回転しながら、残像の攻撃をくぐり抜ける。
重い音がし、地面が砕けた。
避けてから足下を何が抉ったのか確認しようとした。
だが、確認もそこそこに、傷ついた左側から来る爪を剣を立てて受け止める。
何が襲いかかってきたんだ?
見れば、鬣と尾が伸び縮みし、不意打ちを狙っているのだ。
鬣と尾というより、海蛇のように見える。
剣を回し正面に置く。
化け物の動きに神経を集中する。
野獣を狩る時は、何処を狙う?
急所は何処だ?
気合いを入れ、不要な情報を遮断する。
すると己が消え失せて、肉体が自由になる。
自由に自在に、己の中にある灯火を見つめるように、全てが滑らかにゆっくりと動き始める。
一歩踏み出す足に、返す刃の輝きに炎が纏いつく。
そして、己の中からするりと力が抜き取られるのがはっきりとわかった。
グリモアの力が動き出す。
この宮と同じ空間に満ちる魔を吸い込んで、刃が明滅する。
業火の輝きは赤黒い炎を刀身に宿らせた。
己の命の灯火に、青白いグリモアの呪陣が重なる。
音をたてて世界を構成する何かと繋がる。
繋がり、途方もなく広大な景色を見た。
構築する精緻な紋様が押し寄せる波となり通り過ぎる。
加速。
筋肉と骨を結びつける腱の場所を断ち切る。
肉とは程遠い感触を切り飛ばす。
すると、化け物は地響きを立てて勢い良く前方に倒れ込んだ。
傷を治すように再び陣から黒い物が湧き出す。
再生する瞬間に少し動きを止めるようだ。
燃え上がる刀身で鱗肌に再び削ぎ斬る。
臭気、体に伝わる振動、深い。
先に負わせた傷よりも深く断ち切る事ができた。
黒い背毛がヌルリと伸びてくる。
素早く後方へと跳び、指先で地面を擦りながら反動を押さえた。
殺れるか?
再生する前に切り刻んで焼く。
ここでも自分がやる事は同じだ。
だが、召喚陣から湧き出した黒いモノは、化け物を癒すと生えた。
顔だ。
傷つけた場所に沢山の顔が生えている。
老若男女、苦悶の表情を浮かべた人面だ。
次の攻撃をしようと振り上げていた剣の行き場に迷う。
(馬鹿者が!)
ナリスの叱責と同時に、化け物の尾が胸に刺さった。
二撃、ズブリズブリと左胸を抉る。
踏みとどまり刺さる尾を剣で斬る。
苦み、息苦しさ、そしてやっと痛みを感じた。
剣域を保ち、攻撃を防ぐ。
滴り落ちる血が黒い。
吐き出す血が苦いのは、毒のせいだろうか?
再び攻撃を加える。
生き物で言う急所を狙う。
狙い、傷つけ、そして...
(殺せ、躊躇うでない。この愚図がっ!)
苛ついたのか、炎が更に大きくなる。
傷つき痛みを感じるよりも、悪霊の叱責が滑稽で笑える。
(何をしている。たたみかけるように攻撃しなければ、あっという間に押し負けるぞ!)
攻撃を避け、防御する。
化け物の傷を黒い何かが塞ぐ。
そして生える。
ヌルリと白い顔が盛り上がり..
何処かで見た顔ばかりが浮かぶ。
生きた年数分、行き過ぎた時の中で見た顔だ。
名も忘れた人の顔。
子供の頃に出会った者もいる。
殺した相手だけではない。
罪人として囚われているとは思えない人の顔もある。
(どうした、今更、逃げ出したくなったか!愚か者め!)
罵倒する悪霊に、呻いて答えた。
集中しなければ、再び毒を喰らってしまう。
「ナゾ、カケ。コレハ、セイカイ、デハナイノカ?」
自分の問いに、ナリスは黙った。
「アレ、レイジュウ、バケモノ?」
襲いかかる姿は、確かに化け物である。
だが体に生えた者達に、滅してよいか迷いが生じていた。
(まやかしに過ぎない)
ナリスの答えに、グリモアが笑い声をあげた。
それに驚き、攻撃をかわすのが遅れて地面に転がる。
掠る爪に頬が切れた。
明滅する刀身に新たな紋様が浮かび上がる。
(攻撃しろ!貴様の剣は効いている。倒し証明するのだ!)
ナリスの言葉に再び笑い声が答えた。
そして剣に新たな紋様が浮かぶ。
主呪文だ。
ナリスが注いだ力は地呪文であり補足の力。
業火の地呪文が隙間を、そしてグリモアが笑いながら浮かべたのは。
(徳)
徳を支えるのが業火?
意味がわからない。
守勢にまわりながら考えるも、罪人を焼く炎と徳の繋がりがわからない。
再び化け物が躍り掛かる。
刀身で受けて流す。
衝撃を受け続ければ、刃がもたない。
首を狙って一撃を入れる。
沈む手応えに、滑らかな振り抜きを心がけて手首を捻る。
重みのある刃は役目を果たし、肉を断ち切り食い込まずに切り分けた。
切り裂かれた化け物は叫ばなかった。
変わりに、無数の人面が口を開いた。
イタイ、イタイ、イタイィィィイイ!
タスケテェ、クルシイ、クルシイィイ、アァ、カミサマ..
笑い声が重なる。
グリモアの悪霊が笑う。
攻撃を続けるべきだとわかっていた。
わかっていたが、心に透き間ができる。
集中が途切れるのだ。
良心ではない。
嫌悪でもない。
憐れむ心で剣が鈍るのでもない。
その隙を再び突かれ、化け物に軸にしていた右足を食いつかれた。
人面の悲鳴を聞き流し、その食らいついてきた頭部に刃を押しつけて引き抜く。
傷つければ傷が付き、毒の体液が吹きかかる。
右目に少しかかったのか、痛みと共に視界が濁った。
足場が滑り、引き倒されると化け物がのし掛かる。
その顎が目前に迫り、滴る毒から顔を背けた。
力押しの合間に、尾と鬣がうねり食らいつく。
ゾブゾブと肉を抉られ、再び血が気道をせり上がる。
(僕はね)
唐突に言葉が届く。
醜い顎を押し返し、無意識に唸り吼えた。
そんな足掻きをよそに、楽しそうな声が聞こえてくる。
(いつもいつも、思っていたんだよ。
死にたくないってね。
死ぬのが怖かった。
死んでしまっていたのに、ね。だから..)
狂気をはらんだ笑い声をあげると少年の声は言った。
(もしも、僕に力があったなら。
君のように、力があったなら。
君のように、大人になることができたなら。
そして、グリモアを正しく手に入れていたならば。
幸運な男に、これ以上与えるのは、僕も、このオジサンもイヤなんだけど。まぁいいかな、コイツを宮に送りたいしね。
僕は、いつも思っていたんだよ。
これでわかるかな?
君はグリモアを手に入れた。
本来なら、君も僕と同じく堕ちていく筈だった。
君は生かされている。
何故か?
僕は、いつも思っていたんだよ。
痛くて苦しくて、それでも生きていたかった。
僕は、いつも思っていたんだ。
命の灯りを見ては、羨ましくて虚しくて。
だから、わかるだろう?)
化け物に押しつぶされ、体中を抉られながらも声は聞こえていた。
背けていた顔を正面に戻し、化け物を見る。
幅広の大剣を間に挟み、牙を剥く化け物を見る。
濁った視界がぶれた。
滲みぶれ、世界が反転する。
音が臭いが、視覚以外の感覚が消える。
すると、再びグリモアとの繋がりが戻った。
魔導の書物は開かれ、この世界を構築する言葉が溢れる。
自分も、剣も、見えない大気も言葉であふれた。
そして、自分を押し潰す化け物でさえも、緻密に作り上げられた紋様が埋め尽くす。
見えると理解した途端に、感覚が戻る。
そして刃が青白く輝いた。
主呪文の徳の文字が明滅し、息をするように蠢いた。
化け物は、その光りを恐れたかのように後ろに下がる。
威嚇はするが、光りを目にして初めて化け物は攻撃を止めた。
ゆっくりと立ち上がる。
血塗れの襤褸布のような有様だ。
だが、肉体の痛みよりも、視界は未だにグリモアと繋がり、圧倒的な情報が脳に入り込み続けていた。
吐き気を催すほどの、この世界の囁きが濁流となって注がれる。
だが、一番の驚きは、化け物が見える事だ。
姿は元々見えているが、今は、それを構築する命脈が露わになっているのだ。
複雑に複数の命脈の紋様が化け物としての形を決めている。
たぶん、その核の部分を砕けば、この化け物は滅ぶだろう。
だが、化け物の命脈が欠けた場所に、沢山の命が埋められていた。
命の言葉、否、魂が見えた。
化け物は、宮に集められた魂を使っているのだ。
宮に留まる魂。
たぶん、化け物を倒し殺せば、彼らも塵となるだろう。
これが亡者の末路なのだ。
しかし、あきらかに罪人とするには相応しくない顔がある。
幼子の顔だ。
たぶん、子供の頃に逝ってしまった義理の兄弟達だろう。
罪科があるとすれば、それはもっと別の者、自分や親の咎であろう。
つまり..?
グリモアは笑い、この緻密な命の綴れ織りを見せる意味は?
考える時間は無い。
化け物は再び攻撃しようと、身を撓めている。
できることを、するだけだ。
己の血で滑る剣を立てる。
顔の前に立て、呼吸を整えた。
己が答えを返す。
徳とは、何であるか?
それは怪人が繰り返し言い続けた言葉と同じだと思う。
慈悲と恵み、施しだ。
ならば、自分が与えられるものは何か?
呼吸を整え、いつもの通りに体から余計な感覚を排除する。
大気の流れと同じく柔らかく踏み出す。
緩やかであり最速の動き。
「ゴウカ、ニテ、ホロベ」
地呪文の業火を纏わせる。
力をかけぬ自然の剣の振り。
一撃を化け物の核に差し込むべく一閃する。
命脈の芯に罅が入ると同時に化け物の動きが止まる。
核が砕け散る前に、更に近接すると二撃目を軽くふるう。
「トク、ニテ、カエレ」
主呪文を優位にして振る。
そうして今度は、魂の癒着した不自然な場所を切り分ける。
青白い刀身が切り分けると、悲鳴をあげて魂達が砕けて消えた。
果たして自分は、滅ぼす事と還す事を正しく分けて行えただろうか?
疑問と自分への不審を残したまま、グリモアの力を切る。
剣を構えたまま、様子を伺う。
追加の魂は陣から呼ばれる事はなかった。
そして化け物は、芯が砕けると、自分をじっと見つめてから砂になる。
ドシャリ、と一瞬で砂の小山になり見る間に赤黒い陣に飲み込まれていった。
そして砂が消え去ると、四つに這った男が残った。
ネストルだ。
濁った目の男は、自分を見ると手を振り上げて襲いかかる。
馬鹿らしい、と、朦朧とし始めた意識の片隅で思う。
そして人型に戻りながら、骨が砕けている片手を振り上げる。
骨が砕けていても、人族の屑を殴り飛ばす事は簡単だった。
(殺さないのか?)
憎々しげな悪霊の言葉に、淡々と自分は返した。
「死人だ。仕置きは、お前の兄弟の領分だ」
それに珍しくナリスは笑った。
(まぁよかろう。さぁ、後少し意識を保たせるのだ。)
できたか、どうかはわからない。
魂は、流れに帰れたか、これで正解なのか。
愚かな自分にはわからない。
出血が止まらない傷を片手で押さえる。
剣を支えにふらつきながら立つと、召喚陣が消えていく。
赤い花畑に変化すると、幻のように消えた。
残ったのは血塗れでふらつく自分と、元の広場だ。
舞台上から下に落ちていたのか、ゆっくりと半壊している舞台に戻る。
背後が騒がしいと振り返ると、ネストルの体を小さな緑の生き物が担ぎ上げていた。
醜い緑の生き物は、子供ぐらいの大きさだ。
それが喚き騒ぎながらネストルの体を担ぎ上げている。
滑稽な見せ物のようであり、ぞっとする景色でもあった。
地獄の子鬼が罪深い魂を担いでいく。
その祭り行列は、異形の門へと楽しげに進み、ネストルを運び去った。
運び去り、門は勢いよく閉じる。
そして紙を丸めるように身じろいで消えた。
呆気ないほど簡単に、巨大な門は消えた。
そして..
「一瞬であったなぁ、長引くとばかり思っていたのである。
少し、すこーし、呼び出した物が弱かったのである。
これは我らの失敗である。故に」
故に、もう一戦等と言われたくない。
唸ると、仮面の怪人は肩を竦めた。
「主が試練を与える他あるまい。
つまらぬ、つまらぬのである!
我らは満足していないのである!
モルデンの末子よ、お主は、更に血を流し、痛みを背負うのである!
そして我らは、この世の軛を解放することに決めたのである!」
仮面の怪人は、兄弟に向かい手を振った。
その身振りに答えて、翼を折りたたみ、最初に見かけた金属の翼に戻すと怪人が前に進み出た。
差し出された姿に、急いで手を差し伸べる。
怪人の気が変わらぬうちにと、剣を足下に突き刺し、力の入る方の手で受け取った。
「器は約束の証である!
森の人、精霊の娘が魂は、癒す者を解放すれば、戻るのである。
魂に刻むように覚えておくのである!
娘は我らの慈悲を表す。
娘の魂は、主の手元にある。
それを取り戻す事を望むならば、お前達は、癒す者を探しだし解放する事で、ニンゲンの位階を一つ上げなければならない。
愚行を償う行いと、更なる誠を示さねばならない。
ニンゲンの善き部分は、未だにあると証明せねばならないのである。
では癒す者とは、何者であるか?
癒す者にてグリモアは構築されるのである。
グリモアは継承者の為に作り出された道具である。
しかし、継承者の血筋は途絶えた。
少なくとも三つのグリモアは、本来の継承者を失っているのである。
ならば、新たに力を継ぐ者を決めねばならない。
本来のグリモアの継承者は、四人。
変わらずあり続けた筈の、バルディス。
それは、このモルデンが守護する。
継承者になりうるはずの子は、供物であり、供物の子が望めるならば、グリモアを新しくする必要はない。
残り二つは、愚かな魂より、我らが取り戻し手元に置こう。
そして最後の一人、ヨルガン・エルベを見つけるのである!
エルベと癒す者を見つけ、新たな約束を取り付けるのである。
そして、この領域に新たな理を敷くのである。
ただし、ただしである。
お前達の愚行により、約束は反故にされたのは事実である!
故に、我らは科すのである。
ここに我らは宣言するのであ~る!
齋は成らず、死者の宮は再び静かに扉を閉じたのであ~る!
しかし、我らが主の心痛は深く、罪人は常に忘却するのである!
故に故に、戒めとして分かたれた筈の領域を戻す事を宣言するのであ~る!
お前達が否定してきた者共を解放しよう。
そして、解放した者共と同じく、お前達自身が認めなかった力も戻すのである!
ニンゲンどもよ、喜ぶが良い!
今宵、この時より、齋のかわりに明けぬ夜を与えよう!
陽射しの中にあっても、冥府の闇の如き快楽を与えよう!
ヒィッヒヒヒヒィヒィィギャハハハハ!」
受け取り気が緩んでいた。
だが、聞き逃してはならない事を怪人は告げている。
驚き、周りの者の顔を伺い見る。
理解できているのは、スヴェンぐらいだ。
スヴェンの驚愕の表情が、自分の解釈した意味が間違いでないと確信をもたらす。
血を吐き出し、怪人を睨む。
「その軛は元に戻るのか?
慈悲を、彼女を取り戻せたならば元に戻せるのか?」
問いに、怪人達は笑った。
高笑いをし、這い蹲るニンゲンを眺め回す。
神話では、分かたれた世界とは、神と魔の世を指す。
魔物が跳梁跋扈する混沌とした世界の事であり、その中で人間とは、翻弄される小さな存在であった。
神話では、弱い人間を憐れみ、神は世界を分けた。
理とは、正しき人の世の事であると同時に、神も魔もいない世界の事を言う。
あくまでも神話の中では。
「我らは見ているのである。
我が主もだ。
お告げは、この夜より双子の月が満ちる時に下される。
尊き主の言葉は、巫女を通して告げられよう。
何、心配はいらぬ。
無邪気な我らが巫女に、人間が悪意を向ける者あらば、我らが念入りにもてなすだけのこと。
おうおう泣くでない娘よ、名を一時預かろう。
恐れることなど無いのである。
今のまま、素直に生きておればよいのである。
そして、主が望む言葉を、愚かな者共に伝えれば良いのである。
何々、偽りを述べ、謀る者あらば、それはその者自身の運命なのである。
我らは見ているのである。
宮の奥底にて、待っているのである!
ヒヒッ、ヒヒヒヒヒヒヒ、イヒヒッ~!」
怪人はボロリと足下から崩れた。
下から崩れ、色を無くし、徐々に上へと透明になっていく。
彼らの笑い声だけが、囂々と吹く風に乗って流れていった。
咳一つ無い中で、人間達は呆然とそれを見送った。
ただ、朦朧とする意識の中で、オリヴィアの胸が動いている事だけを感じていた。
抜け殻であっても、彼女は息を吹き返していた。
彼女はここにいる。
彼女の魂を探しに行かなければならない。
早く、迎えにいかなければ。
完全に怪人が消えると、それまで形を保っていた舞台が崩れた。
一気に崩落し、皆も自分も落ちていく。
だというのに動けない。
目の前が暗くなって、獣化できない。
血が足りないか。
腕の中身を庇いながら、無防備に背中から落ちていく。
けれど、ここでは死なないだろう。
そんな事を最後に思った。
狭まる視界に、星が見えた。




