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冬の狼  作者: CANDY
薄明の章
263/355

ACT229 堕落の末路 其の一

 ACT229


 子供の頃、台所の隅から見上げた景色。

 濁った硝子越しに見える濡れた木々、雨が降っていた。

 明るさと暗さが混在した、その情景が記憶にある。

 子供の日々は、静かな雨や陰鬱さとは無縁だったのに、記憶とは奇妙な物である。


 大人になりかけの頃は、青空に黒い景色ばかりが見えていた。

 青空に白い雲、なのに太陽から降る筈の陽射しは無い。

 黒い大地に、黒い建物、そして黒い煙に炎だ。


 別に、そんな景色ばかりを眺めていた訳ではない。

 なのに、点々と転がる黒こげの亡骸や焼け落ちた建物、そして黒い地平線が記憶にある。

 青空に立ち上る黒煙。

 これもまた、奇妙である。



 どこまでが偽りだったのか?



 オリヴィアは笑顔だ。

 優しい、笑顔だ。


 自分が手を差し出すと、彼女も両手を差し出す。

 両手を、それから、不意に顔を天へと向けた。

 不思議そうに、彼女は見上げる。


(オリヴィア?)


 両手を握ろうと、俺は..。

 なのに、白い。

 視界が全て、白くなった。


 見えない。


 彼女の姿が見えない。

 自分の目は、光りに弱い。

 目を閉じて、気配を探る。

 すぐ側にいるはずの、彼女の気配がわからない。


 かわりに違う気配がした。

 全身が震え、勝手に毛が逆立つような大きな大きな、気配だ。


 唸る。


 牙がのび、勝手に体が擬態を解いていく。

 多くの者の気配がある筈なのに、まるで、一人でいるような感じがした。


 天から大きな、大きな気配が。



 来る。



 唸りながら、天を仰ぐ。

 目は見えない。

 眩しくて、見えない。


 オリヴィアの手をつかもうとした。


 空を切る手に、無理矢理目を見開く。

 痛みに涙が滲む。


(オリヴィア?)


 自分達は繋がっている。

 だから、わかる。


 いるはずなのに、彼女は、イナイ。



 イナイ



 イナイ







 記憶は、不思議だ。

 今、ここにいる己の時間が巻き戻っていく。

 始めはゆっくりとした流れが、すぐに極彩色の濁流になり、記憶が、景色が巻き戻っていく。






 あっという間に巻き戻り、自分は雪降る大地に立っていた。

 灰色の地平、白い大地。

 空からは羽のような雪がふわふわと降る。

 風は無く、無音の世界に、静かに雪だけが降る。

 灰色の空を見上げる。何処かにあるはずの太陽は、この白い世界をぼんやりと照らしていた。


 差し出していた手を見て思い出す。



(オリヴィア?)



 ここは、オリヴィアの住む北の大地だ。

 厳しい自然が残る清浄な世界。


 冬の装備を着込んだオリヴィアが歩いている。

 雪に足跡を残しているのに、身軽に、音も無く歩いていく。

 自分達は、その姿を追い歩いていた。


 自分達はいつも通りに、この美しい世界を堪能する事もなく。寒

 さを厭い、早く首を刈って帰ろうと考えている。

 日々の暮らしに、殺し殺される世界に慣れ、世界の不思議や美しさを失い、気がつかずに彼女に続いて歩いている。


 だが、今ならば、今の自分達ならばわかった。


 彼女の歩いた雪の道だけが、ぼんやりと輝いている。

 雪の世界に生きる小さな生き物が、彼女の姿に道を開ける。

 飢えた野生の生き物が、彼女を見送っている。


 愚かな人間を先導する、森の人を心配している。


 やがて自分達は黒い壁にたどり着いた。

 入り込めば、巨大な穴だ。


 ここにきて、囂々と唸る風を感じる。


 囂々と、吹く言葉の風。



(森の民より、招かれし者

 ここは裁定者の巣なり

 足を踏み入れた者は全て、客

 客は咎に見合う罰を受ける。

 故に覚悟のある者だけ進むがよい

 裁定は何れ死の後に与えられるのだ、何も急ぐ事は無い)


 囁く言葉に驚く。

 あの時は、冬の風に耳を痛めていただけだった。

 それがこの記憶..


 記憶?


 決まった過去を辿る。

 馬を引き、自分達は穴を下る。

 暗い穴蔵に降りていく。


 記憶の中を辿っているのに、あの時、見ることができなかった物が見えた。


 自分達、俺と仲間の影に、たくさんの白い目が浮かぶ。

 数え切れない目が、影を切りとり見ていた。

 小さな角灯に照らされ、岩肌に延びる影は形をかえる。

 すでにこの時から、我々は人の世界から足を踏みはずしていたのだ。

 化け物どもの巣に、何も気がつかない餌が、暢気に自分から入りこんだのだ。


 オリヴィアを追い越して、仲間が降りていく。

 彼女は、不安そうだった。

 とても、怖がっていた。

 なのに自分達は、その恐怖になれてしまっていた。


 自分達は、この世界で一番残酷な目にあってきた。

 辛い現実を生きてきた。

 だからもう、恐ろしい事など無いと思っていた。


 疲れ、飽いていたのだ。

 人の世界に、飽いていた。



 そして景色が変わる。



 門が開いていた。

 立ち尽くす自分と消えた背中。


(さようなら、さようなら)


 手を振るオリヴィア。

 その両脇には黒々とした大きな影が囲む。

 化け物は、彼女を扉の向こうに誘う。

 その姿が消え、扉が閉じる。


 耳が痛くなるような静けさ。

 無音の中で走り出す。

 一足ごとに亡霊達が絶叫する。


 墓所


 今ならわかる。

 穴の底には、墓がある。

 その墓の更に下には地獄が。

 石畳を踏む度に聞こえる亡霊の悲鳴は、木霊を響かせ大きくなる。

 閉じた扉に取り付く。


 記憶の中の自分は、歯ぎしりしながら扉に手をかける。

 裏切られたと歯噛みしながら、手をかけて。

 見えた景色に、目を見開く。


 予想を裏切る眺め。

 己の卑しさ、くだらなさに奥歯が軋む。


 小さな娘は見知らぬ者を、村の者達の暮らしの為に、助けた。

 裏切る事無く、否、見知らぬ男が約束を守ると信じて、助けた。


 目の前の、地獄の扉を開けば、娘の示した確かな誠意が見えた。


 暗く夜明けを待つ雪原が、視界いっぱいに広がる。


(さようなら)


 娘は、オリヴィアは、約束をした。

 この地獄から逃す事を。

 引き替えに村を領主を見逃してくれと。


(さようなら)


 なのに、理不尽にも怒りのまま、約束を反故にした。

 無事に自分が戻らねば、辺境伯とその領地に災いが降りかかる。


 この時、いつもの判断ができなかった。

 ただ、ただ、闇雲に腹立たしく感じた。


 だが..その本心は、後悔だ。


 子供を犠牲にするような生き方を、したくなかった。

 弱い者を押し潰すような、卑怯者に成り下がりたくない。


 自分は、弱い男ではないと..



「駄犬め、それが貴様の言い訳か?

 殺した事実は消えはしない。

 たとえ幻であれ、あの時、貴様は殺した。

 愚昧で短慮、醜い有様を認めるのだ、負け犬め。それすらも、知らぬと逃げるか?」


 男の声に顔を上げる。

 闇だ。

 一切の光りを拒絶した闇だけがある。



「覚えているか?」


 低い囁くような声が、頭の芯にしみる。

 目を見開き、闇を見通そうとするが、何も、見えない。


「この娘を殺した」


(オリヴィア)


「無理矢理、禁域に案内させて」


(オリヴィア?)


「結局、恩を徒で返した」


(何処にいる?)


「愚かしささえ全うできなかった屑め。

 ウルリヒ・カーン・バルドルバ。

 否、ウルリッヒ・フォメス・モルデン。

 獣王の血筋よ。


 貴様の卑しい命を含めて、人を救おうとした者を殺した。


 この事実を背負い、尚、選ぶことができるか?」


(オリヴィア?)


 視界が戻る。


「これが二度目の問いになる。

 其処に控える下らぬ輩の事ではない。

 貴様に問うているのだ。」


 光りの中にオリヴィアはいた。

 手を差しのべて、微笑んだまま。


 光りの中で、胸を。


 透明に輝く槍のような物が、彼女の胸を貫き背に抜けていた。

 血は流れず、彼女は微睡んでいるかのように目を閉じている。

 ただ、その輝く光の槍は、彼女を舞台に立たせ刺し貫いていた。


「貴様は、この結末に何ら己に非が無いと言い切れるのか?」


 記憶が波のように押し寄せる。


 子供、寂れた村、雪、風、穴、異形、地下、死霊術師、崩落、闇、闇、そして..


 息が肺から押し出された。


 供物を差し出した者だけが、穴蔵の中から逃げ出せる。

 戻った自分は、結局、彼女の行為を無駄にした。

 それでも彼女は許し、化け物と取引をしたのだ。


 何れ全てを差し出すから、どうか、見逃してやってくれ。

 この愚かな男を、見逃してやってくれと。


 瞼をゆっくりと閉じた。

 押し寄せる記憶、己の感情の変遷、混乱と恐慌を押さえ込む。

 手を差しのべたままの姿が、取り乱す事を許さない。


「ナリスか」


 耳元で、ふっとため息をつく気配がした。

 その気配と蠢く何かが、囁いた。


「選ぶか?」


 選ぶとは何か?

 今、選ぶのは、愚かしい己を哀れむ事ではない。


「どうすれば、オリヴィアは死なない?」


「貴様が死ね」


 その言葉に心が静まる。

 この化け物は、知っている。

 彼女が助かる道を、知っている。


「嫌だね、俺は善人じゃない。

 俺が死んで彼女が助かる保証がない。

 死んじまったら、彼女が助かるかどうか、確かめられない。」


「屑め!」


「屑でけっこう。

 こんな人生でも、彼女が俺を生かしたいと思うのなら生きる。

 彼女が今、俺の死を望まないなら、醜く汚く生き抜いてやる。


 ..だがもし、俺でかわりになるなら

 彼女が幸せに寿命を全うできるなら。

 俺が身代わりになる。それでいい。


 ただし、俺は確約が欲しい。


 彼女の望み通り俺が生き続ける事を選ぶ、その選択の結果が、彼女の死なんだろう?

 彼女の望みを裏切り、俺が死を選ぶ事、その選択の結果が、彼女の生を確約するのなら、俺はいい。


 だが、確約できるのか?

 こんな男の命一つで、いいのか?

 俺には判断できない。

 信じて死ぬ?

 死ぬことで、彼女の願いが無駄になり、すべてが終わってしまう事も考えられる。

 だから、死に神に俺を差し出すのは、彼女が助かってからだ。」


「相変わらず、卑怯な男だ。この瀬戸際で口だけは回る」


「なんて言えばいいんだ?」


 オリヴィア、死んでないだろ?

 俺とお前は繋がっている。

 だから、お前が既にいない事は感じている。

 でも、俺とお前の繋がりは切れていない。


「俺とお前の繋がりは、あの穴の中から始まった。

 情けない俺は、いい気になってお前を助けたつもりでいた。

 だが、本当は逆だった。

 だから、今度は俺が約束する。

 俺は、お前を死なせない。

 お前が俺を生かそうとしたように、俺がお前を生かす。」


 貫く透明な槍は、天から降る光りを吸い込み続けている。

 彼女の体には無数の小さな陣が浮かび上がり始めた。

 そうして回転する小さな陣に、彼女の体に絡んでいた入れ墨のような誓約紋が流れ出す。


「ただし、お前のような犠牲心や真心からではない。

 俺は俺の望み、そして欲望によって選ぶ。

 俺は、命を賭ける。

 だが、それは殉教者とは違う。」


 大きく息を吸う。

 後悔、悲しみ、様々な己への感情をすりつぶす。

 結局、自分は自分以外の何者にもなれない。

 己の生き方を否定する?

 違う。

 悲しみにくれる?

 違う。

 苦しみに、膝をつくのか?

 違う。

 忌まわしく愚かしい奴だと、認めよう。

 だが、それを認めて謝るだけで全てが許され、天の門が開くか?

 違う。


 厭わしく、呪わしい人生の中で生きる愚かしい自分。

 だが下を向き、膝をつく事はしない。


 これまで通りだ。


「忌まわしい血に誓って選ぼう、この化け物め!」


 ぐらぐらと怒りがわき上がる。

 静まったはずの胸の奥、深い場所から昇りあがる湯気のように怒りが。

 すると、それまで天から降る威圧の力に押されていた体に力が蘇った。

 腹の底に溜まり始める怒りの熱。

 胸の奥がジリジリ焦げ、息が震える。


(オリヴィア)


 その姿に手を伸ばす。

 だが、指先は彼女をとらえる事ができなかった。


 自然に言葉が口をついた。


「..俺は認めない。俺は、こいつの死を認めない!


 人の世の出来事で迎える最後なら、この堕落した自分も理解し受け入れよう。

 だが、こんな死に方は間違いだ。


 人の思い上がりと天罰がくだろうといってやる。

 神であろうとなんであろうと、これは間違いだ!

 定めというのなら、罪深い者から奪うがいい!


 お前にも言うぞ。

 こんな生き様を、俺が選ぶと思うか!

 慈悲をかけられ、己が罪を押しつける。

 そんな生き様をするくらいなら、俺は更なる罪を重ねよう。

 地獄へ、お前が行くというのなら、俺も地獄へ行ってやる。

 オリヴィア、俺は..」


 怒りよりも悲しみが大きくなりそうで、目を閉じた。

 再び見開くと、景色は白い光りに埋め尽くされていた。


 美しい光りと白い視界。


 オリヴィアはいない。

 そしてその気配も徐々に霧散する。


 薄れる気配に焦燥がつのり、情けなくも息が乱れた。


「ナリス!

 ナリースっ!

 こいつが死んで守られる世界なんぞ、塵屑だ。


 そんな世界なら壊れちまえばいい!


 小娘一人に守られる?

 冗談じゃねぇ、どんな弱い奴でも、生き残る為には自分であがくんだ。

 人の手を借りようと、負けて死にかかっていようと、そいつが生きようとしなけりゃ駄目なんだ。

 これが理だというのなら、こんな不公平で釣り合いのとれない話はない。

 こいつが今ここで死ぬのなら、俺がこの世界をぶっ壊してやる。


 こんな世界なんぞ、潰してやる!


 俺は、こんな結末のために、くだらねぇ人生を生きてきたんじゃぁねぇ!」


 気配が再び消えようとするのを止めた。

 代わりに、少し密度を戻した感触がわかった。


 そして天啓のように閃く。

 そうだ、これが答えだ。


 証拠に、言葉を吐き出すと、重石が消えたように頭が冴えた。


 答えは単純だ。

 常識も義務も責任も考慮しない答え。


 彼女が死ぬ事が耐えられない。

 強い弱いではない。

 嫌なのだ。


 では何をどうする?


「その誓い、貴様の信実と受け取る。

 故に魂と血に刻み忘れる事を許さぬ。

 愚かで堕落した男よ。

 貴様の薄汚い命を賭けて、取り戻すのだ。

 神の遊技に、その命を駒として賭けるのだ。

 目的を忘れる事無く、今度こそ全うするというのなら、助力をしよう」


 ナリスの宣言が響きわたる。

 すると視界を埋め尽くしていた光りが消えた。


「貴様の最初の試練だ」


 雲が渦巻く天から、忽然と何かが降ってくる。

 落下地点と覚しき場所から、兵隊達は慌てて逃げた。


 轟音と衝撃。


 波及する衝撃と揺れに、鈍色の巨大な何かは舞台を割り突き刺さる。

 都が揺らぎ、崩れかけている外郭の何処かが更に崩落したようだ。

 当然、舞台にいた者共は、弾き飛ばされるように床に投げ出された。


 粉塵が消えると、そこには巨大な石の扉があった。


 見上げる巨大な扉は、一面に精緻な彫刻が施されている。

 亡者と骸骨、それが全面に彫り上げられており、今にも絶叫をあげて蠢きそうだ。


 扉は王城を背に、舞台中央に突き立った。

 そしてその扉の前にオリヴィアがいる。

 光りの槍に貫かれたまま、体には青白い小さな陣が、肩、腹、両足、そして差し出す両手に浮かんでいる。

 誓約紋は体から流れ出し、その青白い陣に混じるように流れた。


 だから、彼女の体からは入れ墨のような紋様は消えていた。


 自分と彼女を繋いでいた呪いは、もう、無いのだ。



「さぁ、主の使いがやってくる」



 石の扉がゆっくりと開いていく。



「さぁ罪人は覚悟するがいい。断罪する者からは誰も逃れられぬ」


(オリヴィア)






 だからって、俺が諦めると思うか?

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