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冬の狼  作者: CANDY
断章
261/355

断章 親子

[断章 親子]



 無力。

 それは恐怖だ。


 愛する人や失いたくない相手が、死ぬ。

 親兄弟、友人知人、誰かを失うという現実を突きつけられると。


 皆、信じる事が難しい。


 信じる事。


 明日を、信じる事ができない。


 受け入れられない。


 何もかも、受け入れられない。


 淡々とした日常、突きつけられる日々の事柄。

 泣いても、泣いても、心の中から暗く重苦しい気持ちがなくならない。

 悔しい事に、その重苦しい固まりが、何をもって消えるかは、わかっている。


 受け入れる事、時に押し流し忘れる事。


 でも今感じる苦しみからは、逃れられない。

 苦しむ相手を目の前にして、何もかも、わからなくなる。


 何かないのか?

 何かできなかったのか?






 目を覚ますと、全てが終わっていた。


「気がついたか?」


 いつも通りの養い親の無精髭が目に付いた。


(おまけに酒臭い。)


 朝から晩まで飲んだくれている。

 今も、片手に酒瓶があった。


(こいつの内臓は酒漬けだ。)


 そんな事を考えながら、エウロラは瞬きを繰り返した。

 体中が痛い。

 痛いが、どこも欠けていない。

 横になったまま、エウロラは養い親の無精髭をじっと見続けた。


「相変わらず、頑丈だな。骨はくっついたし、内臓も無事だ。」


 何だか喋りたくなかった。

 鳩尾がいつもと違って重く感じる。


「あれから、二十日だ。

 寝てる癖に、粥を食わせたら飲み込むし、シモも順調に出てる。いつも面倒見てもらってるのは俺なのに、今回は、逆に俺がお前のシモの始末だ。驚くね」


 二十日も寝ていた事に驚く。

 驚くが、何だか、現実味が無い。


「まぁ、何はともあれ生きてて良かった。俺の老後はお前にかかってるからなぁ。」


 馬鹿な事を言ってやがる。


 そう思いながら、エウロラは目を閉じた。


 ..

 ...

 ...下の世話..だとぅ?


「っ!」


 起きあがると世界が斜めに傾いだ。

 めまいを起こして再び伏すと、養い親が無神経に笑った。

 何に狼狽したのか、言わずともわかったようだ。


「まぁ、いいじゃぁねぇか。お前を引き取った頃も下の世話したし」


 何年前の話だよ。

 そう思いつつも、言い返す言葉は出ない。

 いつものくだらない会話が億劫だ。


 ひりひりと痛かった。


 ひりひりと胸の奥が、心の底が痛んだ。


 何でこんなに苦しいのか、考えたくない。

 悲しいことを思い出したくない。

 何か一言でも喋ったら、感情が爆発しそうで嫌だった。


 窓からは晴れた空が見えた。

 明るく薄い色の空だった。


「水が一滴も無くってな。外から運んできて配給してる。

 外って言っても、東の川からだぜ。軍隊が10日もかけて運んでくる水だ。薬臭くてかなわねぇ」


 王都から東に馬で往復十日。

 マレイラ方向に向かう川から、水を運びこんでいる。

 その水源をもってくるか、北部から遠く引いてくるか、今は検討中らしい。


 どちらも労力に見合う水量の確保が難しい。

 東の川をこちらに引けば、下流の湿地帯に影響がでる。

 マレイラの環境がこれ以上変化する事は、誰も望まない。

 北の場合は、中原地帯へと流れる川の一つから水路を開拓するという案だが、これも距離を考えると現実的ではない。

 おまけに絶滅領域の冬は、上流の水源が全て凍り付く。

 もし都に水を引くとすれば、途中の土地に影響が出てしまう。


 そしてどちらも給排水の水路を造れたとしても、今年中にできあがる事は無い。


 元々の都の水源がどうなっているのかも、調べねばならない。

 水源ごと枯れ果てたのか、何かの障害で流れがせき止められているのか。


 もちろん、水は、枯れた。


 と、誰もがわかっている。

 神は、お怒りなのだ。



「まぁ、ここを放棄する方向になるかもしれねぇな。中の動植物も、虫だって水がなけりゃ、もたねぇしな」


 事実、草花は既に枯れ始めていた。

 都の土壌から水気が抜け砂のように変化している。

 この地域は、元々降雨が少なく年間の雨量は乾燥地帯と等しい。だが、この急激な乾燥は、やはり異常である。


「まぁ、しょうがねぇよな。命を助けてもらったんだからよぅ。

 多少の不便に文句を言ったら、怒られるよなぁ」


 それにエウロラは、目を伏せた。


「外郭もあっちこっち壊れちまってるし、水晶門も木っ端微塵だ。

 まぁ、今なら戦争ふっかけ..あぁ、それはねぇか」


 それはない。


 アレを見た後で、争いを持ち込む輩はいない。

 いるとしても、国や人種を問わずに憎まれ蔑まれるだろう。


「オルタスの諸公を敵に回すどころか、お前の仲間や神殿のイカレた奴らに殺されたいなら話は別だがなぁ。

 俺だって、別に奴らなんか関係ないが、色々考えちまうよ。

 子供を叱る嘘が本当だったなんて、笑っちまうはずが。

 死んだ親はどうしてんだろうなぁ、なんて考えちまう。

 これが屑共なら、どうだよ。

 死んだ後が楽しみで、しょうがねぇよなぁ。あぁ、俺も悪党だから、お迎えは鬼が鎖鳴らして来るのかよ、ははは。


 なぁ、俺は未だに信じられねぇよ。

 今までの俺は何だったんだよなぁ、くだらねぇ。


 それにしてもよ、拝みに並ぶ街の奴らを、クソ坊主がさばいていたぜ。

 まぁ何か御託を並べるようなら、野次ってやろうかと思ったがよ。

 イカレたクソ坊主共が珍しく何もいわねぇんだよ。おもしろくねぇ」


 ガバガバと酒瓶から呑む姿に、わかっていてもエウロラはため息がもれた。

 これが身を持ち崩したような破落戸らしい見た目なら、神経にこれほど触らない。

 それが酒毒にまみれた碌でなしとは思えない、白皙の..と形容するのも腹立たしい。

 無精髭に伸ばしっぱなしの髪。

 だというのに、おとぎ話の馬鹿みたいな王子に見えた。

 酒を浴びるほど飲んでいれば、太鼓腹の赤ら顔の中年男と相場が決まっている。なのに、なんだこれは?

 美しい切れ長の瞳、作り物めいた容姿は、酒、煙草、女、賭事と破落戸らしい暮らしを欠片も感じさせない。

 人を殺して生きているというのに、その言動以外は、清廉潔白でございますという容姿を保っている。


 長命種は貴族が殆どだ。

 だから、エウロラは長命種が嫌いだ。

 嫌な奴が多く、面倒な人間といえば、長命種。

 獣人や亜人を蔑む貴族とは、長命種。

 と、言う偏見を持っている。

 一応、偏見という言葉をつけてみるが、あながち間違っていないと彼女は思う。

 そして、この破落戸も長命種だ。

 養い親なので、五割愛情を持ち二割恩義を感じ、そして残り三割で呪っている。


 彼女の人生の苦悩と割があわないと感じる原因は、この養い親にあるからだ。





 幼い頃の最初の記憶は、ただただ腹が減っているというものだ。

 空腹さえも忘れるほどの飢餓、ではない。

 なにしろ、腹が減っていたので喰っていた。

 目に付く全ては、食えるか食えないかで判断していたほどだ。


 何を喰っていたのかは、今更である。


 その野生化した子供を、奴隷商が捕獲した。

 人語さえも覚束ない凶暴きわまりない獣人の幼体である。

 親とはぐれたのか、何なのか。

 獣人の共同体で子供が一人放りだされるという事は無い。

 無いはずだが、エウロラは一人だった。

 奴隷商は後腐れのないように、近隣の獣人共同体へ問い合わせた。

 だが、子供がはぐれた等の連絡は無い。

 ならば普通、彼らはタダで仕入れた事になる。

 だが、捕獲した場所が悪かった。

 本来なら、獣人の共同体の何れかが子供を金で買い戻す。と、いうのが奴隷商が手にした幼体の扱いだ。

 成体の奴隷に関しては自己責任となるが、子供の場合は保護するのが普通である。

 しかし、エウロラが捕獲された場所は、西のアッシリという場所であった。

 アッシリは、中央王国に所属する自治地域である。納税(貨幣ではなく物々交換)義務を果たしてはいるが、中央との交流を拒否する通称アッシリ族が暮らす。

 彼らは閉鎖的で、文明を害悪としている。

 そんな彼らは、アッシリの物を口にして生きている者は、アッシリの所有物であるとする。故に、彼女の所有権を主張してきた。

 そして、そんな奇妙な理屈を持ち出すアッシリの人々は、野蛮で執拗、そして攻撃的である。

 アッシリと近い場所に住む獣人共同体の者達は、困った。


 水だ。


 アッシリの土地は、水源地なのだ。

 そして、彼らの閉鎖された暮らしにより、その水源は清浄で安全を保っていたのだ。


 だから、中央も手を出さず、近隣の獣人共同体も共存を選んでいたのだ。


 エウロラという存在は、その均衡を崩す要因だ。


 子供は庇護すべき。と、いう考えもあるが、人々の暮らしも大切である。

 ここで獣人共同体が奴隷商とアッシリから買い取る事ができるならば、まぁ、皆で金を出し合う事もできた。

 多少の高い買い物ができないほど、西の獣人共同体は貧していない。


 問題は別だ。

 アッシリには貨幣経済が無い上に、金銭は悪魔を呼ぶ物と思われている。

 ならば物々交換ならば良いのか?

 問題は損得勘定ではなく、価値観の違いだ。

 解決に導くべき共通の価値観が無いのだ。


 アッシリの物を持ち出す事は罪である。


 つまり、奴隷商にはエウロラの捕獲は盗みであり、それを買い上げようとする獣人も悪であり、エウロラはアッシリの物である。

 もちろん、アッシリがエウロラを得たとしても、何をするわけでもない。今まで通り山野に放置するだけだ。


 奴隷商は山野で捕獲したエウロラが、何処の者とも領地所属もわからない場合は、彼らの財産として得る事ができる。中央王国の奴隷商の商法で保証された権利である。

 その手続きの為に、獣人やアッシリに正式に声をかけた為に、面倒な事になった。

 まぁ要するに、奴隷商としては真っ当な部類の商人だった訳である。現地情報には疎く甘いが。


 因みに、エウロラと名付けたのも奴隷商だ。

 エウロラとは西の遺跡から出土した女神像の名前である。女神像は幾つも出土しているので、名前もけっこう色々ある。縁起も良いしと女児だからつけたのか。

 ほぼ野生化した獣人幼児..薄汚れ痩せこけ、そして生えたばかりの牙と伸びきった爪で襲いかかってくる野獣につけるとは、さすが奴隷商である。


 話はそれたが、アッシリが権利を得てしまうのは、子供の為にはならないと、共同体もわかっている。

 人の文明も文化も知らずに、アッシリと同じく野卑野蛮の人生を送る。

 野獣のごとき生活を死ぬまでアッシリで続けさせる。など、比べるまでもなく駄目な話だ。

 そして誰も得をしないというのも、話が拗れる原因だ。


 皆、困った困ったと結論が出ない。


 そして答えがでない出来事に、答えを出したのが、この養父だ。


 否、養父ではない。

 悪党の襲撃か。


 アッシリと奴隷商、そして獣人共同体からの者が集まり、エウロラの所有権について相談していたのは、ヨランダという古代遺跡のある街だ。

 その街に悪党が押し寄せた。

 悪党とは、戦地から逃亡した兵士の集団だ。

 追われ喰い詰めて西に流れてきたのだろう。

 ヨランダは比較的裕福な街なので、こうした襲撃が多い。

 当然、領兵組織もあるのだが、その時は間が悪かったのか何なのか、街の中まで賊が押し寄せた。


 だがエウロラには関係無い。

 それより腹が減っていた。


 混乱が支配しているというのに、厨房に忍び込んで、手当たり次第に喰っていた。

 奴隷商の見張りも、相談中の連中も、すっかり幼児の存在を忘れている。

 賊の襲撃に、皆注意が向いていた。

 街中えらい騒ぎになっている。

 普通なら泣いて怯えるところだ。

 が、エウロラは、素晴らしい食材の方が気になる。

 だから火が建物に回るまで、もしくは奴隷商に運び出されるまで粘るつもりだった。

 たぶん、この時初めておいしいと感じた。

 それまでは、腹がすいていたから食べた。

 おいしいという感覚では口にしていなかった。

 感動である。

 幼児が感無量で食材を貪る。

 もし、獣人の大人達がその姿を見たら、膝をついて泣いただろう。

 子供、それも女児が、そんな育ちをしていたら、真っ当な獣人の男なら涙ぐむし、女なら怒りで破壊活動を始める。

 だが残念なことに、話し合いに来ていた大人は襲撃者を迎え撃ちに外に出て行ってしまっている。

 なのでまぁ、その時彼女は美味しいなぁ~と呑気に食べていた。

 生で貪る野生の動植物とは雲泥の差のおいしさである。

 胃腸が丈夫というか、鉄の胃袋というか、奴隷商が診せた医者も、彼女は健康体というお墨付きである。

 痩せて不潔であるが、それも奴隷商の努力で何とか人らしくした。

 今は両手に腸詰め肉を握っているが、生で野鳥を食いちぎっている姿よりは、マシである。


「それ、うまいか?」


 襁褓もとれない子供が、腸詰め肉を貪っていると男が話しかけてきた。

 全身返り血で真っ赤な男だ。

 唐突に現れた胡散臭い男である。

 普通ならば、恐れて逃げ出す。

 だが、腸詰め肉は胡椒が利いていて旨かったので、彼女は機嫌良く頷いた。


「一つくれ」


 それにエウロラは、嫌だと首を振る。

 食料に関しては、彼女はこの頃から絶対に譲らない。


「ケチ」


 男は隣にしゃがむと、阿鼻叫喚の表をにやにやと眺めている。

 厨房の出入り口、そこから外の残虐行為がよく見えた。表からは厨房内は死角という特等席である。

 エウロラは口を動かしながら、血塗れの武器を肩に担いだままの男を見た。


「休憩だ、休憩」


 幼児の視線に、男は答えた。

 我関せずと食べ続けていると、男は、シィリィヤンは言った。


「お前、妹に似てるなぁ。食い意地はってるところ。つーか、この状況でお前怖くねぇの?」


 怖いより、飢えが彼女を支配していた。

 頭の良い者ならば、いろいろ理屈で説明しただろう。

 彼女の飢えは、命をつなぐ為でもあり、不足した全てを埋めようとする行為だとでも。


 口を動かしながら、馬鹿にしたように見返す幼児の視線に、ヤンは笑った。


「なぁ、少しくれよ」


 それにエウロラは嫌々、腸詰めの切れ端を少しだけ男に向ける。


「おっ、旨い。焼き加減は生っぽいけどな」


 直接食いついたヤンに、エウロラは嫌そうに眉間に皺を寄せる。

 幼児の苦悩の表情に、彼は腹を抱えて笑った。


「まぁ嫌がるなよぅ。お礼に、その輪っかはずしてやるからよぅ」


 そういうとヤンは血塗れの武器を担いで立ち上がる。

 輪っかとは、エウロラの首にはまっている奴隷の所有を示す仮の首輪である。


「せっかくヨランダに来たのによぅ、何で俺の邪魔すんだよ、お前等よぅ~」


 ヤンは間延びした口調で言うと、奇声をあげて争いの場に走っていった。

 オカシイ人の行動はどうでもいいや。と、エウロラは食料を漁り続け、最後に満腹で眠った。



「腹減ったぁ~まだ、何かある?」


 目が覚めると、建物は焼けもせずに残り、通りには骸が転がっている。だがどうやら、襲撃は終わったようだ。


「酒は残ってるぅ?」


 血生臭い、酷い有様のまま食料を漁り出す。

 食うとは生きる事。

 生きる事は、浅ましい。

 浅ましいが、それが人だ。


「で、お前。親は?」


 酒瓶の栓を歯で引き抜くとヤンが聞く。

 言葉もろくに知らないが、エウロラは眉間に皺を寄せて歯をむき出しにした。

 こいつ、気にいらねぇ。と、言う幼児の姿は中々おもしろい。

 それが大層気に入ったらしく、爆笑するとヤンはエウロラを掴んだ。

 掴んで噛みつかれながら、輪っかを引きちぎる。


 シィリィヤンは、輪っかを外すと、エウロラの養い親になった。


 賊を殺して殺して、ついでに煩そうなアッシリの客と奴隷商も殺し。

 そして、エウロラは人族の男に拐かされたという事に、獣人共同体の者と口裏をあわせた。

 共同体の者からすれば、厄介ごとは万事解決。

 そして、ヤンにしてみれば、獣人の共同体に恩が売れるという話だった。


 シィリィヤンは、長命種でありながら、人族を己の一族を恨んでいた。だから、獣人との繋がりは生き残る上で必要だった。

 エウロラを引き取り養うという選択は、打算だ。

 そんな彼は、異常に強かった。

 ナヨナヨとした長命種ではない。

 頭のオカシイ人族の男は、異常に強く、力も強く、そして強いは獣人の正義である。

 おかげでエウロラの親は長命種だ。

 それも頭がオカシイ。

 酒ばかり飲んで、人殺しを請け負っているような男である。

 そしていつも陽気。

 不気味である。

 都に落ち着くまでの暮らしは、普通の子供ならば生きてはいなかったろう。

 なぜなら、この男には揉め事がついてまわる。

 旅をすれば盗賊に襲われ、宿場に泊まれば仕切るならず者に襲われ。

 その度に、その辺の女にエウロラを預けての殺戮劇だ。


 シィリィヤンは傭兵ではない。

 彼は、殺しを請け負う狂人である。

 当然、お尋ね者である。


 ただし、獣人領の仕事を請け負い、仕事として人族を殺すので問題ない。

 と、本人は主張する。


 問題がありすぎだった。

 賞金首で、人族領では陽の下を歩けない。


 エウロラは成長過程で、口先と逃げ足が鍛えられた。

 養父にそっくりだと、人種を越えて言われる程に。

 おかげで打算から始まった親子関係は、それなりに家族らしくなった。

 うれしくない。

 けれど年月をかけて二人で過ごせば、シィリィヤンが壊れた理由も知る事になる。

 壊れた理由や、笑顔で人族を殺す理由も、知る事になった。

 そして、獣人である自分を娘として育てる意味は、打算だけでもないという事もだ。


 そして恩を返すに値する行為であると、彼女は理解した。


 シィリィヤンは、野生児に教育を施し、食事と寝床を与えた。

 人としての暮らしと成長を、生き方を学ばせてくれた。

 打算だけと言い切るには、ヤンの行いは優しいものだった。


 己が救えなかった家族への思いだけで、長い寿命を潰している男。


 十分恩人だ。


 もちろん、この男の揉め事に振り回されてきた事を考えると、まったく割に合わない。


 今度の事も、ヤンが腹に穴を開けた事から始まったのだから。

 この酒中毒の男が、内臓をぶちまけて死ぬのは当然の未来である。

 エウロラも、いつか、この男は誰かに殺されて終わるのだろうと思っていた。


 思っていたが、現実は、想像したよりも怖かった。


 ヤンが死ぬのは、少なくとも自分が死ぬより後だと、どこかで思っていたようだ。

 長命種なのだから、破天荒に生きたとしても、自分よりは後に死ぬ。



 だから、ひとりぼっちになる心構えなど、できていなかった。

 飢えた野生児の頃、一人だったが平気だった。

 平気だったのは、知らなかったから。

 エウロラだって普通の子供だ。


 ひとりぼっちは悲しいと感じる人間になったのだ。


 だから、いつもの仕事で死にそうになるんじゃなくて、たまたま居合わせた酒場の争いに巻き込まれて死にそうになるなんて、想像もしていなかったし、現実になれば、怖い。


 後から考えれば、シィリィヤンが酒場で女がらみで殺される。等という可能性は山ほどあるとわかる。わかるし、鼻で笑えるが。


 油断しきっていた。というより、ヤンを殺すのが女であるという可能性を、エウロラもヤンも忘れていたのだ。

 武器なんかもった事もないような女に、包丁で刺される。


 今なら、死んで当然だと思える。

 この男は、女に刺されて死ぬほうが世の中の為だ。


 それも女同士の諍いに仲裁に入った末に、腹を刺される。


 間抜けだ。


 間抜けな上に、その包丁と思っていたブツが悪かった。

 毒とか呪いか何だか知らないが、普通の包丁じゃぁなかった。


 ヤンの揉め事を引き寄せる何かが働いたとしか思えない。


 腹にその包丁が突きたった途端、ヤンが意識を失った。

 剣でザクザク切りつけられても、笑って反撃するような狂人がだ。



「腹の傷、どうよ?」


 やっと声を出した娘に、ヤンは笑った。

 爽やかに見える笑顔に、エウロラは嫌な顔をした。

 幼児の頃に返した表情と同じだ。


「おかげで塞がってきた。お前のおかげで、助かったよぅ。酒が旨いね、でなぁ」


 無精髭を指で撫でながら、ヤンは唇をつきだして考えるそぶりをした。

 滑稽なしぐさが、何故か滑稽に見えないことに、エウロラは苛ついた。

 こういう芝居臭い仕草で話す内容に、良い話は絶対に無い。


「また、借金かよ。それとも、誰を仕事で消すんだ、あぁ?違うな、何だよ、また、誰かの揉め事にひっぱりこまれたのかよ。勘弁しろよ」


 それにヤンは、下品にゲヘゲヘと笑った。

 下品に笑っても、顔が整っていると下品の割合が減る。代わりに苛つきが増えるが。


「ん~、ど~すっかなぁってさぁ~」


「間延びした声出すんじゃぁねぇ、苛つくんだよオヤジ」


「ん~そうか」


 シィリィヤンは、瞳を輝かして言った。


「お前を殺そうとした奴、あぁなっちまったろぅ?だからさぁ、代わりに、トーチャンは、誰を殺そうかなぁ~ってな」


 エウロラは枕に頭を沈めると返した。


「アンタが何にもしなけりゃ、アタシは無事なんだよ」


 それにクスクスと笑いながら、ヤンは楽しそうに言った。


「やっぱ、娘が虐められたら、トーチャンは仕返ししねぇと」


「話聞けや、こら」


「という事で、トーチャンは、出かける事になりました。」


「..まぁ、いいよ。ここの家賃は確か来月まで払ってあるしな」


「うん、お前は良い子でお留守番な。トーチャンが帰ってこなくても、泣くんじゃぁないぞぅ」


「..泣かねぇから。で、どんな感じの仕事なんだ?」


「言ったろうが、お前を虐めた奴を殺す代わりに、お前を泣かした原因を潰すって」


「何言ってんだよ」


 美しい瞳は、きらきらと輝いていた。

 そこに常人の理性は無い。

 美しい瞳の狂人は、にこやかに彼女に言った。


「公王が破格の報酬をだしてくれる。

 どうやって調べたのかねぇ。

 公文書にして正式に報酬を約束してくれたんだよ。すごいねぇ。」


「ヤンのオヤジよ。どういう事だ?」


「お前は俺の治療の為に神殿に行った。

 お前は、俺を助けた。

 代わりに、仕事を引き受けた。

 そして、十日も死にかけて眠った。

 お前の父親は、その仕事を引き継いだ。

 お前の約束は、俺の約束だからな。」


「仕事って..しくじったよ。都中が知ってる」


「都の誰が知ってるんだ。

 お前は、複数の者から圧力を受けた。

 この、俺の所為でだ。

 神殿で、お前は脅されたんだろう?


 あのお姫様を守ってほしいという勢力と、お姫様を踊らせて旨い具合に使おうという勢力からな。


 お前はできうる限り、両方の要求に応えようとした。

 踊らせつつも、守ろうとした。

 お前も一緒に踊れば、彼女を守れると思ってな」


「馬鹿だったんよ」


 エウロラは天井を見つめた。

 仰向けで寝ころび、あの時の自分を思い出すと叫び出したくなる。

 愚かで無能な、自分を、消したくなる。


「誰だって想像もできなかったろうよ。

 お前は、俺みたいな人殺しが彼女を狙っていると考えていた。

 祭りで踊る事だって、きっと貴族のお家騒動だと考えていたんだろう?

 偉い人の隠し子で、神殿の俺の傷やら毒やらを何とかしてくれた人の家族で、だから、お前は守れると思った。

 お前は力もあるし、お姫様ぐらい担いで逃げられると思ってたんだろう?

 まわりには偉い貴族やら強い兵隊もいる。もしも何かがあったって、大丈夫だと考えた。」


「アタシが馬鹿だった。オヤジや、もっと別の強い奴に言えば良かったんだ。それか、踊らせようなんてしなけりゃ」


「しなけりゃ、今頃、俺たちはいない」


 シィリィヤンは笑った。

 楽しい話をしているかのように。


「お前のお姫様がいなけりゃ、みーんな死んでいた。偉い貴族も王様とやらもな。神殿の奴も、俺の嫌いな奴らも、全部な。まぁ愉快な話だよ。


 そして、今更、魂の欠片に人間性とやらが残っていた悪党は心底ビビっているだろうよぅ。


 お前等の魂は、死んだ後、地獄の悪鬼に苛まれるとなぁ。


 あぁ、俺は今、最高に幸せだ。


 こんな幸せをくれたお方に、恩を返すのは、筋じゃぁないか?俺の娘よ。」


 無言で見返すエウロラに、彼は嬉しそうに言った。


「神なんぞ信じないが、地獄は確かにあるんだ。これほど素晴らしい事はないじゃないか!」


「違うよ、オヤジ」


「ん?」


「神も地獄も知らないが、優しい人はいたんだよ。まるで」


「まるで?」


 にこやかに繰り返す男に、エウロラは言った。


「母親みたいに守ろうって人は、いたんだよ」


 ヤンは、一口酒を飲むと、微笑んだ。


「そりゃぁ、びっくりだ。俺の知ってる母親とは大違いだね」


「うん、アタシの知ってる女どもとは大違いだ」


 暫く、エウロラは泣いた。

 やりきれない思いが溢れて辛い。


「でだ、お前が柄にもなくメソメソしてるから、トーチャンはやっぱり出かけてくる。」


「だから、何するんだよ。アタシの仕事は終わったんだよ。しくじってパァだ」


「何でだ?」


「姫が死んだ」


「ふーん」


 カッとしてエウロラが枕元の水差しに手をかける。

 それを見て、慌ててヤンは水差しを奪い取った。


「アブねぇ、勘弁」


 唸る娘に、彼は水差しを遠ざけた。


「死んだって、誰が?」


「姫が」


「死んでねぇよ、たぶん」


「だって」


「公王の依頼はよ、水源地の調査だ。

 その調査には、俺とお前の依頼主と、お偉い貴族とそのおつき。そしてお前の知ってる警衛警備の隊長。それから、えーと、そうそう、おっかねぇ兵隊の一団が行く」


 ぼりぼりと無精髭をかくと、ヤンは娘の表情を観察した。


「おっかねぇ兵隊は、獣人領でもよく知られた奴らでな。その頭は一番の猛者だ。

 今の獣人王家の末に名前がある、面は現大公にうり二つでな。

 その男が指揮をとる。

 でな、男はな、諦めてねぇんだ。

 何しろ、地獄の悪鬼を追い返したんだからなぁ、あの男はぁ。」


「諦めてない?」


「お前、昔読んでやった絵本覚えてるか?」


 わからないと言う表情の娘に、ヤンは人差し指を振った。


「お姫様は、幸せになるんだろう?」


 エウロラは目を見開いた。

 窓辺から風が吹き込んだ。

 乾燥した風が室内を巡る。


「腹、減ったな。粥じゃなくて、肉にするか?」


 ヤンの問いにエウロラは頷いた。

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